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フィリピン ボランティア滞在記 2

      2017/03/27

 

 洋裁の生徒さん達ともうちとけて活動の始まりです。これは「主婦達の手に職を」というスワル市の要請をNISVAが受けたもので、ボランティアは任期を概ね1年で引き継ぎ、妻は3人目でした。現地代表が市長や担当部長さんなどと調整し大きな枠組みを作り、私達は細部の連絡を取り合って動き出しました。

 市のトレーニングセンターの縫製教室で、平日の9時頃から午後2時頃まで活動することになりました。私達が滞在した期間に延15名ほどの人達が教室を訪ねて来ました。以前から続けている約10名の方々は、すぐにお顔と名前が思い浮かびます。多くは農村の主婦でした。
 前任のお二人の方が縫い方などの基礎は教えておられ、私達が着任した時は、皆さん主にエコバックや日よけ帽子を作っていて、注文受けや販売で収入も得ていました。

 

 

今度は自分で着る服を作りたい!

 妻は生徒の皆さんと相談し、「今度は普通の服を作りたい」という希望に従い、最初にブラウスを作ることにしました。生徒さん達は大変嬉しそうでした。型紙作り・生地の裁断・縫製という手順になります。

 ミシンは古い足踏みが約10台と高速の工業ミシンが1台ありましたが、大きな縫製工場のお古を安く譲ってもらったようで、全部が円滑に使用できる状態ではありませんでした。大きな巻きの生地が棚に重ねてありましたが、殆どがバック・帽子用の物なので、ブラウス用の生地を買いに、妻は2名ほどの生徒さんに案内してもらい、バスで1時間余のダグーパンという大きな地方都市に行き、皆さんの好みの生地を買ってきました。

 

手作りできる嬉しさに盛り上がる教室

 先ず型紙作りです。各人採寸し、皆さん自分が着るものを作るということで型紙を作ります。妻は、大事な基本を強調・指導した上で、難しい箇所は手をとって教えていました。直ぐに教室に活気が出て盛り上がってきました。
バッグや帽子の縫製とは違い、皆さんとしても楽しそうでした。時々縫製工場からの単純に縫う仕事が入ったりすることもありましたが、そのような時も個別の指導は続け、ブラウスは、早い人は2~3週間で仕上げ、2着目にとりかかるなど嬉しかったと思います。写真は、少し時期的に前後するものもありますが、教室での様子です。

 初めて自分で作ったブラウスを着て笑顔の生徒さんたち

 

パワフルな庶民の足

 さて、宿舎から町までの往復は歩くには遠く、「トライシクル」というオートバイに屋根付きのサイドカーをつけたもので通いました。町までの片道は3km程です。料金は25ペソ(50円)でしたが、ある生徒さんのご主人と契約して送り迎えしてもらいました。

 二人が座れるのですが、あちらの人達は4人くらい平気で乗ります。時には6人くらいがしがみついて乗っているのも見かけました。

 

 楽しそうです!

 フィリピンでは、大きな地方都市でもタクシーは殆ど走っていません。都市(町)の中は、「トライシクル」と他に「ジプニー」という乗り物が殆どです。後方から乗り降りし20人くらいが乗れる屋根付きの小型トラックで、国民の足としてどこでも普及しています。

 

 

 これがジプニー、
  天井が低くてぎゅうぎゅう!

フィリピンはショートメールが凄い!?

 スワルに着き日本の家族に連絡せねばなりません。妻にはNISVAから「ノキア」の携帯電話が貸与されていました。通話とメールだけの機能で小さく簡単なものです。私もダグーパンの店で買いましたが、約1,500ペソ(3,000円)でした。プリペイドカードの番号を入力して使います。300ペソ(600円)のカードで、日本との通話は2分程度で3回くらい出来たと思います。
 携帯電話は普及していますが、殆どが「ノキア」とかの物で日本製は見当たりません。高品質でも高くては売れないのです。また、通信会社と契約している人は周囲にはいませんでした。通話は大した費用ではないのですがメールの方が安く、皆さんは殆どメールで済ませます。略語を使うなどのテクニックと送受の速さは驚くべきものです。「フィリピンのショートメールの凄さは、実は有名なことだ」と、三井物産に勤めていた義弟に後で聞いて納得しました。

 

ネットカフェで日本と通信

 次にネット通信ですが、小さな無線通信器具をPCに着け、携帯電話と同じくプリペイドカードで通信できるのです。さっそく宿舎から試みてみましたが、電波が弱くて繋がらず諦めました。これも有線回線で契約している人は身近には全くおらず、市庁舎に来て回線を使ってよいと言ってもらったのですが、気安く使えるネットカフェに行くことにしました。
 田舎町のスワルに2店ほどありました。狭い店内では10代と思われる子供達がゲームに興じていましたが、おそらく裕福な家庭の子だろうと思いました。新たにYahooでメールの設定をして、私達の状況をNISVAと家族などに知らせました。日本からも返信が入るようになり、7月末にダグーパンのアパートに移るまで2日~3日に一度通いました。
 料金は1時間25ペソ(50円)でした。私はどこでも「滞在させてもらっている」という気持でふるまうように努め、店の主人とも顔なじみになりました。オーバー時間の料金をとらないこともありました。私のノートPCを眺めて、笑顔で「Good Machine」と言ってくれました。

 

スコール、炎暑、想いは70年前の夏へ

 前後しますが、私達は、ルソン島の北部では最も暑い4・5月が過ぎ6月初めの雨季になる時にスワルに入りました。雨季は確かに雨が多く毎日のよう降るのですが、1・2時間だけ強烈に降る、いわゆるスコールです。日本の梅雨のようにはじめじめとしません。宿舎では扇風機だけでしたが、寝苦しいことは殆どありませんでした。

 

 でも日中に外を歩くと、陽射しが強く暑くてたまりません。ネットカフェに通うようになってすぐの頃、教室へ帰る道をてくてく歩いていましたら、戦争末期のルソン島に米軍が上陸し追われた日本軍のことが胸に浮かびました。「暑かっただろう。苦しかっただろう」などと思っていたら目頭が熱くなり、私は道から外れた人目につかない木陰に入り、日本軍主力が後退したバギオなどの北に向かい深く頭を下げました。

 戦争末期連合軍が島に上陸、日本軍は北部山地へ追いつめられ、激しい戦闘の末ついに制圧された。

 

2回目はこれくらいにさせていただきます。

 

 

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