私とリクルートと江副さん(受注管理課から財務課へ)

      2018/05/06

 

 

オイルショックを乗りこえて

 経理部門へ移動し、4千万円の売掛金回収は2か月で完了しました。続く仕事は販売管理でした。1971年~1973年当時の日本経済は、ニクソンショック、オイルショック等で一時的に不況の風が吹き荒れました。採用を手控える企業もありました。リクルートも少しでしたが影響を受け、受注した売り上げにキャンセルも発生しました。

 営業部門は一度計上した売り上げをなかなか修正しません。江副さんから、正確な売り上げを知りたいと要望があり、私は営業マンの間を歩き回り、実態を把握しました。営業課長ではなく営業マンから直接聞き正確な情報を得ました。入社5年目、営業マン出身、もうベテラン社員でした。オイルショックも一時的なものに終わり、日本は高度経済成長へ歩み始めていました。

 

営業マンの足を止めるな!

 受注管理課の仕事に目途がついた1年後の1972年12月、今度は財務課へ移動、現金出納、資金繰りを手伝うことになりました。  現金出納では毎日高卒の女子が夜遅くまで残業していました。江副さんの指示で、現金出納は毎日出金です。社内預金引き出しも毎日です。江副さんの『営業マンの足を止めるな』の考えです。営業マンは交通費が必要でした。その日暮らしの社員が多かったからです。(社内預金の金利は6パーセント、便利で利回りの良い預金でした。決算時に日分で細かく利息計算をしていました)

 

 前日提出された、交通費・経費等の請求伝票を翌日午後には出金するのです。100件以上の出金だったと思います。毎日銀行に現金を引き出しに行きます。1日締めて伝票残と金庫残のお金が合うまで残業でした、銀行と一緒です。それを出金時に、間違いが無いか判明する仕組みを考えました。必要な現金を必要な金種で、おろしてきたのです。出金封筒に入れて、お金が余ったり不足すれば間違いが分かる仕組みです。銀行の協力を得て行いました。これで残業の原因、悩みは無くなりました。しかし仕事の絶対量は増えるばかり、結果残業は減りませんでした。毎晩タクシーで女子社員を京王線つつじヶ丘にある寮へ送り、八王子狭間まで帰る日が続きました。

 

突きぬけた人財を産むリクルート

 そんな中、特異な高卒女性社員がいました。残業はゼロ時間、そう、5時に退社して夜間大学に通っていたのです。仕事時間は9時―5時まで、生産性が高い勤務です。寮生活をしながら、仕事と勉学を両立させていました。やがて税理士資格を取得し、リクルート退職後は税理士として独立、結婚、子育ても、山歩きの趣味も続けている、現代女性の鏡のような存在です。リクルートにはこのような人材が豊富でした。人材を産む環境がありました。江副さんならではの、環境作りでした。

 

 

 

 

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