私と福岡高校(6)宮本義海、栗川稔、藤本茂

      2017/06/25

 

 福高生活は私なりには楽しい3年間だったと思っていますが思い出もかなり怪しくなってきています。その中で一つ良かったな~と思うことがあります。それは体育祭です。

 実は、1年生の時は夏休みに発症した病気の為10月下旬まで長期入院生活を送りました。退院まじかに体育祭があり外出許可が出て、親父に付き添われて一時間くらい外野席から見学出来ました。中学までにはないスケールの大きな応援合戦やフォークダンスを羨ましく感じたのを覚えています。

 病院に戻る道中、多分しょんぼりしてたのでしょうか、親父が天神の福岡ビルの地下で旨い寿司を食べさせてくれたのを覚えています。もっとも一番のショックは長期欠席明けで授業を受けた時、数学の進み方が早くて全くついていけなかった事でしたが・・。 消沈。

 そして2年生の体育祭が近づいてきたころに分かったことは、部活をしていた水泳の県大会と重なっていた事でした。水泳部全員公欠扱いで久留米に行きました。 残念。

 
 

 いよいよ3年生の体育祭が来ました。やっと初めて体育祭に参加できるのです。私たち8組は7組とCブロックでした。オッチョコチョイの私は応援団長の今は亡き中島亮三君のもと副団長を引き受け今回ばかりはと頑張りました。そしてCブロックは「アラビアのロレンス」で優勝したのです。

 スタンドの丸太搬入、穴掘り、とび職さんに番線の結び方を教えて貰いました。応援合戦ではスタンドの下から、軋むスタンドの音にビクビクしながら人文字の合図を送りました。それに泊まり込みの朝、女性陣が差し入れてくれた弁当は旨かったで~す。

 まさに三回分の体育祭を一回で十分満喫できた体育祭でした。 青春。

 そして時は流れ何の因果か、山屋だった男が海屋になってダイビングスーツ屋のおやじを今もやっています。ひょんな事から青柳君、向野君にもご愛用頂いております。 感謝。

 

 福中・福高創立100周年記念の東京福高同窓会が5月13日(土)、東京品川のホテルで、700名を超える福高OBの参加で開催されました。

 詳細は藤会長の報告が掲載されていますので、割愛しますが、100周年記念同窓会の担当副会長として、盛大にそして無事に終了した事でほっとしています。

 振り返ってみれば高校卒業後、半世紀にもなるのですね。

 校長先生の話によると、現在福岡高校の生徒の数は男女ほぼ同じ。ラグビーは女性がジャパン代表に選出され、男をしのいでいるとか。なんと、応援団も2年続けて、女性が団長だとの事。

 

 

 余生は俳句でもひねって過ごしますか。

東風吹かば 惚けてとぼけて70年  ひげ坊主

 

 香椎からの福高への通学は「西鉄」で通う人が多かったが、国鉄勤務の子弟で定期代が無料だったので、鹿児島本線の香椎から国鉄で、古賀から来る三塩晋作君と佐藤勝利君との3人で、同じ乗車位置に乗り通学した。

 まだ時々は機関車が走っている時代で、朝の通学時には、自動ドアではない客車が来たので、扉を開けっ放して乗り、大きく曲がるときのスリルを毎朝楽しんでいた。

 2年までは、吉塚より距離が近い旧博多駅まで行くことが多かったが、3年になって新博多駅が南に移り遠くなったため、吉塚で乗り降りすることとなった。3人とも、部活をしておらず同じクラスだったので、帰りもほとんど一緒だった!

担任は、1年斎藤先生、2年青柳先生、3年川崎先生であった。

 中学までとは異なり、選択した科目ごとに教室を変わるのが珍しく、違うクラスの女性を見ることができる唯一の機会でもあったので、それが楽しみだった!

 なんの才能もないので仕方なく音楽を選んだが、実技試験の際は、音感のない僕が当日渡された譜面通りに歌える筈もなく、仕方なく、ひとつ前で譜面通りに歌える音楽部の男性(三井所君?)の真似をして何とかしのごうとした。最初の数小節はなんとか真似できたものの、後の方になると覚えることができる筈もなく、あえなく最後は撃沈した!

 中国からの引揚者で家が貧しかったので浪人するわけにもいかず、近所に下宿していた九大生から、九大農学部農芸化学科の就職先が、キリンビール、武田薬品、味の素、明治製菓、江崎グリコ、鐘淵化学などであることを聞き、将来の就職先のことを考え九大農学部を受験することとした。

 幸いにも、福高の先生方の抜群の九大入試問題解析能力から、実力考査で解いた問題と似たような問題が出た効果もあり、何とか現役で合格できた。

 

 

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