私と福岡高校(7)齋藤利久、阿部保之、市丸幸子

      2017/06/25

 

 5月13日、東京での福中・福高創立百周年記念同窓会に出席しました。この大きな節目にめぐり合わせたことをありがたく思います。同窓会に長年貢献された先輩の告別式が同窓会当日、どれほど心残りだったことでしょうか。

 私には恩師というべき先生がいます。中学2・3年の担任でした。

 市内の受験生が受ける模擬試験の結果をみて先生は「合格はするだろうが入学後は大変だ。この成績ではよくても中位程度。しかし努力次第で今より少しは上がる可能性がある。くさらずに努力をすれば福高が君を引き上げてくれる。名門校といわれる学校の力だ」と言われました。
 先生のお言葉を時として忘れることがあったものの努力し、数ならぬ身の私ですがささやかなりとも公のために働くことができました。

 ところで福高時代の思い出といえば、何といってもクラブ活動です。新聞部で二年余の間「福高新聞」の編集に携わりました。記事の編集や広告取りでの苦労や失敗を今でも時折思い出します。また部顧問の先生方などに生意気なことを言ったことも多々あり、今思い出しても汗顔の至りです。

 そして東京同窓会では「東京あさぼらけ」の編集にその創刊時より現在まで19年間携わっており、この歳になっても高校時代と同じようなことをやっています。その間多数の卒業生に会いましたが、その中には福高での教育に批判的、否定的な方が少なからずいました。

 私は心の中で「そうは言っても、福高の名門力のおかげで今のあなたがあるのですよ」と思っていました。

次の100年後、母校福高がさらに誇り高い存在となっていることを心より願っています。

 

 福中・福高100周年おめでとうございます。

 私は、防大から海上自衛隊に進みました。昨年、大隅良典氏がノーベル賞を受賞された際、昭和20年生まれと報道され、多くの海上自衛隊の同期、後輩から、(先輩)の同級生じゃないのか?等と尋ねられ、大隅先生は、早生まれだから1期先輩だよ!と、回答した次第です。

思いがけず、時の人の後輩になり、ちょっぴり豊かな気持ちになりました。

 

私たちの高校時代、女子の体操着は「ちょうちんブルマー」であった。

体育の時間になると、男子の視線が下半身に痛くつきささり(幻覚?)、皆で指を差して笑っているように感じた(幻聴?)。
何を指さしているかというと、私の太ももである(被害妄想?)。太っているからである。

以後半世紀以上にわたる、私の異常なまでのダイエットへの執着(現在も継続中)は、高校時代に培われたといっても過言ではない。(笑)

もちろん、福高時代、ブルマーのことばかりを考えていたわけではない。

好きな授業は、日本史、漢文、古文などであった。万葉集の大らかな恋歌に心惹かれたり、

あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る  額田王

杜甫の春望「国破れて山河あり  城春にして草木深し」や、張継の「楓橋夜泊」などの壮大な世界観には、初めて魂が震えるという体験をした。

張継 楓橋夜泊

月落烏啼霜満天  月落ち烏(からす)啼いて 霜天に満つ
江楓漁火対愁眠  江楓漁火 愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺  姑蘇(こそ)城外の寒山寺
夜半鐘声到客船  夜半の鐘声 客船(かくせん)に到る

福高で目覚めた日本史への憧憬は、その後歴史小説を読みあさり、勝ち戦に乗った武将には興味がなく、負け戦と分かりながら「義」を選んだ武将に心を寄せるようになった。

また旅行で名城を訪れると、天守閣に登り、落城に際して自ら火を放った城主や、運命を共にした女性たちの想いに心を馳せるのが常になった。

しかし何といっても、福高で得た一番のものといえば
恩師や旧友たちからいただいた無償の愛や友情、青春時代をともに過ごした思い出、そしてあの校門をくぐった者だけに許される誇らしさだろう。

それは、いつどこにいても私の心を温め、この身を離れることがない。

 

 

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