私と福岡高校(2)馬渡和夫、田中功也

      2017/06/15

 

 70歳を過ぎた長い人生の中での福高時代の3年間は、短い期間であるが、私のその後の生き方を決定づけるための重要な時間だったと思う。福高に入学できたことから九大、就職とつながり、自分としては定年まで満足できる仕事ができて、現在の生活が送れることにつながっている。

 

 高校3年間は、しっかり勉強して、九大に入りたいと言うのが福高生の平均的な考えではなかったかと思う。先生方も一人でも多くの生徒達を九大に入れるために頑張っておられた。  

 

 在学中の重要なイベントは、各学期の中間テストと期末テストだろう。私はこのテストの10日前頃から、各教科のテスト当日までの復習の予定を綿密に計画する。この予定が実際に計画通り実行されたら、成績も上がったかも知れないが、満足する結果が出せないのが常であった。この未達の要因は、計画した時間帯に面白いテレビ番組(プロ野球中継、事件記者、ローハイド等)が放映され、ついついテスト勉強が疎かになった。

 

 


 また、テストが終わったその日が解放感に満ちた一番楽しい日で、名画座(名前は定かでない)で2本立ての映画を見たり、冬場は天神の西鉄スポーツセンターでアイススケートをしたりして楽しんだ。スケートでは、貸靴では飽き足らず、ホッケー靴を買ってもらって楽しんだ。

 今振り返って考えると、本当に苦しい受験勉強に集中したのは、受験日の3か月くらい前からで、その期間を除けば、結構楽しい思い出が多かったと思う。

 

 

 

 

 福中・福高創立100周年、おめでとうございます。記念の募金活動では寿禄会の会計幹事として、母校に少しでも恩返しができればと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 クラブ活動に精を出したわけでもなく、スポーツや趣味、勉強に打ち込んだわけでもない。福高時代ごく平凡な3年間を過ごした私には、とりたてての思い出話はない。

 断片的には、初めてラグビーや柔道を経験したが、眼鏡禁止でよく見えず思い切り出来なかったこと、体育祭のとき、他校の女子から借りたセーラー服を着てスタンドの前で応援演技をしたこと、数学の授業で当てられて黒板の前で立ち往生したこと、物理の授業でいつも眠むかったこと、久留米の明善高校との交流会、福高で開いた高1の時、校歌斉唱で負け悔しかったが、明善高校で開いた高2の10月は皆大きな声で歌い上げ断然勝っていて誇らしく思ったこと、初めてのデートのことなどが浮かんでくる。

 筑紫郡の中学の同学年におさげ髪の可愛い娘がいた。遠くから見ているだけで口をきいたことはない。3年の6月、私の転校を知って寂しそうにしているのに気づき、転校後、思い切って文通を始めた。福高に入学して1年後の春休み、初めてのデートが実現。香椎駅に出迎え、海岸を散歩。ボートで御島に渡る。別れて2年近く、スマートだった彼女は成長し、漕ぐのが大変だった。

 ほかの人と違っていることを挙げれば、福高への入り口と出口のことだろうか。小学校卒業まで千葉県の市川市で過ごし、昭和33年春、父の転勤で雪の舞う関門海峡を越え、筑紫郡の雑餉隈に移り住んだ。当時父の俳句仲間に福高の平山先生がいた。句誌「雲母」と「氷下魚」に投句していたので、どちらかの句友であろう。そのつながりで名門福高を知って、我が子を入学させたいと思ったらしい。福高校区で毎年多数の合格者を出している香椎中学の近くの社宅にたまたま空きが出て、中学3年の6月に転居転校。孟母三遷ではないが、筑紫郡ののんびりした中学から、スパルタ教育の中学に移った。恐怖の8ヶ月を乗り切り、めでたく合格。一生のうちで一番勉強したような気がする。転居していなければ、筑紫丘高校に行っていた。

 高2の3月、父の転勤で家族は大阪に転居。いっしょに行くことも考えたが、知らない大阪の高校より、2年間を過ごし愛着のあった福高の卒業生に名を連ねたかったので、残ることにした。高3の1年間下宿生活を送り、無事に卒業。下宿のおばさんが毎日弁当を作ってくれたのだが、嫌いな椎茸の煮つけの大きいのがいつも入っていて閉口した。

 

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