一丁目の夕日~住田家の人々~【第一話】地金拾いと紙芝居

      2024/02/06

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【 第一話 】 地金拾いと紙芝居

 戦後10年。日本の地は荒れていた。九州はそれ程でもなかろうと思うだろうが、原爆が投下された長崎は全てが破壊され、かなりの月日が経っても空き地、川の土手は家財・資材などの残骸置き場であった。
 私たち子供たちは小遣いは貰えるものだという気持ちはなく、遊ぶ銭は自分らで工夫して稼いだ。そして、一番手近で実入りのいい仕事は「地金拾い」であった。

 

 

◆長崎市片淵町一丁目三十五番地。
 狭い路地から見上げる夕日はいつも赤かった。

 上長崎小学校の裏に西山川という川幅20m程だが、深さ0.5mの浅川がある。深くても子供の腰回りくらいなので溺れる心配はない。川縁りでドンポ(川ハゼ)を両手で追い回しては掬った。そして戦利品を串刺しして、焚火で食った。
 その川底には戦時中の金具・金屑が溜まっており、それを拾いあげ、そしてまた土手のゴミ置き場からも金物を拾い集めては、屑屋の庭先に運び込んだ。
「おいちゃ~ん。今日はこんだけ~」

煤で汚れた軍隊シャツの親父が動かす分銅の目盛りを、計り間違いはしないか瞬きもせず、キッと睨んだ。片淵一丁目は「目盛りと差しで勝負する世界」であった。

 単価は忘れたが、一日の収穫量からは5円ほどになり、それは飴玉10ケに化けるか、或いは紙芝居の見物料となった。演し物は「黄金バット」と「鞍馬天狗」。
 二本の割り箸で掻き取られた水飴を、小さな煎餅と一緒にグルグル、グルグル。真っ白になるまで掻き回しては、ペロペロ舐めながら馬糞紙の画面に食い入る。
「あ~っ、おいちゃん。この子、飴ば買わんとに見とぉよ」
「よかよか、見てもよかけん、後ろの方で見んしゃい」

 紙芝居のおじさんは自転車の見台を高くして、その子が見易いようにしてあげた。
「杉作、日本の夜明けは近いぞ~!!」 ジャジャ~ン♪

 裏の筋では、ドッカーン!! 「ポンポン菓子」の爆発音が鳴り響く。円筒窯に水とお米とザラメを入れて回転蒸しする。そして一気に蓋を開け、減圧爆発でポンポン菓子が舞い飛ぶ。
「水飴」と「ポン菓子」。片淵一丁目は「夢に満ちた世界」であった。

 当時、毎日の遊びは「パッチン」だった。博多では「ペッタン」と呼んだが東京 で言う「めんこ」である。長崎では地面ではなく、みかん箱の上が土俵となり、そこから相手を落とすのが勝負。落としたら自分のものにでき戦力が増える。
 「な~んか、お前のパッチンおかしかねぇ、見しぇてみろ? あ~、裏に蝋燭ば塗っとぉ。反則や~」

「俺のパッチンば返しぇ~!!」
いかさまがバレたらもう寄って集っての大騒ぎ。この頃の少年雑誌は「冒険王」と「少年クラブ」。地金の稼ぎでは買えない。加えて、雑誌のおまけにペッタンが付いているので、金持ちの子供は漫画よりおまけ欲しさに本を買うなど、貧乏人の我々にとっては全く許せない不心得であり、ましてや「いかさま」するなど許し難い所業なのである。

 片淵1丁目は、幼いながらも「意地がぶつかり合う世界」でもあった。

 貧しい生活であったが、母は子供たちのために何とかやりくりして、決して安くはなかったであろう牛乳を、一本取っては三つのコップに分けた。
 木製の牛乳箱はお勝手口の下に置かれていたが、或る頃からその牛乳が毎朝消えた。販売店さんは言う。「間違いなくお届けしましたよ」。そこで翌朝、母は早起きして台所に潜んだ。明け方まもなく「ガチャガチャガチャ」自転車が止まる。「カチャカチャカチャ」瓶の入る音。

 それから暫く。じっと蹲って耳をそば立てていると、今度は「カタ、カタ」瓶を取り出す音。
すかさずガラツ!!勢いよく勝手口を開けた。何とそこにはお隣の少年が、立ちすくんでいるではないか。母は吃驚し、一瞬どうしようと狼狽えた。 すると、少年は矢庭に牛乳瓶を板壁に投げつけた。ガチャ〜ン!!白い飛沫が舞う中、彼は逃げた。母は割れた瓶を拾い集め、お隣さんのお勝手に回った。お隣の奥さんは飛び上がった。その日の内に、奥さんは菓子折を携え、息子の耳を引つ張って詫びに来た。お隣はもっと"貧乏"だった。
 それから数日後。母は表で遊んでいるその子に出会った。俯く少年に優しく言った。
「お菓子ばあげるけん、いつでんお出で。お母しゃんには内緒ばい」。少年は小さく頷いた。
 片淵一丁目は「人情の漂う世界」であった。

 

■筆者注

●第2話以降は、(2)お諏訪さん、(3)兵隊おいちゃん、(4)蔭ノ尾原風景、(5)コンクリの下に消えた島、(6)ピカドンその時と続きます。
●(6)ピカドンその時は、悲惨な体験で、今なお悲劇は続いています。原爆即死者21万人。昨年までの死亡者累計50万人。一方、原爆手帳を持つ生存者は遂に12万人を切りました。私はその最年少に当たります。つまり胎内被爆の生き証人を担っているわけです。
●昭和20年8月9日午前11時2分。明るい陽射しの中で、生まれ来る私の肌着を縫っていた母は、突然の「ピカッ」という閃光と共に、ビビビッと振動するガラス障子の高鳴りに、思わず壁際に身を寄せた瞬間、「ドーン」という大音響とともに、全てのガラスは吹き飛びました。爆心地より3.7km。平坦な広島であれば即死でしたが、金毘羅山が横たわる長崎の私は無傷で生き残りました。

 

 

 

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