フィリピン ボランティア滞在記

      2017/02/12

 こんにちは、竹田範弘です。横浜市で元気に暮らしています。私は福高卒業と同時に防衛大学校(横須賀市)に入校しました。関門海峡越えは2度目、関東の地は初めて踏みました。

 防大卒業後は陸上自衛隊の普通科(歩兵)部隊等で勤務し、平成12年秋に定年退職しました。その後警備業の仕事をしておりましたが、海外でボランティアをしたいという妻の願望を後押しして、平成21年5月から翌年2月までの約8ケ月間フィリピンに滞在しました。今回投稿のお勧めをいただきましたので、思い出に残ることを書かせていただきます。

 

突然妻が口にしたボランティアの願い 

 私の妻は、突如として大変な事を言い出すことがあります。しかし、一時の思いつきではなく胸に秘めて考え続けているのです。海外ボランティアの話は、私の母が亡くなった半年後の平成18年の年末に口にしました。(父も既に他界していて、つまり、お世話する可能性の対象がなくなり、自分の両親はまあまあ大丈夫?という訳でした)
 妻が海外で出来ることあるのか?と私は思ったのですが、「洋裁を教えることが出来る」と言うのです。「今時、洋裁などどんな開発途上国でも教える人は居るよ」と私は言ったのですが、妻は早速にJICAを訪ねて、チュニジアに該当するボランティアの募集があったので、すぐ応募しました。ところが、書類審査であっさり不合格でした。何回応募しても実現しない人もあるほどのJICAですが、妻は納得しません。訪ねて行って聞きましたが、はっきりした返事はいただけませんでした。
 お知り合いになったJICA経験者のお話によれば、妻には(この道の)キャリアがないということが理由のように思われました。妻が「作れる、教えことも出来る!」と自信をもって言っても、服飾業界で活躍してきた人達が多く応募しているのです。母に習い、子供の頃から腕を磨いてきたという自負があっても、それだけでは前へ進むことはできなかったのです。可哀そうに思いました。

 

驚く行動力で派遣が実現!

 仕方なく日を過ごしていましたら、その年末に「リクルート」の冊子が郵便受けに入っていました。その中に、たまたまNISVAという日本財団がやっている海外ボランティア団体の記事を見出しました。妻はすぐに問い合わせ、訪ねて行って登録しました。話が進み、「派遣します」という内定がなされたので、私も退社の申し出をし、平成21年3月末に私達二人は態勢を整えました。インドネシアも検討されていたのですが、最終的にフィリピンに行くことに決まりました。
 予防注射(A・B型肝炎、狂犬病、破傷風)や携行する品々の準備などを済ませて、5月30日にフィリピン航空でマニラへ飛び立ちました。沖縄までの倍くらいの距離感で近い国だと思いました。時差は1時間です。太平洋戦争の初頭、ハワイ攻撃に航空艦隊を集中した海軍は、同時に行うフィリピン進攻作戦を空母で支援することができないので、陸・海軍の航空部隊が台湾の各基地から飛んで行って、米軍航空部隊の主力を数日で撃滅しました。米軍は日本海軍の空母を捜しました。日本軍が台湾から飛んで来る能力があるとは考えていなかったのです。

 

胸をしめつける戦争の爪あと

 さて、午後1時頃にマニラに降り立ち、NISVAの現地代表(日本人)の出迎えを受けて、トヨタの乗用車で空港を出ました。向かう先は、約200km離れたルソン島北部のリンガエン湾南端西部のスワルという人口約4万人で半農半漁の町です。
 マニラ市内を抜けて郊外に出ると高速道路に入りました。「マニラの治安の悪さだけはフィリピンと思わないで欲しい」と言われ、市街を抜けるまでは車のドアはロックし、絶対に窓も開けませんでした。交差点で停車すると、裸足や汚れたシャツの子供達が「金をくれ」、「花(など)を買ってくれ」と車を囲み車体・ドアを叩いて要求します。私達はもう一度フィリピンを訪ね、縁があった人達に会いたいと思っていますが、問題はいかにマニラを抜けるかです。空港から信用出来るタクシーに乗って、地方行きのバスターミナルに無事に入れれば、ほぼ安心です。フィリピンには、マニラに都市鉄道があるほかには鉄道輸送路はありません。
 途中で何回か休憩をしましたが、いわゆる「バターン死の行進」として知られる米比軍死者の慰霊碑と昭和19年10月のレイテ沖海戦の時に初めて神風特攻隊が飛び立った飛行場跡を案内していただきました。

◆パターンの記念碑 

◆レイテ沖海戦で出陣する神風特攻隊 

 

いよいよ洋裁教室スタート!

 高速道路を出て、19時頃に薄暗くなったスワルの町はずれの孤児院に着きました。ここは、前述のNISVA現地代表が約20年前にフィリピンの人達の協力も得て始められたCFFというNPO法人が運営するものです。ここの外来者宿舎の1室が私達に用意されていました。
 孤児院施設は、日本の大学生等のワークキャンプの作業などを積み重ねて作られたものです。孤児は小・中学生が主体で、文字どおりの孤児や親が服役中などさまざまでしたが、大変明るく仲良く過ごしていました。写真は到着翌朝の私達及び食事をする孤児達です。

 

 翌日から3日ほどは、私達の通訳としてNISVAに雇用されたマリーさんという日本で働いたことのある人などのブリーフィングを受けたり、日本円の両替をしたりして現地に慣れる日々でした。そして、6月3日にスワルの町中にある市のトレーニングセンターに行き、妻が洋裁を教える人達にお会いしました。写真は縫製教室に集まった人達です。(妻は左端)

 

 このような次第でスワルでの生活・活動が始まりました。体験記としましたが、順を追って書き進めてみたいと思います。私なりの感じ方や書き方ですから、その点はご容赦をお願いします。例えば、戦争中のことなどを書いてしまいます。1回目は、これくらいにしたいと思います。

 

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