備中高梁と寅さん
2017/10/21
今年も早いもので九月も終りとなりました。渥美風天が47歳の九月に作った句が次の句です。
二度のロケ地になった備中高梁
映画「男はつらいよ」で二度ロケ地となった岡山・高梁(たかはし)は高梁川に沿って開け、古くより水運の要衝として栄え、高梁の街が一望できる臥牛山上には備中松山城がある山峡の城下町です。備中松山城は、現存12天守のうち唯一の山城であり、雲海に浮かぶ城は「天空の城」といわれています。
◆写真上段/天空の城・備中松山城 下段左/松山城(天守は国重文)下段右/城への道の常夜燈(文政五年の銘)
信に生き義に殉じた山中鹿之助
戦国時代、尼子氏の再興を図り戦った山中鹿之介は毛利軍に捕らえられ、松山城に送られる途次、高梁川河畔で殺害されました。河畔には、江戸時代に建てられた鹿之介の墓標があります。後年、福山・鞆の浦を訪ねた際、思いもかけず鹿之介の首塚に出会いました。鹿之介の首はここで検分を受けた後、埋葬されたのです。
◆写真左/尼子氏再興の夢半ばで斃れた山中鹿之助像 右/山中鹿之助の墓
そして時代が下って元禄六年、松山城主の水谷家が断絶して赤穂藩が城を受取り、いわゆる忠臣蔵の大石内蔵助が一年余の間、在番を務めました。その後元禄14年、浅野家が断絶して城を明け渡すことになろうとは、当時の大石には思いも寄らなかったことでしょう。
さらに時代は下って幕末、藩政改革で教科書にもその名がある陽明学者山田方谷により、松山城は官軍に対して無血開城されています。その方谷の治績を顕彰し、JR伯備線方谷駅が設けられています。
心優しき孤高のひと
高梁川は、備中玉島で瀬戸内海に流れ入る。玉島には、かの良寛さんが22歳より修行した曹洞宗円通寺があります。
◆写真上段左/薬師院 上段右/円通寺良寛像 下段左/山頭火句碑 下段右/鐘楼
円通寺を訪れた吉井勇には次の歌があります。
「良寛もむかし幾たび登りけん円通寺を我も登るも」
また相馬御風には次の歌があります。
「にぎはへる街はあれども知る人の一人もなきとなげきたまひし」
修行僧仲間から孤立していたといわれる良寛さん、どのような思いで十年余の間を過ごしたのでしようか。 良寛さんはその書、和歌、漢詩が有名ですが、俳人でもありました。
「盗人に取り残されし窓の月」や「焚くほどは風がもてくる落ち葉かな」
は有名な句ですが、
「柿もぎの金玉寒し秋の風」
といったおもしろい句も残しています。その類句の
「屋根引きの金玉しぼむ秋の風」
は単なる諧謔に止まらず、萱を葺く人に対する良寛さんの温かい眼差しを感じます。
大きな岩と樹木の庭園がある境内には、弟子の貞心尼の歌に返した良寛さんの辞世の句といわれる
「うらを見せおもてを見せて散るもみじ」
の句碑があります。また昭和11年に訪れた種田山頭火の句碑には
「岩のよろしさと良寛さまのおもいで」
とあります。
第32作 口笛を吹く寅次郎――寺に婿入りをもくろむ寅さん
さて高梁は第八作「寅次郎恋歌」で寅さんの妹さくらさんの夫諏訪博さんの故郷として登場しましたが、第32作「口笛を吹く寅次郎」では城郭のように連なる薬師院と松連寺のうち薬師院が「蓮台寺」としてその舞台となりました。
◆写真左/寅さんとマドンナが出会った石段 中/ロケ地の一角にある寅さんの碑 右/寅さんがお酒を買いに渡った紺屋川の橋
諏訪家の墓参りに来た寅さんは例によって、竹下景子さん演じる住職の出戻り娘に一目惚れ。寅さんはそのまま寺に居座り、檀家の法事でのいいかげんな法話などの評判が良く、一時は修行をして僧侶となりマドンナの婿にと考えます。しかしながら、しょせん無学で風来坊の寅さん、叶わぬ夢となりました。
最後になりましたが高梁には、国の重要伝統的建造物群保存地区の一つに指定された「吹屋ふるさと村」があります。吹屋はベンガラの生産により栄えた土地で、映画「八つ墓村」に登場する豪邸「広兼邸」があります。備中高梁駅よりバスで九十九折の道を50分ほども要する所にあり、私はまだ行っていません。三度目の高梁の旅では、ぜひ吹屋を訪ねたいと思っています。