私とリクルート、江副さん Vol.2

      2016/09/22

小野塚 満郎

◆連載エッセイ Vol.2

ふたえ虹10小

芽生えた起業への想い

リクルート創業のきっかけは、江副さんが、東京大学新聞の経営立て直しを依頼されたことです。その手段として、大学新聞に求人広告を企画、営業を始めたのです。大学生への求人広告の始まりです。

江副さんが東京大学の学生だったころだから、昭和30年前後の事と思われます。結果がどうだったかは、聞いていませんが、この企画が他の帝大、早稲田大学、慶応大学新聞へと広がったことを考えれば、成功だったのでしょう。大学生への求人広告が、事業になると心の奥に秘めた時期だと思います。

リクルートのルーツ「企業への招待」

リクルートは、就職情報を学生に提供する会社きぎょうへの招待としてスタートしています。それまで大学生の就職活動は、教授の推薦か、学校に掲示される求人情報=試験日情報が中心、それに東洋経済が出していた、会社四季報を見て企業内容を知るのが唯一の手段でした。そんな時代に、江副さんの友人がアメリカへ、アメリカの大学から持ち帰った小冊誌がありました。企業情報誌=プレースメントです。企業情報が掲載されている小冊子です。これがリクルートの成長の基盤となった『企業への招待』=リクルートブック創刊の、手がかりでした。

10年間は苦労の連続

リクルートは昭和35年3月に、大学新聞広告社として創業、10月に法人化しています。60年安保の年です。経済成長はめざましく、会社の求人攻勢が積極的になり、リクルート創業にふさわしい年だったと思われます。しかし事業が上昇ラインに乗るまで、かなりの苦労があったと聞いています。私が入社する数年前までの10年弱の期間、貸机業をしたり、家財道具を売って資金繰りをしたり、賞与を払えなくて、株式を分けたりしたそうです。

リクルート2

窮すれば変ず、変ずれば通ず

私が就職したのは、昭和44年4月、創業から9年目です。それまでのリクルートは中途採用のみ、新卒採用は昭和43年から、私は大卒採用二期目でした。社名は、日本リクルートセンター(営業していると日本レクレーションセンターとか陸送センターとかによく間違えられました)。年商数億円、社内の雰囲気は学校の延長、上司、役員の呼び方も、肩書で呼ぶことは無く、名前を『さん』付けで呼んでいました。Eさん、つまりは江副さんでした。これは、77歳で亡くなるまで変わることなく、江副さんでした。

昼休みになれば、将棋盤を持ちだして早打ち将棋、7月8月の営業が暇な時期は、夏休みの雰囲気でした、この社風が、人材を育てた大きな基盤でした。『自由と自主性と責任』これらをバランスよくコントロールしたのです。社訓『自ら機会を創り出し機会によって自らを変えよ』が、それを現わしています。江副さんの好きな言葉『窮すれば変ず、変ずれば通ず、通ずれば即ち久し』が原点でした。

つづく

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ちか子さん

★2014年2月、東京大雪の日。ベランダで雪だるまを作り、二人で遊びました。

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