王子製紙回顧録/春日井編(2)

      2017/06/08

 

業界を襲ったチップショック

 我々パルプ原料担当者の使命は、何時如何なる状況においても安定的に原料を工場に供給し続けることである。その中で、紙の需要が拡大するのに対応して国内原料が不足すれば、海外から輸入することになり、1979年(昭和54年)当時は北米西海岸70%のほか、オセアニア17%、ソ連13%であった。この時当社の外材依存率は50%に達しており、その63%が北米西海岸からであった。

 こうした中で、1980年第2次石油危機に端を発した不況が北米全般を覆い、建築需要が低迷、その結果木材の生産が大幅に減少、発生する木材チップの生産量が激減し、北米が日本向けに輸出するチップが極端に減少し、サプライヤーからの購入価格は51US$から125US$/BDUに跳ね上がった。業界ではこの時の事を「チップショック」と言っていた。当社の外材依存率も1983年度には38%まで落ちた。

 輸入チップの減少から、国内材の調達を増やしたため、国内のチップ調達価格も急激に高騰して、広葉樹チップが35,000円/BDT針葉樹チップが32,000円/BDTと過去最高の値段となった。このように国内外チップの高騰と輸入先の偏りを無くすため、輸入ソースの分散化、多角化を進めることになる。国内材も岐阜のチップ業者が、岩手県で広葉樹チップを生産し始めたので、内航船で岩手県宮古港から名古屋の当社の埠頭まで月1回のペースで確保したこともある。内航船にはチップのほかに、東北の名産や海産物(ホヤなど)も同時に送ってくれて美味しかった。

 

 ◆輸入チップの荷卸し風景

チップ生産の省力化設備を導入

 1985年(昭和60年)プラザ合意以降は為替レート250円/$だったのが、急激に円高が進み、私が春日井を離れる頃(1988年)は150円/$を切る状態となり、多角化も東南アジア、南米チリ、中国などから輸入するようになった。円高の進行に伴い、輸入チップの価格が安くなる半面国内チップが割高となり、価格引き下げの声が工場内で高くなってきた。

 無理やりチップ業者からの買値を下げても長続きしないことから、頭を悩ましていた所、チッププラントメーカーから、新しい省力化されたチップ生産設備が出来たとの話で、静岡県藤枝市のメーカーに行ってテスト操業をしてもらった。今までのやり方と異なる方法で、初期投資は少し高くなるが、ランニングコストは下がるし投資効果は充分だと思い、この新しいシステムに変更すればチップの値段も下げられると確信した。

◆大口径チッパー(原木切削機械)

◆ロングバーカー(原木皮むき機械)

 国内材のチップ工場も老朽化した設備から、新しいプラントに投資することにより、大幅なコストダウンが実行できて、値下げにも対応することができた。普及するのに少し時間がかかったが、本当にタイミングよく新しいシステムが出来て助かった。けれども円高の進行もあり、安い輸入チップの使用比率は年毎に上がっていった。

記録しつづけた「山林部のあゆみ」

 私は、春日井工場勤務時代から暦年毎、月毎の重要な出来事をA-4用紙1~2枚に纏めて「昭和〇〇年山林部のあゆみ」と称して書き留めていた。更に昭和54年から平成5年頃までの、円対ドル為替レート推移、国内チップの価格推移などを今でも保管しており、その資料を見ながら回顧録を書いているが、その項目の中に目立つのが、「収益向上対策」と「要員効率化対策」である。

「収益向上」に立ち向かう日々

 収益向上対策は、山林部が工場部門に払出す山林原料原価を下げて紙製品原価を下げる事である。その中には、安い輸入チップの使用を増やして割高な国内チップの使用を下げる事が直接的に効果あるが、国内業者の存立基盤の問題もあり、これを円満に解決するために、広葉樹チップ専業工場コスト分析調査、専業工場チップ仕上がり原価調査結果、チップ工場合理化推進班の設置、答申報告等の手順を経て、前述の新しいプラント導入へと推移した。この他にも、当時国鉄が民営化となるために、貨物輸送を廃止する等の合理化に対応した新しいチップ集荷所の設置とトラック輸送によるコストダウン、過去に一度もやった事がなかった輸入チップ船内荷役費の引き下げなどを実行した。

◆輸入チップの荷卸し状況視察

加速する「要員効率化」

 要員効率化はいつの時代でも企業の永遠のテーマである。特に山林部は国内から輸入チップへのシフトが加速して要員の合理化(要員削減)も加速した。
 今振り返ってみると、企業の飽くなき利益追求が見え隠れするが、当時は目前の仕事に一生懸命で振り返る余裕がなかった。そうこうしている内に、1988年(昭和63年)7月、米子工場山林部受渡課長の辞令を受けた。

 

 

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