《メナムに吹く風》アナザーストーリー 君はクン・チャナイを知っているか? 《上》
2025/02/13
君はクン・チャナイを知っているか? 《上》
住田 章夫
駐泰日記・冷熱商人——《メナムに吹く風》 あらすじ
1964年東京オリンピックの後、わが国は二度に亘るオイルショックに見舞われ、それは国内全産業の需要減退を惹起し、各企業は海外進出を目指した。菱美電機も同様な状況下、冷熱事業部に香港のエレベータ代理店R社から空調技術支援の依頼が来た。そこで熟練の浜田氏が派遣され、彼は欧米一色の香港市場において日本式《24HRサービス》を打ち出し、差別化営業で市場を席捲。その成功を聞いたタイの代理店W社からも、同じ要請が舞い込んだ。
しかし首都バンコク市場は香港以上に欧米勢の牙城となっており、同じ戦法では弱い。そこで編み出されたのが地方都市・ハジャイから実績を積みあげ、首都に攻め上るという方法。その戦法たるや《無料設計診断》という前代未聞の「職人営業」であった。そしてこの浜田氏の志を受けつぎ、病を得たパイサン社長代行としてW社に赴任したのが、当時菱美電機和歌山工場営業部長を務めていた石田章夫である。
石田代行社長のその間の奮闘については、前出の企業小説《 駐泰日記「冷熱商人」より メナムに吹く風 ㊤㊦ 》に詳しく述べているが、今回の作品はそのアナザーストーリーとでも呼べるもの。社長代行として共に闘った現地スタッフとのふれあい、激動するバンコクの経済成長、タイの伝統文化・人々の暮らしなど、タイ国と人々のソウルの部分にもふれているので、お読みいただければ幸いである。
●作中に登場する石田章夫は住田章夫、菱美電機は三菱電機のこと。それ以外はすべて実話である。
●メナムに吹く風㊤は 駐泰日記「冷熱商人」より メナムに吹く風㊤ - 福高寿禄会 を参照
●メナムに吹く風㊦は 駐泰日記「冷熱商人」より メナムに吹く風㊦ - 福高寿禄会 を参照
1994年(平成6年)12月5日。成田発10:55。石田は搭乗前に、妻に出立の電話をした。「今から行ってくるからね。昨日の浴室の水漏れ、菱電不動産の守政君に頼むと早くやってくれる筈。すぐ電話するんだよ。じゃ」
何のことは無い。別れの挨拶どころか、風呂場の修理が気掛かりのまま、いつ帰れるかの約束も無い外地に飛び立った。あんまりしんみり話すのも気が緩んでしまうというツッパリも半ばあったのであろう、つれない挨拶であった。そしてパスポート10冊目の海外通とも言える石田にとっては、初めて「片道切符」を握っての搭乗であった。
「サワディカップ、トゥクトゥクタン。ポンチュウ ISHIDA タムガーン ユウティ RYOBI ジープン (皆さんこんにちは。私は日本の菱美から参りました石田と申します)・・・ブツブツブ…」。
注記:カタカナ部分はタイ語
石田は機中の7時間、座席シートでぶつぶつ、ぶつぶつとタイ語での赴任挨拶を復唱した。2ヶ月の特訓講座で世話になったタイ人講師に翻訳してもらった挨拶文と、その録音テープをいつも身体から離さなかった。彼は永い海外営業の経験から、初めての訪問国には先ず現地語で挨拶をする、例え短い文章でも、メモを見ずに笑顔で語りかけるということをいつも心掛けていた。これが長期駐在ともなれば尚更の思いであった。
「Excuse me, Are you all right?(大丈夫ですか?)」
先程から不審気にチラチラと目を遣っていたスチュアーデス、いや、キャビンアテンダントが心配そうに石田の顔を覗き込んだ。そりゃ誰でも心配するだろう。機中の皆がリクライニングしているのに、長時間、背凭れにも凭れず、上半身背筋を伸ばして、中空に視線定まらず、ぶつぶつ唸り続けているのだから。
「いえ、何でもありません」
判らんかぁ、病人かどうか。それより日本人に見えんかぁ? 石田は持ち前の関西弁でもって、腹の中で笑顔の美女に悪態をついた。
15:55(日本時間17:55) バンコク空港到着。窓外に見える緑の平野、椰子の林。これまで少なくとも5回は見ているこの景色も、此処に住むともなれば特別な感慨である。(どうぞ、よろしく。お手柔らかに)石田はその赤い大地に目で挨拶した。気温35℃。出発の成田は14℃であった。
翌日、W社役員会。石田の赴任を待っての開催であった。役員は7人構成で40%シェアのパイサン一族が3名。同じ40%の菱美電機は海外本部山本副本部長、駐アジア事務所富永所長。そして各10%のタイ菱美商事浜田社長、タイ菱美商販プラポン副社長、計4名に、今回新たに石田が副社長として、パイサン社長の長男テパリットが取締役として追加され、合計9名となった。パイサン社長としては自分の身体の心配もあることから名門タマサート大学を卒業したて、弱冠22歳の長男を役員に加えたのである。
役員会は一時退院のパイサン社長の独り舞台で厳粛に進行。威風堂々。咳する人さえ居ない。確かに彼が倒れたら、果たして誰が後を・・・・日本の皆が心配していることが現実として目の前に展開している。新役員の承認の後、(ついに来た!私の出番が)
石田はこの日のために奮闘努力したタイ語スピーチを、場の空気に合わせて厳かに始めた。が、緊張のあまり一行抜かしてしまった。しかし大意に障りの無い部分だったので、何とか無事終了。
「おおっ、やるじゃん」「なかなか発音がいいよ」 と皆から大きな、そしてヨイショ半分の拍手を頂いたが、会の終了後、パイサン社長から
「クン・イシダ(石田さん)。よく来てくれた。そして、そういう心構えで来てくれたことが何より嬉しい」と肩を抱かれた時、石田にはこの2ヶ月の特訓努力が報われた気がした。
続いて御曹司テパリット君の挨拶。正面のパイサン社長の眼が潤む。あたかも《秀頼を頼む》と言わんばかりの風情に、皆の視線はご子息より社長の方に注がれていた。人前で公式挨拶をする息子の姿を初めて見たに違いない。そして滞りなく役員会が終わり、社長室でパイサン社長と二人で向かい合うと、彼はおもむろに自らの来し方をこう述懐した。
「最初はね、慣れたエレベータ事業だけやる積りだったんだが、香港R社の話を聞いてね、空調工事も取り込むことにしたんだ。そうする内に電気・給排水・衛生そしてBAS(ビルディングオートメーションシステム)工事といった設備工事全般に亘る依頼が来て、いつの間にかそれも請け負うビジネスにまで広がって行ったんだ。それが結果的にお客にはW社に頼むと何でも揃うという《ワンストップ・コントラクター》、謂わば《設備ゼネコン》の企業イメージが出来上がってね、バブルのお蔭もあって、最後の10年間で従業員を150人から、1500人という10倍規模の会社にまで成長させることが出来たんだよ」
そして、《これからの仕事の進め方》についての助言があった。
① タイ人を人前では決して叱ってくれるな。面子を重んじる国民性なので辞めていく。それが一番痛いんだ。 ② 不満が出たら私に相談してくれ。1500人も居るのだから君の思うようには先ず行かない。焦らずゆっくりやってくれ。決して日本流、菱美流を押し付けないように。浮き上がってしまうからね。此処はタイなんだ。
〝Compromise(妥協)”が肝要だよ。
③ 仕事については先ずは菱美製品の販売拡大に注力してくれ。そして、日本および外資系の顧客を開拓して欲しい。現地の施主ならほぼ6割方のシェアは取れているんだが、日本人の世界には中々、入れていないんだ。
かなり後で知ったのだが、パイサン社長はこの2週間、10人居る事業部長を個別に訪ねて、「今回の人事は決して菱美から押し付けられたものではなく、私がMr.石田を呼んだのだ」と説明して回ったらしい。事実、人選においては最終候補3人からパイサン社長自身が君を指名したと、駐アジア室長から聞かされていただけに、石田はこの気遣いに頭が下がった。
その晩、ボラポン営業部長と夕食をとった折、彼はW社に来る前、永く日本企業と付き合った経験から日本人ビジネスマンをよく理解しており、流暢な英語で石田にこうアドバイスした。
① タイ人に日本人の勤勉さを求めるのは無理です。タイ人は《サバイ・サバイ(気分爽快!)》を旨としていますから、決して無理なことはしません。
② 交通渋滞に早く慣れてください。イラついたら負けです。だから余裕ある出発と、遅刻者への寛容な気持ちを。 ③ タイ語は必ず身に付けるように。それも半年以内に覚えること。英語で通じる社員は少ないので、これが最優先ですよ。こうして石田のタイ国、一日目が終った。
その3日後、駐アジア事務所で定例拠点責任者会議が開催された。タイにはMCP(エアコン)、KYE(TV/換気扇/冷蔵庫)、SCI(圧縮機)、AMEC(昇降機)、OEIC(モーター/電力量計)、MMT(フロッピー)、TCRT(CRT)という7生産会社とWIC(昇降機/冷熱)、KYW(家電)の2販売会社、合計9社の菱美電機出資会社があり、駐アジア事務所が本社海外本部の出先機関として取り纏めの任に当たっていた。その拠点責任者ともいうべき社長級の出向者が毎月集まっており、今回はAMECの田淵社長の帰国、後任の前田新社長、そしてW社石田副社長の歓送迎会も兼ねていた。
開会に当たり、富永所長による挨拶そして菱美本体の動きを含めた各種の報告があり、各社の事業報告へと続く。所長の取り纏めというか、"取り仕切り”ようは、この何十年、リーダーを務めてきた石田をさえ唸らせるほど、貫禄満々の千両役者振りで「ほぉ、菱美電機の中にもこういう雰囲気の会議があるんだな」と変な感心をした。
冒頭、所長は前日起きたタイ連立政権の分裂について、知っている情報で解説する。連立与党の第2党"新希望党"が離脱した為、少数与党に転落し、これからは連立の多数派工作となるか、総辞職解散かの危機に陥った模様。離脱の背景は村長公選制に反対する旧勢力が第2党を抱き込み、造反させた由。2年前、民主化要求のデモ隊に警官が発砲し流血事件を起こした為、現在のチュアン政権が出来ただけに不穏な動きも僅かながら予想させる。
「駐アジア事務所としては最後まで皆さんの安全を見届ける」
彼の締め括りの言葉には、石田にとっては何とも赴任早々、《ほんと、外地に来たんだなぁ》の感を強くした。
AMEC田淵社長の離任挨拶。初対面でそれが最後であったが、朴訥そのものの印象をもった。その彼が帰国に際して、タイでの印象をこう締め括った。
「5年の勤務でしたが、いやぁ、タイは遠い」
何とでもとれる言葉だが、彼は一体何を言いたかったのか?これが駐在というものか。
続いて前田、石田による簡単な自己紹介のあと、富永所長は立ち上がってこう言った。
「私はこれまで何度も各社役員会に立ち会い、菱美役員を紹介してきたが、石田君みたいに端からタイ語で着任挨拶、それも5分も喋った人を見たことがない」
5分も喋ったわけではない、ほんの2分足らずであったのだが、所長のこの賛辞に、会の皆は「もう一度やれやれっ」と囃し立てた。石田からすると、2分間スピーチもそれこそ現地語カラオケを3番まで覚えるぐらいのことなので、軽く〝暗誦スピーチ”をやったところ、シーン。終わっても反応が無い。挙句の果て、「なんか上手く話してるようだな」と曖昧な講評が出てくる始末。つまりタイにおける諸先輩はタイ語がよく話せなかったのであった。結局、日本人や、英語の判るスタッフが多い会社では、その長はタイ語を覚える必要がないので、ズルズル不勉強のままで居座っていたようだ。
W社のように1500人の合弁会社でも、日本人は石田一人。英語のできるスタッフとしては部長以上ならば何とか通じるので、さほどの支障はないというものの、それは僅か40-50名程度。だいいち運転手からしてタイ語オンリーときているので、必然的にタイ語を覚えざるを得ない。出向前の2ヶ月研修で”現地語特訓”を受けたことは結果、非常に有難いことであった。 こうして菱美村"入村式"は無事終了した。
「入村式」を終えた数日後、石田は「町内会」にもご挨拶に伺った。というほどの大仰な話ではないのだが、帰国するAMEC田淵夫妻の送別を兼ねて、富永所長邸で夕食会が開かれた。呼ばれたのは、そのほかOEIC星野夫妻、MMT渡部夫妻、そして歓迎の意味もあってW社の石田も加わった。
日本ではとても住めない映画で見るような豪華マンションで、且つバンコクでは有名な日本料理店 "新大黒"から板前、仲居が5名付いての出前会席。富永夫人はシャキシャキの賢夫人で、丁度、藤本統紀子(藤本義一夫人)に容姿も似ておられた。さしもの千両役者の所長も奥さんの喋りの前では借りてきた猫のよう。いずれの奥方も話好きで、ご主人連は専ら聞き役であったが、その内、男性陣は隣室に座を移して、本社人事に花を咲かせていた。新参石田の存在たるや屁みたいなもので、お開きまでの3時間、ただヘラヘラ笑って、奥様方の生々しいやりとりを聞いていた。
「奥様、結局、何年居らしたの?」
「あっという間の5年でしたわ。最初の頃はそう暑さも気にしなかったんですけど、3年も経つと暑さが骨にまで沁みてきちゃって。冷房掛ければいいってものじゃないですわね。クーラー任せじゃ冷気が下に溜まって、腰に響いちゃってもう大変。結局、扇風機をフロアに置いて掻き回しているの」
「私たちはもう最古参組で、8年経ってしまいましたけどね。来るときは車付きの豪邸な~んて聞かされて、来てみると車なんか付いてやしない。スーパーに行くのに歩いたら、まあ50分も掛かっちゃって、頭クラクラ。勇気出してバスに初めて乗った時の心細さなんて、今、考えても涙が出るわ。ほ~んと生きていく為に、必死でタイ語を覚えさせられたわけ」
「タイのマンション設計なんて、台所は使用人が使う場所と思われているのか、クーラーが無いのよね。自分で料理するときは、ほんと死にそうだわ」
「子供たちを日本に置いてきたせいか、主人の早出、遅帰りの毎日じゃ、一人暮らしみたい。だからたまの長連休が入ると最初の内はいいけれど、2~3日経つと、日がな一日中、二人きりで居るのが鬱陶しくなって、主人も《静かにしろ、物も言うな》とまで言い出す始末。これも困ったものよ」
「ねえ、皆さん。単車乗ったことある? この前ねぇ、あの渋滞に引っ掛かって会合で遅刻しそうになったとき、散々迷ったんだけど、この状況を抜けるにはもう"単車タクシー"しかないと覚悟したの。自分の車は運転手に任せて、直ぐに来た単車に跨ってスイスイと車の波をかき分けたのよ、まあ早いのなんの。でもジグザグに、そしてバンバン飛ばすもんで、 必死で運ちゃんにしがみ付いたら何とまあ、翌日、見たわよって2人も電話が掛かってきちゃってさぁ。皆さん、単車に乗るときはスカートはお控えなさいまし」
「そういやKさんね、あの人単身赴任永かったじゃない。この前、同僚の方が出張で来られたとき、小耳に挟んだんだけど、おうちの温かいお迎えも最初の数日で、その内、部屋の取り合い、テレビのチャンネル争いでギスギスして来て、自分の居場所が無くなっていることに気付かされ、なんとまた何処かの国に赴任を買って出たんですって。何だか、哀れねぇ」
ガバッ。この話を聞いた途端、石田は我に返った。他人事ではないからだ。仮に5年後として、今は可愛い盛りの末娘は中学進学を迎え、長女は何と短大卒業を控えているではないか。この優しい(?)父親には眼もくれず、いや、逆に煙たがられでもしたらどうしよう。《海外赴任残酷物語》である。
女性の話って話題が尽きないって聞くけど、ホントだね。全く退屈しない3時間でありました。
さて、初出勤でW社本社ビルに入った折、玄関脇がサービスエリアになっていたことに石田は一瞬、違和感を感じた。部品の受入・発送に便利なのは分かるが、大小の部品・材料が玄関先の広いスペースを、ただ雑然と占拠している。
(何とも勿体ないなあ。ここはW社の“顔”となるべき場所なのに・・・)
それからひと月があっと言う間に経った。或る日、総務部長のマユリー女史がバンコク・トラキット紙の取材申し込みを取り次いできた。日本で言えば、日経新聞にあたる業界紙である。業界大手のW社に対する日本財閥「菱美」からの人材投入は恰好のネタなのだろう。(趣味は何ですか?家族はご一緒ですか?とまで聞かれるのかな・・・?)
取材当日、女史に案内され、ベテラン記者風の初老紳士が副社長室に入ってきた。そして挨拶もそこそこに切り出された最初の質問はこうであった。
「あなたはW社の社長になるのですか?」
ギョッ。目を丸くするとはこういう時のことを言うのであろうか。言葉を失っている石田に、続けて第二の質問。
「菱美はW社を買収するのですか?」
今度は吃驚するどころか、飛び上がってしまった。考えもつかない質問だったのである。ついさっきまで趣味は何にしようか。"弓道"なんて言っても判らんだろうな? なんて考えていた自分はどこかに素っ飛んでいた。
「何故、そんな質問をするのですか?」
「いや、業界ではあなたが来られたことで、専らそういう噂で持ちきりですよ」
業界に大御所パイサン社長罹病の噂が広がり始めた頃、確かに今まで顔も見せなかった菱美電機が突然、社長代行を送り込んで来たのである。スワッ、乗っ取りか? 誰もが思ったらしい。あとで判ったのだが、この疑問はまさしくW社社内でも、最も大きい関心事だったのである。
「私は現在、体調を崩されているパイサン社長のショートリリーフとして参っているだけで、元気に復帰されたら直ぐに帰国します。来たからには菱美電機の新技術を積極的に導入し、空調・エレベータ生産拠点を強化すると共に、販売拠点としてのW社の経営を更に支援する積りです」
喋りながら石田は、業界におけるこの疑惑は新聞で喋ったくらいでは到底、払拭できるものではないな、経営支援しているという何か具体的行動が必要だな、と思った。
実はこれと全く同じ頃、石田はメインバンクである菱美銀行からの借入に対するスプレッド(手数料)が同じタイ在住の菱美電機グループ会社の3倍料率となっていることを発見し、驚くや早速、同銀行タイ支店を訪ねた。
「理由は三つあります。
①菱美電機の保有株は40%とマイナーであり、かつその役員は名ばかりで、常駐していません。
②本体からも何ら経営支援している姿が見えません。
③パイサン社長のご容態は大丈夫なのですか?
幾ら身内の銀行だからと言われても、3倍の手数料設定が間違った評価とは思ってませんよ」
この二つの世情における評価を同時に味わったショックで、石田は新聞の取材会見を次の言葉で締め括った。
「では半年後に、菱美のその姿勢をはっきりお見せしましょう。そしてそのとき御社をはじめ、業界の皆々様をお呼びして、菱美電機とW社の具体的なコラボレーションをご紹介します」
このとき石田にはW社1階ロビーの有効活用に良い考えが浮かんでいた。というのは、折角浜田氏が築いた空調工事も現地は《セントラル冷温水方式》が主流で、熱源機は米国式の大型冷凍機で、その販売台数たるやビル需要の6割シェア、つまり年間10,000冷凍トン。日本市場の3割近い工事量を誇っていた。この分野は日本では《ビル用マルチエアコン》が主流を成していたので、石田としては旧態依然のこの市場に日本オリジナルの空調方式を導入し、菱美の売上構成比を高めたいと考えていた。そのためには先ず社内に「SE(システムエンジニアリング)体制」を整え、先ずはお披露目として業界の設計事務所・設備業者に向けて大々的に「新技術セミナー」を展開する。石田にとっては最も得意としてきた仕事であった。
(1階ホールを"空調ショールーム”にしよう)
そのショールームの名称を皆に諮ると、商品部長ナワニット女史が『空調ギャラリー』と提案してきた。
「《RYOBI ELECTRIC AIR-CONDITIONING SYSTEM GALLARY》、 いいね、恰好いいねえ」
W社には総務部長、経理部長、商品部長の重要ポストに3人の女性が就き、何れも仕事は速いし、手を抜かない。石田の在任中、最後まで職務への責任を持ち、下手な妥協はせず、納得いくまで意見を交わす姿勢を貫いていた。
タイ暦の新年は4月。中国暦では2月。所謂、1月の新年は、タイでは大晦日と元旦の2日間だけが休みで、日本の正月のような雰囲気はない。しかし元旦には盛大に王宮前広場には祭壇が設けられ、政府高官や一般市民も参拝して、居並ぶ僧侶にお布施をする。国王も自ら布施に姿を現わすこともある。
1月2日(月) 新年初出勤。タイにおける"仕事始め"である。一番気に入っている黒のダブルに身を包んだ石田はあらためて自慢の黄橙色のネクタイをキュッと締め上げて受話器を取り上げ、10人のライン事業部長を部屋に呼んだ。
「A Happy New Year、everybody」
「A Happy New year、Mr.Ishida」
皆、一様に新年清々しい気分で、すっきりした顔を見せている。
「さて、巡回スケジュールは出来てる?」
「・・・・・」
「挨拶回りだよ」
「何の?」
「何のって。新年のだよ・・・。え~っ、君達、新年の挨拶しないの?」
「してますよ」
「してますよって。皆で巡回しないの? 日本じゃ日頃のご無沙汰のお詫びにと、これを名目にして、客先幹部へご挨拶廻りするんだけど・・・」 「会った時は必ず新年の挨拶してますよ。でもそのための巡回なんて聞かないですね・・・」。
・・・・・・何か噛み合わない。
「だいたい用も無いのに正月早々、偉いさん筆頭にぞろぞろお邪魔したら、相手が吃驚するんじゃないですか?」
何かお互い釈然としないままお開きにして、石田は一人、ボルボに乗り込んだ。そしてよくよく相手先の反応を考え、結局、日系業者と菱美関連会社のみ廻るようチャナイ運転手に告げた。かくして石田のタイにおける1年目の仕事が、文化のズレの中でスタートしたのであった。
ここで、チャナイ運転手を紹介しておこう。石田の駐在中、初日の客先巡回から最終日の空港見送りまで一番長く時間を共にした。出勤初日朝一番、総務部長のマユリー女史は石田をガレージに案内し、専用車と運転手を紹介した。
Mr.チャナイ。「クン・チャナイ」と呼ぶ。私も「クン・石田」である。彼は38歳、独身。女史は言った。「副社長。車は交通事故の多いこの国の事情を考え、社長のご指示で頑丈なボルボをご用意しました。そして御付き運転手は20名の運転手の中から一番優秀なドライバーを選びました」
彼はおとなしく、そして気丈で頼もしく、運転は抜群、地理・地形すべてを知り尽くしていた。20人居た運転手仲間でもリーダー格であり、詰所では常に座の中心に居た。
さて、何と目の前にはスエーデンの逸品、3000ccの《ボルボ》。中古のマツダファミリアにしか乗ったことがない石田に文句のあろう筈がない。ワインのテイスティングのように「ンッ」と、とても決まっているとは言えないポーズで頷いたその途端、《バリ、バリ、バリ、バリッ》やにわにチャナイ君が新車ボルボの座席ビニールシートを引き破り始めた。「あッ、ああああ・・・」慌てたの何の。ぷ~ん。あの黒皮の高価な臭いが車外まで漂ってきた。何ともこれが自分に初めて"運転手つき外車"を宛がわれたときの、正直サマにならない情景であった。
そのクン・チャナイは評判どおりの運転手で、いかなる大渋滞の中でもスイスイと泳いで行く。車も車で発進音もなく、戦車のようなボディがツーッと走り出す。朝は7:00の出迎えで、7:30高速道路沿いの会社に着く。つまり朝は30分。しかし帰りは18:00に出ると広いハイウェイはまさしく一寸の隙間もなく渋滞し、優に2時間は掛かる。まして週末のお出掛けが加わる金曜日、それも“雨の金曜日”は3時間である。必然的に車の中は"NOVA"になる。それも駅前留学ではなく、ほんまもんの現地留学なのである。上達は早かった・・・、と石田は思っていた。
タイ語を少し紹介しよう。タイ語は中国語と同様、一音節の言葉でpai(行く)とか、maa(来る)と言うように『子音+母音』、或いは『子音+母音+子音』の組み合わせで出来ている。それに抑揚が加わり、同じmaaでも「来る」以外に「馬」「犬」。maiは「新しい」「燃える」「木」「絹」「~でない」の意味があり、この5声が難しい。
しかし表音文字文化なので、44の子音文字と9の母音を覚えれば、表意文字である日本語のように「漢字が読めない」などという悩みも出ないし、音読み/訓読み、そして漢字/平仮名/片仮名、現在進行形/過去完了形…こんなややこしいルールが全く無いので、考えれば一番シンプルな言語と言える。
"助詞"さえ日本語のような重要な役割を果たさず、とにかく文法的関係は文中の単語の位置関係で示される。『主語+動詞+目的語』が基本型であり、動詞の前後に助動詞をつけて文章の意味を広げる。phuut cha chaa(ゆっくり話して)。"形容詞"は必ず名詞の後に付くのが大きく違うところ。例えば、『善人』はkhon(人)+dii(良い)、『氷』はnaam(水)+kheng(固い)である。
クン・チャナイとの"車内留学"のお蔭で半年後には、車内2時間の長丁場も何とかタイ語オンリーで過ごせるようになった或る日、彼が小さな人形を抱えていた。
「〈何、それ?〉」
「〈娘の誕生日なんです〉」
「〈あれ?独り身じゃなかったの?〉」
「〈実は離婚してまして〉」
「〈なんだ、バツイチか〉」
「〈娘は連れて行かれたんですけど、誕生日には会えるんです〉」
注記:〈 〉内はタイ語、以下同様
こういうレベルまで理解できるようになり、パイサン社長をも吃驚させた。しかし当然、仕事の話は間違いを避けるよう、誰に対しても英語の判る連中を介し、正確を期した。
しかし或る時、昇降機事業部長に急ぎの用があったが、外出だったので勝手に担当者を呼んだ。彼には英語は無理だが、タイ語なら自分ももういけると自信を持ってきていた頃である。処が、肝心の部分になると通じない。その担当者は仕方なく同僚を呼んだ。が、まだ通じない。そうなると遠くで見ていた連中がナンダ、ナンダと石田の部屋に集まって来る。
「〈多分、副社長はこう言ってるんだ〉」
「〈いや、そうじゃない。こう言いたいんだよ〉」
ガヤガヤ、ガヤガヤ…。皆が石田の目の前でいろいろ議論し始めた。
(何だ、これは。俺は一体、何なんだ?)
多分、山田長政がアユタヤに上陸した時もこのような目に会ったのでは? 石田は矢庭に携帯電話を取り上げて、チャナイ運転手を呼んだ。
「〈チャナイ、大至急、俺の部屋に来てくれ〉」彼は何事かと、すっ飛んで来た。
「〈俺はこうしてくと言ってんだが、判ってくれないんだよ〉」と当然、タイ語で叫んだ。
チャナイはこっくり頷いて部屋に詰め掛けた皆を見渡しながら、これまた当然、タイ語で、それも私と同じフレーズのタイ語で伝えた。
「〈副社長はこうして欲しいんだと〉」途端に、ホラ見ろ、俺が言ったとおりだ。いや、違う。お前の言ったのとはちょっと違う。ワイワイ、ガヤガヤ…。前より騒々しくなった。
「〈冗談じゃないよ。俺はさっきからチャナイが言った通りのタイ語で話してたじゃないか。何で判んないんだよ!〉」このタイ語だけは通じたのか、ひとり腹を立てて怒鳴っている石田に、皆は白い歯を見せている。なぜ同じ単語で、同じ発音でタイ語を話した筈なのに、チャナイには通じて他には通じなかったのか? たったの半年で日常会話が習得できたと喜んでいた石田は、少なからず傷付いた。
帰りの車中でチャナイにその疑問をぶつけた。
「〈私はネハン(ご主人様)の持って居られるボキャブラリィの範囲が判っていますので、何を仰りたいのか見当が付きます。でも今日の連中はその幅を知らないから、まともに発音を直訳したのでこんがらがったのでしょう〉」
な~るほど。もっと語彙を広げ、発音も磨かないと商売じゃ通用しないのか。しかし、この運転手クン、流石に選ばれただけあってたいしたもんだねえ・・・。石田は 一人つぶやいた。
「〈クン・チャナイ。このテープ伸びちまったよ。聞き過ぎたのかなぁ〉」
「〈クン・イシダ。その音楽、好きみたいですね。いつも聞いているから・・・。何て言う歌手ですか?〉」
「〈小林旭の"ダイナマイトが150屯"という唄なんだけどね。帰国した時、また買ってくるか。 じゃ、おやすみ〉」そうやって別れた翌朝、いつも通り、迎えのボルボに乗り込むと、《♪ダイナマイトがヨーホホホ♪》
「〈えっ。直ったの? どうして?〉」
「〈一晩、冷蔵庫に入れておいたんです。多分、熱持ったんじゃないかと思って〉」
ふぇ~、たいしたもんだ。「〈じゃ、このテープ、切れちゃってるんだけど何とかなるかい?〉」石田は車のボックスから、ちょん切れた荒木一郎のカセットテープを取り出し、チャナイに渡した。
そして会社が終わり、玄関前のボルボに乗り込んだ時、《♪真っ赤なドレスを君~に~♪》ひぇ~。こりゃタダモノじゃない・・・。
翌朝、迎えのボルボに乗り込んだ石田は少々恥かしそうに、今度は両手いっぱいに盛りこぼれそうなテープの塊を渡した。
「〈俺が一番好きな佳山明生のテープなんだけど、この前、分解したらバラバラになっちまってねぇ・・・〉」
この聡明かつ従順なパートナーであるチャナイから駐在中、一度だけ、真顔で注意されたことを石田は生涯忘れない。或る夕方、いつもの殺人的渋滞の中、花束を抱えた男児が車窓を叩くので、買ってあげようと窓を開けたその途端
「〈クン・イシダ。止めて下さい!〉」と叫ぶや否や、自分の窓を大きく開け「〈コラー、来るな。帰れ!〉」と怒鳴った。止まった車の波を掻き分けて近付いて来ていた他の子供たちも、蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。
「〈ネハン(ご主人様)、絶対に買わないで下さい。あの子たちは一旦、味を占めると撥ねられるまで止めないのです。外国人の同情は却って迷惑です。ご好意には感謝しますが〉」
頭から冷や水を掛けられた思いであった。













