駐泰日記「冷熱商人」より メナムに吹く風㊦

      2022/12/30

タイW社に空調部門を創設した、伝説のエンジニアH氏の志を受け継ぎ、病を得たパイサン社長代行としてW社に赴任した石田章夫。「New W-ing」の名のもと、営業・技術・品質・製作・購買・原価・財務・広報の8部門の体質改善を断行し、新しいビル空調システム《ビル用マルチエアコン》の市場導入を果たすが、歴史は暗転、思いもよらない悲劇が彼らを待っていた。

 

第三章 青春の遺産

 それから12年。1994年のタイ経済の急伸張はビルラッシュの形で大きく現われ、W社の空調売上げは既に54億円、前年比はバブルの勢いで162%という驚異的伸張を見せていた。私が経験した日本での伸び率は、バブル絶頂期でも127%が最高記録であったことからも、その異常ぶりが判る。背景にはバブルが弾けた日本のダブついた資金が大型ポンプで注ぎ込まれるように投資され、その運用に皆が狂奔していた。

 その激動のさなかに、W社のパイサン社長が肺ガンで倒れた。40%株主の菱美電機としては緊急経営支援を行うべく、社長代行の人選を始め、同年10月、和歌山工場営業部長であった私石田章夫の派遣を決めた。私にとってはまさに晴天の霹靂であった。

 1994年(平成6年)12月5日、成田発10:55JAL717便。私は搭乗前に妻に出立の電話をした。
「今から行ってくるからね。昨日の浴室の水漏れ、菱電不動産の守政君に頼むと早くやってくれるはず。すぐ電話するんだよ。じゃあ」

 何のことは無い。別れの挨拶をするどころか、風呂場の修理が気掛かりのまま、いつ帰るのかの約束も無い外地に飛び立った。あんまりしんみり話すのも気が緩んでしまうというツッパリも半ばあったのであろう。つれない挨拶であった。そしてパスポート8冊目の海外通とも言える私にとって初めての「片道切符」での搭乗であった。

 「サワディカップ、トゥクトゥクタン(皆さん、こんにちわ)。ポンチュウ ISHIDA タムガーン ユウティ RYOBI ジープン(私は日本の菱美から参りました石田と申します)。・・・・・・・ブツブツブツ・・・・・・」
 私は機中の7時間、座席シートでぶつぶつ、ぶつぶつとタイ語での赴任挨拶を復唱した。2ヶ月の特訓講座で世話になったタイ人講師に翻訳してもらった挨拶文と、その録音テープをいつも身体から離さなかった。私は永い海外営業の経験から、初めての訪問国には先ず現地語の挨拶を、例え短い文章でも、メモを見ずに笑顔で語りかけるということを心掛けていた。これが長期駐在ともなれば尚更の思いであった。

 15:55(日本時間17:55) バンコク空港到着。窓外に見える緑の森、椰子の林。これまで少なくとも5回は見ているこの景色も、此処に住むともなれば特別な感慨である。
(どうぞ、よろしく。お手柔らかに・・・)

 私はその赤い大地に目で挨拶した。気温35℃。出発の成田は14℃であった。

 

◆ワット・プラ・ケオ(エメラルド寺院)にて

 翌日、W社役員会。私の赴任を待っての開催であった。役員は7人構成で40%シェアのパイサン一族が3名。同じ40%の菱美電機は海外本部山本副本部長、駐アジア事務所富永室長。そして各10%のタイ菱美商事浜田社長、KYW社プラポン副社長、計4名に、今回新たに私が副社長として、パイサン社長の長男テパリット君が取締役として追加され、合計9名となった。パイサン社長としては自分の身体の心配もあることから、名門タマサート大学卒業仕立て、弱冠22歳の長男を役員に加えたのである。

 役員会は一時退院のパイサン社長の独り舞台で厳粛に進行。威風堂々。咳をする人さえ居ない。確かに彼が倒れたら、果たして誰が後を・・・日本の皆が心配していることが現実として目の前に展開している。新役員の承認の後、ついに来た、私が挨拶をする番が!この日のために奮闘努力したタイ語スピーチを場の雰囲気に合わせて厳かに始めた。が、緊張のあまり一行抜かしてしまった。しかし大意に障りの無い部分だったので、何とか無事終了。
「おおっ、やるじゃん」
「なかなか発音がいいよ」
と皆から大きな、そしてヨイショ半分の拍手を頂いたが、会の終了後、パイサン社長から
「クン・イシダ(石田さん)、よく来てくれた。そして、そういう心構えで来てくれたことが何より嬉しい」と肩を抱かれた時、私にはこの2ヶ月の特訓努力が報われた気がした。

 続いて御曹司テパリット君の挨拶。正面のパイサン社長の眼が潤む。あたかも《秀頼を頼む》と言わんばかりの風情に、皆の視線は社長の方に注がれていた。人前で公式挨拶をする息子の姿を初めて見たに違いない。

 滞りなく役員会が終わり、社長室でパイサン社長と二人で向かい合うと、彼はおもむろに自らの来し方をこう述懐した。
「最初はね、慣れたエレベータ事業だけやる積りだったんだが、香港R社の話を聞いてね、空調工事も取り込むことにしたんだ。そうするうちに電気・給排水・衛生そしてBAS(ビルディングオートメーションシステム)工事といった設備工事全般にわたる依頼が来て、いつの間にかそれも請け負うビジネスにまで広がって行ったんだ。それが結果的にお客にはW社に頼むと何でも揃うという《ワンストップ・コントラクター(いわば設備ゼネコン)》の企業イメージが出来上がってね。バブルのお蔭もあって、この10年間で従業員を150人規模から1500人という10倍増の会社にまで成長させたんだよ」

 そして、これからの仕事の進め方についての助言があった。

(1) タイ人を人前では決して叱ってくれるな。面子を重んじる国民性なので辞めていく。それが一番痛いんだ。
(2) 不満が出たら私に相談してくれ。1500人も居るのだから君の思うようには先ず行かない。焦らずゆっくりやってくれ。決して日本流、菱美流を押し付けないように。浮き上がってしまうからね。此処はタイなんだ。”Compromise(妥協)”が肝要だよ。
(3) 仕事については先ずは菱美製品の販売拡大に注力してくれ。加えて、日本および外資系の顧客を開拓して欲しい。現地の施主ならほぼ6割方のシェアは取れているんだが、日本人の世界には中々、入れていないんだよ。

 かなり後で知ったのだが、パイサン社長はこの2週間、10人居る事業部長を個別に訪ね、「今回の人事は決して菱美から押し付けられたものではなく、私がMr.石田を呼んだのだ」と説明して回ったらしい。事実、人選においては最終候補3人からパイサン社長自身が私を指名したと、駐アジア室長から聞かされていただけに、この気遣いには頭が下がった。

 その晩、ボラポン営業部長と夕食をとった折、彼はW社に来る前、永く日本企業と付き合った経験から日本人ビジネスマンをよく理解しており、流暢な英語で私にこうアドバイスした。

(1)  タイ人に日本人の勤勉さを求めるのは無理です。タイ人は《サバイ・サバイ(気分爽快!)》を旨としていますから、決して無理なことはしません。
(2) 交通渋滞に早く慣れてください。イラついたら負けです。だから余裕ある出発と、遅刻者への寛容な気持ちを。
(3) タイ語は必ず身に付けるように。それも半年以内に。英語が通じる社員は少ないので、これが最優先ですよ。

こうして私のタイ国「一日目」が終った。

「さぁ、いよいよ今日からだ」
 翌朝、初出勤でW社本社ビルに入った折、玄関脇がサービスエリアになっていたことに私は一瞬違和感を覚えた。部品の受入・発送に便利なのは分かるが、大小の部品・材料が玄関先の広いスペースを、ただ雑然と占拠しているのである。
(何とも勿体ないなあ。ここはW社の“顔”となるべき場所なのに・・・)

 ひと月があっと言う間に経った。或る日、総務部長のマユリー女史がバンコク・トラキット紙の取材申し込みを取り次いできた。日本で言えば、日経新聞にあたる経済紙である。業界大手のW社に対する日本財閥「菱美」からの人材投入は恰好のネタなのだろう。
(趣味は何ですか?家族はご一緒ですか? とまで聞かれるのかな・・・)

 取材当日、女史に案内され、ベテラン記者風の初老紳士が副社長室に入ってきた。そして挨拶もそこそこに切り出された最初の質問はこうであった。
「あなたはW社の社長になるのですか?」
 ギョッ。目を丸くするとはこういう時のことを言うのであろうか。言葉を失っている私に、続けて第二の質問が浴びせられた。
「菱美はW社を買収するのですか?」
 今度は吃驚するどころか、飛び上がってしまった。考えもつかない質問だったのである。ついさっきまで趣味は何にしようか、〝弓道”なんて言っても判らんだろうな? なんて考えていた自分はどこかに素っ飛んでいた。

「何故、そんな質問をするのですか?」
「いや、業界ではあなたが来たことで、専らそういう噂で持ちきりですよ」
 業界に大御所パイサン社長罹病の噂が広がり始めた頃、今まで顔も見せなかった菱美電機が突然、社長代行を送り込んで来たのである。スワッ、乗っ取りか? 誰もが思ったらしい。あとで知ったのだが、この疑問はW社社内でも、最も大きい関心事だったのである。

「私は現在、体調を崩されているパイサン社長のショートリリーフとして参っているだけで、元気に復帰されたら直ぐに帰国します。来たからには菱美電機の新技術を積極的に導入し、空調・エレベータ生産拠点を強化すると共に、販売拠点としてのW社の経営を更に支援する積りです」
 私は喋りながら、業界におけるこの疑惑は新聞で喋ったくらいでは到底、払拭できなるものではないな、経営支援をしているという何か具体的行動が必要だな、と思った。そして会見を次の言葉で締めくくった。
「では半年後に、菱美の姿勢をはっきりお見せしましょう。そしてそのとき御社をはじめ、業界の皆々様をお呼びして、菱美電機とW社の具体的なコラボレーション(協調)をご紹介します」

 このとき私の頭には、W社1階ロビーの有効活用に良い考えが浮かんでいた。
 というのは、折角H氏が築いた空調工事も現地は《セントラル冷温水方式》が主流で、熱源機は米国式の大型冷凍機であり、菱美のエアコンは売上の僅か3割。つまり7割は米国製品の購入であり、その量たるや、タイ全土のビル需要の6割シェアを有すると豪語するだけあって、年間10,000冷凍トン。日本市場の1/3の工事量を誇っていた。この分野は日本市場では《ビル用マルチエアコン》が主流を成していたので、私としては旧態依然のこの市場に日本オリジナルの空調方式を導入したいと考えていた。そのためには先ず社内にSE(システムエンジニアリング)体制を整え、業界の設計事務所・設備業者に向けて大々的に技術セミナーを展開する。私にとっては永年、得意としてきた仕事でもあった。

(1階ホールの半分を〝空調ショールーム”にしよう)
 それも総花的展示ではなく、《これからのビル空調》をテーマとして、日本流の個別分散式マルチエアコンで集中制御、かつ中央監視するという、いわば〝空調革命”にも値する新事業をこの新天地タイで思う存分、駆使してみたいと夢は膨らんだ。その実演・研修の場を「ショールーム」に求めたのである。
 そしてそのショールームの名称を皆に諮った。早速、翌朝、商品部長ナワニット女史が『空調ギャラリー』を提案してきた。
「RYOBI ELECTRIC AIR-CONDITIONING SYSTEM GALLARY いいね、恰好いいねえ」

 ナワニット女史は自分の案が採用されて、とても嬉しそうだった。W社には総務部長マユリー女史、経理部長ワンニー女史、そして空調事業部商品部長の彼女と、重要ポストに3人の女性が就いていた。そして何れも手際はいいし、仕事も速いし、手を抜かない。石田の在任中、最後まで自分の職務への責任を持ち、男性によく見る下手な妥協はせず、納得いくまで意見を交わした。私の育ってきた職場より遙かに女性の登用が進んでいた。

 1995年8月10日(木)。待ちに待った「空調ギャラリー」のオープンである。トラキット紙の記者を迎えたのが2月であったから、約束通り「僅か半年後」である。その晴れの舞台では《W社の事業指針とそれを支援する菱美電機の施策》をはっきりと、具体的に、業界に、そして銀行筋に示そうと期していたので、病気療養中のパイサン社長にも元気な姿で、一緒に記者会見をしましょう、と申し出ていた。(図らずも、これが彼の最後の公式行事ともなったのだが)。
 そして菱美本社に対しても、これからタイでやろうとすることに日本サイドからも積極的に支援して頂くべく、式典には冷熱事業部長神田文男の参列を要請した。

 W社本社ロビー。9:30には業界関係者、マスメディアも続々と集まり、100名を越えた。そして《9:59》、厳かにテープカットが執り行われた。パイサン社長、神田事業部長を挟むように、両脇に副社長の私、高杉駐アジア副室長が立ち、ジャスミンが束ねられた花輪テープに4人は鋏を入れた。何故、テープカットが「10:00」ではなく「9:59」なのか? それは西洋では『7』、中国そして日本では『8』、に対し、タイでは『9』がラッキーナンバーなのである。。

 10:59.お坊さんも縁起上『9』人が祭壇上に並び、読経が始まった。来場の日本人たちは好奇の目でじっと見詰めている。そして「お布施」が始まると皆、真剣に一番手のパイサン社長が袈裟の反物を献納する所作を見逃すまいと固唾を呑み、そして続けてぎこちなく真似た。 
 それが終わるとお坊さんの一人が手水鉢を脇に抱え、献納者の一人一人にいきなり水を掛け始めたので、日本人は皆、吃驚。ああ、そうだタイに来たんだな、という感慨があらためて湧いた。
 そして昼食。2階の社員レストランが仕切られて、パーティー会場に早変わりしている。「石やん、いいとこに来たね」
 事業部長の神田は国内販売の責任者であったが、入社以来ともに冷熱ビジネス一本で来た私にも何くれと目を掛けてくれていた。バブルが崩壊した後の日本の冷熱事業は海外との絡み抜きには立ち行かないという日頃の思いもあって、同志石田への支援は自分の職責でもあるとの決意であった。

 「ミスター神田、石田君をよく派遣してくれました。速い、やることがとにかく速い。このショールームも彼が来なかったら出来ていなかったし、私じゃ思いつきもしなかった」
 記者会見を前に、パイサン社長は感慨深くこれまでを振り返り、神田に言った。
「W社は父の代に出来ましたが、菱美電機との関係は私からです。当初エレベータからと思っていたのですが、空調との連携の成功例を香港に見たものですから、御社のH氏の力をお借りし、同時にスタートさせました。それが今では躯体以外はビル丸ごと請け負う《ワンストップ・コントラクター》となり、それは正解でした。しかし、パートナーの菱美さんはタテ割の事業部制で動いているので、自部門に関係ない事業にはなかなか理解が得られず、いまだに苦労しています」

 この最後の台詞が、銀行筋が《W社を菱美電機が、全力で支援しようという姿勢が見えない》と指摘する部分である。つまり、構成比30%を持つトップのエレベータ事業としては、残り70%の他事業分野、それも訳の判らない工事を伴う事業責任など、とんでもない!と、「現地生産会社のテコ入れに多忙の為」を理由に社長代行を辞退。結局、二番手20%の空調事業にお鉢が回ったものの、現実には米国製品が殆どで、菱美エアコンの売上比は3割弱。つまり、W社全体からすると僅か5%の冷熱事業部から社長代行が 送り込まれたのである。

 「神田さん。今、W社にとっての急務は日本からの投資に伴う日系施主物件を受注することです。ところが、この会社には日本人エンジニアが居ないため、日系ゼネコンからは引き合いさえ貰えていない現状です。私の在任中にその基盤を作っておきたいと考えています」 
 私は古巣の冷熱事業部長に訴えた。二人のやりとりを聞き、パイサン社長はようやく設備ビジネスを真正面に見据える仲間に出会えた、と満足の面持ちであった。

 13:00 記者会見が始まった。W社、菱美それぞれの社旗をバックに、パイサン社長と私が座り、それを結ぶキャンペーン・ロゴマーク「躍進するW社」をもじった「New W-ing(新しい翼)」を最上段に掲げた。
 もっとも、このロゴは赴任前の和歌山工場が経営改善の真っ只中で、その構造改革のスローガンが「和歌山」の頭文字をとった「New W-ing」であったので、同じWを用い、成り行きで膨張して来たW社を筋肉質の体質に変える為、10人の事業部長に意識付けを図った。大福帳で育った彼らにはこういう新しい手法が新鮮なものに写ったのか、営業・技術・品質・製作・購買・原価・財務・広報の8つのプロジェクトに対して、面白がって全社的立場での目標を設定し、縦割りビジネスユニットの組織の中で、横同士の交流を始めていた。

 「W社は総合設備ゼネコンとして《ワンストップ・コントラクター》を目指してきましたが、これからは更に菱美と組んで強固な地歩を築きたい」
 パイサン社長は罹病の噂を吹き飛ばすかのように、力強い口調で宣言した。
「そのために菱美電機は全面的に経営支援すべく“New W-ingの名の下に営業・技術・購買・財務等、8項目の体質改善を図るとともに、本日ご紹介した新しいビル空調システム《ビル用マルチエアコン》の市場導入をW社のエンジニアリング力でもって果たす所存です」
 私はそう言い切ると、フラッシュの下、立ち上がってパイサン社長と固い握手をした。

 「石田君、Hだよ。ほら昔、W社に居た。久し振りだね。元気かね?」
 こんな国際電話が唐突に掛かってきたのは、自分も”冷熱商人”たらんとメナムの地に着任してから僅か1ヶ月後の1995年、正月明けであった。H氏は現在65歳。定年で菱美電機を退職後も技術力を買われ、関係会社「菱美ビルテクノ」の嘱託としてシステム設計を請け負っている。
 「いやぁ、お久し振りです。すみません、ご挨拶もできず日本を飛び立ちまして。ほんと急な人事だったもんですから。ゆっくりお話しを伺って赴任したかったのですが・・・」
「いやいや、もう12年も前のことだ。すっかり様変わりしてて、役に立つ話なんぞ、もう無いと思うよ」
「でも毎日が驚きの連続で・・。自分としては30数ヶ国も行ってるので海外生活も今更って最初は思ってたんですがね。やはり出張で来るのと、住みつくのとでは大違いですね。おっと、ところでご用件は何ですか?こちらに来られるご予定でも?」
「いや、詳しくはそっちに行って話すけど、実は君にいい人を紹介したいんだ。ビナイさんと言うんだが、12年前、この人に助けて貰わなければ今のW社も無ければ、今の私も無かった」
 ビナイ氏とは、かつてH氏が、初めてのアジア進出で推し進めた、日本式の"職人営業"をサポートしてくれた菱美商事ハジャイ支店長のビナイ氏である。
「えっ、ビナイさん、それは是非。以前お名前だけはお聞きしましたが、まだ現役なんですか? 今はどちらに?」
「南タイのハジャイという町だよ。既に引退しているが、何しろ地元じゃ顔だからね。今月の11日に行くんだが、都合付くかい?」
「是非、是非、ご一緒させて下さい」

 ハジャイはソンクラー県にある南部タイ最大の商業都市で、マレーシア国境まで僅か60kmの位置にあり、この辺りからマレー系が増え、アラビア文字のマレー語新聞も多くなる。この地から首都に攻め上ったその時の大恩人、既に今は業界から引退しているビナイ氏との再会を果たしたいというH氏の強い思いに引きずられ、また彼をこうまで慕わせるビナイ氏とはどんな人なんだろう、という好奇心も手伝って、私は二つ返事で答えた。

 遠くから手を振って来る男がいる。H氏を後に付かせ、人混みを掻き分けてこちらに向かって来る。青山登である。H氏は昔、W社に赴任するにあたり、本社に対し助手を一人、日本から同行させたいと要請した。そのスペックはアフターサービスの出来るエンジニアという条件で、これは香港での体験に基づく"開拓の心得"であった。  その人材は菱美ビルテクノに求められた。そして青山が選ばれ、その後まさしくH学校の"塾頭‟を努めることとなる。つまりH氏は新卒の若いエンジニアを早く一人前に育てるために、《鉄は熱い内に打て》とばかり、ビシビシとスパルタ教育を徹底した。一生懸命、付いて行ったとしてもその過程では当然、若者には不満やくじけも出たに違いない。それを繋ぎ止めた青山の役目はサービスエンジニアだけの貢献度ではなかった。本国には伝わらない、遥かに重要な役目である。そして彼のタイに対する打ち込み方も半端なものではなく、仕事、現地語は勿論のこと、2年の任期終了の際には、なんと美しいタイ女性を娶って帰国した。  その青山の後に懐かしいH氏の姿が現れた。 「やあ、お待たせ」  久し振り会うと、えらく痩せた感じがした。が、懐かしいサファリ帽姿は、16年前に私が初出張でタイに来た時に会った、当時のH氏そのままであった。 「Hさん、お久し振りです。お変わりないですね」 「Hさんは何処に行くにもこの格好。トレードマークでね。お寺の人混みの中でもこの帽子を目印に、直ぐ見つけ出したものです」  2年前から、今度はタイ菱美電機商品販売に出向していた青山は、今回のH氏訪タイの受け皿となっており、暫しのタイムスリップに昔を懐かしんだ。

  ハジャイ行きの機上、H氏と隣り合わせに坐った私は、今回訪問の経緯を聞いた。先のユタナ氏がいつも訪タイを呼び掛けて来る。最初は教え子の社交辞令だろうと嬉しく聞き流していたが、遂にこの前のクリスマス。いつも貰うX‘masカードがやけに分厚い。開けると、中にミュージックテープが入っていた。
《Hさんがあの頃、一生懸命覚えようとしていた唄です。これを聞いたらもう決心して下さいね。当時の教え子たちが皆、待ってますから。メリーX'mas。》
「もう行かないわけには、いかなくなったよ」
 はにかみながらも嬉しそうに笑みを浮かべ、H氏は窓外に目をやった。白い雲海は炎熱の陽を受けて、眩しく光っていた。そして、こうも打ち明けた。
「実は昨夕、バンコクに入ってね。ユタナの迎えで久し振りにコカ・レストランへ行ったんだ。何人かに会えるかな?ってね。すると貸切の大広間に20人以上の懐かしい顔が並んで居るじゃないか」
 軽い気持ちで、何人かの教え子たちとタイスキを囲めればいいなと思って入ったレストランでは、何と大勢の男女が待ち受け、全員が席を立って大きな拍手と花束で老先生を迎えたのであった
 集まったメンバーはW社社員は当然としても、既に退社したメンバーも多く呼び集められていたとかで、聞いている私も自分のことのように嬉しくなった。まさしくタイ版『二十四の瞳』である。

 そういう私に、氏は海外での先輩として一つの助言をした。
「いいかい。海外に出たら、まず慣れるまでバタバタするんじゃないよ。〝映画館〟に入ったと思えばいいんだ。暗がりでも時間が経ってくると段々、周りが見えてくるからね」
 成程、確かに。それを早く坐ろうとするから、人とぶつかったり、段からこけたりする。
「まず、奥行きがどこまであるかを知って動かないと、直ぐ壁にぶつかるよ。後で考えればそんなに時間は掛かってないんだから。でもまぁ、壁が何処にあるかを早く知るのもいいことだけどね」

 続けて、
「言葉を覚えないと、その国を理解できないよ。英語で押し通しても結局〝手旗信号〟で意思疎通したに過ぎないんだ。タイ語を習得しても、後で何の役にも立たないと言う人が居るが、その人は会社の事しか考えていない。何故、自分のためにと思わないのかなあ、折角貰ったチャンスなのに。その有難味に気付いていないということは、人生、損な道を歩いているということなんだよ」

 こうも言った。
「会社生活では一生懸命仕事もやったが、偉くもなりたかった。昇進に一喜一憂もした。でもね、今、考えればそれは60歳までの幻だったな。幾ら要領よく立ち回り、仮に権力を握ったとしても所詮、それは〝借り物”だ。定年には名刺と一緒に返納しなくちゃならん。返納した後に、何が残っているか。これが本当の値打ちだよ。何とこの〝幻”の中で、永いこと振り回されてきたことか・・・」

 誰に語り掛けるでもなく、いつの間にか独り言にも似た低いトーンとなり、この時は既に助言の語り口ではなかった。

「オー、ミスターH、Long time no see(おおぅ、Hさん。お懐かしい!)」
「いやぁ、ビナイさん。お久し振りです」
 ハジャイ空港ロビーで待ち受けていたビナイ氏は、H氏の姿が自動ドアから現れるや否や、警備員の制止も聞かず、転がるように駆け寄って抱きつき、そして老いた二人は肩を叩き合った。痩身のH氏と小太りのビナイ氏。抱き合う姿は無邪気さを通り越して観る者をジーンとさせた。とりわけ私はH氏のタイにおける開拓期の二人の苦労を聞かされていただけに猶更だった。そして意外なことにビナイ氏もサファリ帽を被っていた。
「ミスターH、君からプレゼントされたこの帽子、大事に使ってるよ」
「いやぁ懐かしい。それはね、あの頃、ビナイさんにと銀座で一番いいやつを探したんですよ。大事に使って頂いて、ほんとに有難う」

 それからの2日間、71歳のビナイ氏は一日中H氏の手を取り、他の者には指一本ふれさせない程の面倒見で、どちらが年長なのか判らない位のさまであった。僅か数年の触れ合いなのに、H氏に対するこのビナイ氏の熱い思い。昨夜の教え子たちの熱い眼差し・・・。腕一本でエリートと張り合い、負けん気だけで戦ってきた彼の現役中の処遇は恵まれたものではなかったかも知れないが、65歳の今になっても、彼の技術は多方面から必要とされ、12年前の《青春の遺産》は見事に異国に根付いていた。自分が同じ歳になったとき、果たしこういう喜びを味わえるだろうか? 私はその問いに、胸を張ってイエスと言える自信が持てなかった。

 2日目の朝、ビナイ氏はH氏の好みを思い出し、ホテルの朝食をキャンセルして、ホテルの裏筋にある大衆食堂に席を用意した。H氏は懐かしそうに古びた店の老いた夫婦に笑顔を向け、湯気の立つタイ風中華の朝粥をひと匙ひと匙、本当に味わうが如く、啜った。そして語りかけているのか、独り言なのか、粥に乗った干し肉のそぼろを噛みしめながら小さく呟くのであった。
「タイもこれが見納めかも知れないなぁ。帰ったら検査の結果が待っとるんだよ・・・」
「えっ・・・」
 私は陶匙を握ったまま身体が固まり、しばらく顔を上げられなかった。板壁の釘に掛けられたベージュ色の二つのサファリ帽だけが静かに五人を見降ろしていた。

エピローグ

『主人はゴールデンウイーク最後の日、5月6日に肺炎のため亡くなりました。大変痩せてしまい、体力の限界だったのではないかと思っております。只今は冨士霊園の一隅で静かに眠って居ります』
 H氏の奥様からお手紙が届いたのは、それから3年後である。
『仕事の都合で日本を留守にすることの多かった主人がどのように仕事をしていたのか、あまり多くを語らなかった人でしたから、実のところ私ども、家族もほんの僅かしか知らないのです。この度、このような物語に纏めて頂いたものを読ませて頂き、それこそ本人がこのご本を読めばどんなにか感激し、喜びは如何ばかりかと忖度しますと、涙がこぼれるので御座います。
 最後のタイ訪問から帰国しました時には大変な興奮状態で御座いました。昔の仕事仲間の方々の熱い歓迎のこと、ビナイ様のお心厚い御持て成しなどを嬉しそうに話してくれました。香港そしてタイでライ様、ユタナ様、ナロンチャイ様、ビナイ様はじめ多くの方々に支えられ、皆様のことは片時も忘れず、感謝致して居りました。
 いつの頃からか、海外出張の折には必ず携行したサファリ帽をそのままお骨箱に被せて、「また行ってらっしゃい」とお見送り致しました。まだ現役でご活躍中の各国の皆様方、そして石田様もどうぞお体に気を付けられます様、ひたすらご健康をお祈り申し上げます。本当に本当に有難う御座いました。 かしこ

平成11年9月25日   橋田 正子』

エンディング バック

 この物語は1994年12月、私がタイに赴任してひと月後の翌年1月。12年振りに訪タイしたH氏の開拓史を紐解いたものであるが、時代が移り変わっても戦士の営みは変わらない。
 後継の私は、同じ年の8月に「空調ギャラリー」をオープン。そしてW社・菱美電機の共同記者会見で両社の強い絆と、固い決意を示し、更なる事業展開を約した。しかしその直後、パイサン社長の容態が悪化。翌年2月、遂に息を引き取った。享年51歳であった。

 記者会見後、銀行筋の信用もとり戻せたので、後任社長にはジュニアを推し、全土の関係先への挨拶を済ませ、私はその年末に帰国した。丁度2年間の駐在であった。営業一本で過ごしてきた私にとっては貴重な体験であった。
 と、ここでエンディングとなる処であるが、現実の世の中は想像を超える。

 僅か半年後の1997年7月1日火曜。香港コンベンションセンターで挙行された「香港返還式典」には、155年振りの返還を祝うために世界中の華僑が集まっていた。

◆1997年 香港返還式典

 その隙を突いて、タイ政府は抜き打ちで「バーツの切り下げ」を断行した。元はと言えば、米ドルとタイバーツの「評価ズレ」に起因する暴挙だが、5月に始まった米国ヘッジファンドによる「バーツの空売り」攻勢に、タイ政府は必死になって「外貨切り崩し」で買い支えるも、ギブアップ。「変動相場制」への移行を決意した第一歩なのであるが、いつ発表するか? に迷った。そしてそれは経済界を支えるタイ華僑が出払った香港返還式典の翌日を狙ったのである。当然、W社新社長も参列していたが、突然のテレフォンストームに場内騒然。それから二日間、電話回線はパンクした。

 W社は一瞬にして100億円の借入が140億円の返済に化けた。加えて、これまで有利だったドル為替予約が逆目に出て、併せて総額100億円強の特損が発生した。
日本の銀行のタイへの投資残高は4兆円。その被害総額は1兆円を超し、W社を担当した菱美銀行の支店長代理は自身1000億円の焦げ付きを苦に2ヶ月後、自宅マンションで投身自殺を図った。

そしてW社はその年の12月に行われる筈の、それには私も招待される筈だった「創立20周年記念式典」を迎えるどころか、《事業売却》に追い込まれたのである。その無念さを味わうこともなく旅立ったパイサン社長。
「知らずに、良かったのかも知れません」
今は小さいながらも不動産業を営む御曹司テパリット君と来日の際に会った折、パイサン社長を偲びながら、あの《黄金の日々》を二人で語り合った。
「親父もまた裸一貫で、Hさんと一緒にビル建てて、きっと冷たい風を吹かせてますよ」

 ― 了 ― 

 

 

【編集後記】

数年前のGW、完全武装で出勤し、誰も居ない会社の顧問室に立て籠って、この本を書き上げました。というのは、その年に開設された「第1回藤本義一文学賞」に興味半分、応募してみるか、と無謀にも挑戦したわけですが、ものの見事に応募総数1003作品のなか、「落選」しました。

じゃ、どんな作品だったら良かったのかと、「最優秀作品」を買って読んでみますと、《還暦過ぎた仲のよい老姉妹が、御贔屓の旦那を巡っての恋の鞘当て》という筋書きで『メナムに吹く風』とは全く毛色の違うものでした。こりゃ「藤本義一」じゃ、なかったなと反省しました。「企業小説」なら一体、何だったんでしょうね?

「石田章夫」は「住田章夫」、「菱美電機」は「三菱電機」、「神田文男」は「半田文男」、肝心の主役「H氏」は尊敬する「浜田睦雄氏」で、最後に手紙で登場する奥様「橋田正子」様は「浜田正子」様です。
それ以外は、場所も、日時も、出て来る数字もすべて実話です。何故、覚えているのか?
それはあの《黄金の700日》、毎日日記を付けて、毎週月曜日、今は亡き妻と、九州の母に『駐泰日記』として郵送していました。初めての海外勤務で味わう異国文化を教えようと思ったわけで、30年後、著作の形で役に立つとは、当時は夢にも思いませんでした。
女房孝行・親孝行はやっておくものですよ、皆さん。

 

 

 

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