駐泰日記「冷熱商人」より メナムに吹く風㊤

      2022/12/30

欧米一辺倒のアジア空調機市場に、果敢に日本製空調機の導入を図った男たちがいた。時は二度にわたるオイルショック後の景気低迷期。打ち出したのは、「日祭日でも、真夜中でも駆け付けます。何処(Any brand)の機械でも直します」という、意表を突くサービスであった。

 

プロローグ

 

「この河は何と言う名じゃ?」
「メナーム・チャオプラヤー」
「そうか、メナム河か」

 不思議な話だが、‶メナム河″のことを現地人に聞いても誰も知らない。タイでは「チャオプラヤー河」と呼ぶ。メ(母)ナーム(水)。母なる水。つまり「河」を「メナーム」と呼ぶことを知らないその日本の大将は、チャオプラヤーという覚えにくい名前を無視して《河の河》と勝手に名付けたのである。そして我々、日本人は小学校から地理の教科書ではインドシナ半島の二大河川をメコン河・メナム河と教えられてきた。いやはやである。

 参考までにインドネシアで有名な「ブンガワンソロ」も現地語では「河」を「ブンガワン」と呼び、「ソロ河」のたゆとう流れを謳った彼の民謡は、日本でも知らない者は居ないだけに〝ブンガワン河″などと教わらなくて良かったと今にして胸を撫で下ろす。

 1995年1月11日 9:30快晴。此処はバンコク空港。

 BANGKOK――その昔、東洋のベニスと言われる程の水の都で、運河が碁盤の目のように巡らされていた。タイ語では〝クルンテープ(天使の住む都)″と称する此の地も、乾季は最高温度40℃、平均湿度70%、雨季でも36℃、湿度は何と85%と、この上なく蒸し暑い熱帯モンスーン。そこに初めて《日本の冷たい風》を送り込んだ男が、かつて居た。菱美電機冷熱事業部冷熱装置課の熟練技師であり、わが国における空調設備工事の海外進出の魁となった伝説の人――H氏。マニラの木材取引を扱った深田祐介のベストセラー『炎熱商人』に倣えば、『冷熱商人』とも言える人物、これから語るのは此のH氏の物語である。

 さて、空港のタイ航空ハジャイ行きカウンター前。私は石田章夫。当年48歳。1994年末に、菱美電機和歌山工場からタイ国代理店「W社」に副社長として赴任した。そして昨1月10日、既に東京からバンコク入りした筈のH氏、菱美電機を定年後、菱美ビルテクノサービスの嘱託になった氏を待っていた。約束の時刻になったが雑踏の中を見渡しても、彼の懐かしい姿はまだ見えない。もう、おっつけ来るだろうと腰掛けた途端、
「Excuse me, Are you Mr. Isida?」
と、見知らぬタイ人が近づく。
「そうですが、あなたは?」
「私はユタナと申します。昨晩、H氏とお会いして今日のハジャイ行きのことを知り、私も同行したいと申し出ましたところ、石田さんがアテンドされることを伺いました。よろしければご一緒させて頂けませんか」
 聞けばユタナ氏は、かつてH氏が駐在していた頃の「W社」に採用されたエンジニアで、今は既に独立して83名の従業員を抱える空調設備会社の社長さんであった。

 

第一章 香港への進出

 私が菱美電機に入社したのは1969年。それから4年後の1973年、戦後から続いた円とドルとのアンバランスは遂に"変動相場制"へと移行。そして同年、第一次オイルショック勃発。続いて1979年には第二次ショック。原材料の高騰で国内需要は大きく減退した。時の社長、進藤貞和は堪りかね、全工場に輸出比率10%達成を号令した。輸出売上が皆無そのものであった和歌山工場は大慌て。或る朝、営業部長広瀬福市は私を呼んだ。
 「石田。おまえ、これから当分一人で、輸出に專念せれ」
 早速、全商品の英文カタログを作り、先ずはビジネスが立ち上がっている香港とタイに飛んだ。当社冷熱の海外事業が機能していた国は、当時その2カ国だけであったからだ。そしてその開拓者であるH氏に助言を得たかった。というのは、既に営業出来ている筈の香港からもタイからも、なぜか和歌山工場製品には何の引き合いも来ない。行って判ったのだが、肝心の製品仕様も、価格も全く土俵に上がれておらず、現地代理店では仕方なく米国製を購入していたのである。

 そしてタイに移った。香港を立ち上げた彼の人、H氏が空港に迎えに来てくれた。麻の開襟シャツにサファリ帽を被っていた。
「やあ、よう来た。やっと和歌山もその気になったか。売れない理由は香港と同じだよ。先ずは技術部長を引き摺り出しなさい。きっと商売も動き出すから」
 夜、歓迎を兼ね、タイ名物「タイスキ」料理店『コカ・レストラン』に案内された。「タイのすき焼き」を語源とするらしいが、その中身は言うならさしずめ「タイしゃぶ」である。
「Hさん、香港が初めての海外渡航だったんでしょ。どうやって異国の市場で立ち上げたんですか?」
 彼は当時を思い出すように天井を見詰め、おもむろに話し始めた。

 1967年、私が入社する少し前であるが、H氏は菱美電機本社冷熱装置課で設備工事の中核となって居られ、年齢は当時40歳前か。当社冷熱輸出の歴史はまさにこの頃に始まり、その契機は香港キャセイホテル空調工事であった。それまでエレベータのみの代理店として機能していた『香港R社』が空調工事も手掛けたいと当社に申し入れがあり、冷熱装置課が技術支援することとなった。

 そして無事完工。引渡し後、R社社長から今後、空調事業も本格的に展開していきたいので誰かを派遣願えないか、との要請があり、結局H氏が選ばれた。彼としては初めての海外経験。言葉も判らなければ、文化・習慣も知らない。
「文化が違っても設備工事の基本が変わる訳はない。先ずは人だ」
 通常、早く立ち上げようと思うなら、経験者の採用、それも少々割高に付いてもヘッドハンティングするに限る。その費用は惜しまないとR社社長も言ってくれた。が、彼はすべて新卒で賄った。その理由は「なまじベテランを雇うと、言うことは聞かないし、慣れると贅沢を言い出すし、揉めるとすぐ辞めてしまう」ので、少々、時間が掛かっても、若い技術者を育てた方があとあと助かるという経験哲学を異国においても尊重した。そして、Mr.イップ、Mr.チャン、Mr.ライたちが採用された。

 「さあ、営業開始だ」
 陣容は揃った。が、さっぱり引き合いが来ない。要するに、知名度が無い為、誰も相手にしてくれないのである。
「じゃ、徹底的に日本式でやるか。ご当地流でやっても敵いっこないんだから」
 そこで香港日報に1週間、ぶっ続けで「空調24時間サービス」の新聞広告を出した。
《日祭日でも、真夜中でも駆け付けます。そして何処(Any brand)の機械でも直します》
 すると翌朝から電話が鳴り始めた。    
 リ~ン。リ~ン。リ~~ン。
「部長!長江飯店からです」
「部長!私は伯楽大厦からです」
「ヨシッ。お前たち、電話を取ったヤツが最後までやれ!」
 H氏は受話器をとった社員をすぐさま客先に飛ばし、機種選定、見積積算、工程管理、試運転引渡、代金回収、そして当然ながら保守メンテまで、徹底的にそのお客を最後まで面倒を見させるという営業形態をとらせた。今や、効率化が求められ"分業"が常識の世界となっているが、営業の基本はこうであったということを我々は語り継がねばならない。

 新規参入『香港R社』のこの営業姿勢は欧米メーカーに慣らされていた香港空調市場に一大カルチャーショックを投げ掛け、その噂は口込みで広がって行き、ついに香港最大のレストランMetropole Restaurantの空調工事を受注した。そして10年後、香港地下鉄PJ、尖沙咀(チムシャツイ)地区再開発PJを飛躍ステップとして香港No.1の空調工事会社に登り詰めたのである。H氏は5年間駐在し、しっかりその基礎を築き上げた。

 日本がエアコン輸出国に転じたのは、いつ頃か?
 日本貿易月報によると、1969年、ルームエアコンの輸入が前年の30千台から12千台と1/3に減り、逆に輸出が前年の7千台から19千台へと3倍増となって、輸入より実数が上回った。「入超」が「出超」に転じたのである。
 これを裏付けるように同年、電力需要でもピークが冬期から夏期へと転換。つまりクーラ―の消費電力量が電気炬燵などを上回った。 

 この転機を裏付けるビッグイベントが同年10月、香港国際大厦ジャパントレードセンターで盛大に挙行された。
 『第一回日本冷気機展』。入場者数4400名。初めて海外に日本製エアコンが紹介された。それを機に我が国はエアコン輸出国に変貌。参考までに物語の舞台となっている1995年の日本からの輸出台数は、ルームエアコンで942千台、業務用では275千台なので、わずか25年後に何と50倍の輸出大国に成長したことになる。

◆第一回日本冷機器展

 展示会主催者である近畿冷凍空調工業会の現地レポートにH氏が登場する。
「ジョブホッピングの多い国で人を使う場合は、常に新しい知識、技術を教え、そして惜しまずに与えることが大切です。威嚇や脅しで付いて来る者は居りません。この人に付いて行けば自分のプラスになる、と知らしめるのです。私としても最近、漸く判ってきたところですが」と語っている。

 

第ニ章 タイへの進出

「凄いなぁ! まったく営業の原点そのものですね」
「俺は工事屋一本で来たから、営業は”ど素人”なんだよ。でも何だね、営業って別に独立した技術って訳でもないね」
「それじゃ、タイでも”香港流”で、立ち上げたんですか?」
「処がなかなか、最初は空回りさ。参っちゃったよ」

 話はこうである。その後、彼の香港での活躍は東南アジアの菱美エレベータ代理店にあまねく知れ渡ることとなり、ついに1977年、今度はタイ国代理店『W社』からH氏ご指名の派遣要請が掛かった。
「H君、帰国早々大変やけど、今度はタイに行ってくれんね? W社も香港R社と同体質の会社やけん、今回の経験が絶対に役立つ。何よりもW社は創業、間無しやから、すべてが君の采配に掛かっとう。苦労も多かやろうけど、そんだけにやり甲斐がある筈ばい」
 既に和歌山から本社に移り、冷熱事業部長となっていた長崎出身の広瀬福市は、もう成功が見えるかのように喜色を浮かべ、H氏の肩を叩いた。

 W社はそもそも現社長パイサン氏が1967年、オーストラリア留学より帰国して菱美商事に入社したことが菱美グループとの繋がりの始まり。10年後、独立して菱美電機代理店を興し、先ずはエレベータ取扱いからと思っていた折から、空調との抱き合わせの成功例を香港に見たことで、H氏の力を借りることにした。

 1977年、菱美電機エレベータ・空調機代理店『W社』設立。社員50名。その空調事業の立ち上げに香港帰りのH氏が赴任した。彼は迷うことなく、香港で成功したやり方をそのまま踏襲した。Mr.ナロンチャイはじめ、工業学校の若者たちを採用し、十分に再教育して、市場には《24時間サービス》のアドバルーンを打ち上げた。香港効果を先出ししたのだが、予想に反して反応がない。その理由は、首都バンコク市場は香港以上に米国メーカーCarrier(キャリア)、Trane(トレイン)、York(ヨーク)に牛耳られていたのである。

 それでもそれらのメーカーのサービスは「悪い」の「遅い」のと、香港同様にお客の不満は大きかったのだが、創業したばかりのW社の知名度では・・・、と言うより菱美空調機、いやいや日本製エアコンの市場評価さえまだ無い現実では徒手空拳というか、空回りが続いた。H氏はパイサン社長のコネを頼って、必死で炎天下のバンコクを走り回り、値段も先行投資だと、目を瞑って実績作りのために思いっ切り、下げてもみた。
「こりゃ、駄目だわ。いくら土・日サービスやりますと言っても、大丈夫かな?と思われていちゃ、コールしてくるわけがない。値段も下げれば下げるほど、安かろう悪かろうで、お客は遠退いていく」

 そこで彼は戦法を変え、バンコクを離れて、米国メジャーの手が薄い地方から攻め上ることにした。その地方とは南部タイ「ハジャイ」である。パイサン社長は菱美商事時代の経験からH氏にこう助言した。

◆ハジャイ

「ハジャイは地方では中核の市場だし、加えて菱美商事ハジャイ支店長ビナイ氏は地元の有力者でもあり、必ず応援してくれる筈だ」  
 ビナイ氏はH氏より6歳年上。名家の出なので地元ではオーナー筋に顔がよく利く。それで菱美商事としても彼を支店長に抜擢採用していた。

 ビナイ氏の顔とH氏の技術。そして若いエンジニアたちの真面目な働き振り。この組み合わせは厚い信頼とともに、日増しに受注増の形で表れてきた。そしてH氏は本来の技術者に戻り、もう決して安売りはしなかった。
「良い空調を得るためには、これだけのコストが掛かります」
予算が無いので安い業者に発注せざるを得ないと弁解するお客には
「判りました。じゃ、その業者の図面を見せてください。設計診断して上げましょう。お金は要りませんから」

 このような前代未聞の営業法、ひと言で言うと”職人営業”をタイに持ち込んだのである。ビナイ氏はビナイ氏で、ただ客筋を紹介するだけでなく、H氏と施主との商談打ち合わせに進展がある度に「覚書」を作り、お互いのサインを取り付け、タイの商売に有りがちな《マイペンライ、マイペンライ(気にしない、気にしない)》で約束が反古にされないようサポートした。

 こうして得た南部での実績と信用評価は、当然バンコクにも伝わり、そして2年後には念願の首都圏に攻め上ったのである。その契機となったのが国立プラナコン病院の受注。遂にメナムの地に日本の《冷たい風》を送り込んだ。私が初めての出張でH氏と会ったのがその頃である。
 その後、記念碑となるシャングリラ・ホテルの大型受注を機に、香港の時と同じように売上は拡大し、そして6年間の駐在が終わった。帰国時の空調売上は、赴任時の10倍になり、今やW社の中核事業に育っていた。

 

―メナムに吹く風【第三章】につづくー

 

 

 

 - コラムの広場