都の西北青春記

      2017/08/16

中野 健司

わせだ桜

東京オリンピック開催の年に

わせだ2昭和39年(1964年)、憧れの早稲田大学に入学した。
時は折しも東京オリンピック開催の年で、活気に満ちた時代であった。覚えているのは聖火ランナーの最終走者を早大同期の坂井義則氏(早大陸上部)が務めたこと、あと一つはエチオピアのアベベが五輪マラソン2連覇したことなどである。残念ながら、日々練習で競技場に行って実際に観戦することは叶わなかった。

憧れの白いユニフォーム

私は早大入学後即、憧れの白いユニフォームを夢見て硬式野球部に入部した。新入部員は約40名ほどだった。当時は東京6大学リーグ戦8シーズン連続Bクラスに低迷していた。部内には何となく悲壮感が漂っていた。しかし、地方から出てきた自分にとっては充分に刺激的な場所であった。
甲子園で活躍した大塚弥寿男捕手(波商時代怪童と呼ばれた尾崎行雄投手とバッテリーを組んだ)、わせだ3甲子園春、夏連覇の作新学院八木沢荘六投手、同期で中京商業出身の三輪田勝利君(後にオリックスのスカウトとしてイチローをスカウトした)など。そういうメンバーと同じグラウンドで練習できることを幸せに感じた。また冬季練習では、体力強化のために小掛昭二氏が指導に来てくれた。(小掛氏はメルボルンオリンピックの3段跳びで優勝し、当時の世界記録保持者であった)

天皇杯でビールの回し飲み

1年の春季リーグ戦より監督が交代し、石井藤吉郎新監督のもと快進撃を重ねて、久しぶりの優勝となった。東京6大学早慶戦は対抗戦として大変な人気で神宮球場は7万人の大観衆で超満員。入場札止めとなり、球場外にも観客が溢れた。われわれ1年生は場外整理係で試合は殆んど見なかった。
優勝当日の新宿は祝勝会で、歌舞伎町のコマ劇場界隈は、校歌「都の西北」の大合唱で大変な盛り上がりを見せていた。われわれ野球部員は安部寮講堂に集まり、優勝の天皇杯でビールの回し飲みをした。4年間で3度の経験にも恵まれた。一生忘れられない貴重な思い出になった。
練習グラウンドの安部球場はキャンパスの隣にあり、授業の合間を見ては沢山の学生が練習を見に集まっていた。福高同期の藤和義君、下枝堯君、井手広一郎君らも来てくれて大変嬉しかった。残念ながらレギュラーの座は夢に終わったが、充実した思い出であった。

中島亮三君と6畳間で同居
住まいは最初、安部球場近くの下宿で、一部屋2畳のタコ部屋。四方が襖で窓もなかった。2年生になって高校時代バッテリーを組んだ今は亡き中島亮三君(彼は日大に進学)が一緒に住むことになり、戸塚の6畳一間のアパートに移った。ここで3年間、寝食を共に暮らしたことも今となっては懐かしい思い出である。

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