「その時、君は?」【007】1964 Oct.- 寝ても覚めても「尺八」だったあの頃のこと。

      2020/03/24

 

 「その時、君は?」――あの日あの時あの場所で、あなたは何をしていましたか? そんな問いに対して、関忠君や相賀誠君が綴ってくれたクラシック音楽への熱い想いは、私にもあった青春の日々――美しい音に心をわしづかみにされ、自ら奏でたいと渇望し、精進した遠いあの頃に連れて行ってくれた。少し違うのは、私が夢中になったのは和楽器の「尺八」である。

 

1964 Oct.-

その時、君は?【007】藤本 茂

◆一尺八寸管(D管)と尺八古典本曲譜(曲名:産安)

 

1964年 不純だった「九大邦楽部」への入部動機 

 尺八との付き合いは、大学で邦楽部に入部したのが始まり。入学直後の前期には空手部(こちらも何となくカッコいいという不純な動機であった)に入部していたが、夏休みにバイトに明け暮れて疎遠になり、自然退部。後期になり、クラスメイトから一緒に邦楽部で尺八をやらないかと誘われ、優雅に琴を弾く女性部員たちの姿に目がくらんだのと、授業の空き時間を部室で過ごせることにひかれ、入部することとなった。

 初めて尺八を吹いたときは、全く音が出なかったので、「こりゃだめだ!すぐに止めよう・・」と思ったが、持ち前の負けん気から、必死になって吹くうちに、何とか音が出るようになった。さらに部室で琴や尺八の部員との会話や合奏をやるようになると、尚更楽しくなり、どんどんのめり込んでいった。中でも思い出深いのは7月の篠栗・明石寺での5泊6日の合宿。朝から晩まで演奏に没頭し、これで結構腕が上がった。これまでの人生、仕事以外で、あれほど無心に一つのことに打ち込んだことはなかったのではないかと思う。

◆新入生歓迎音楽会(尺八前列右から2人目が筆者)

◆3年時の邦楽部名簿。尺八が23名、琴が26名 計49名の大所帯であった。

 

◈尺八の種類  ※上からA管、D管、E管

尺八は1年以上乾燥させた真竹から作られる。口から出す空気を楽器の吹き込み口に当て、空気を震わせて音を出すエアリード楽器で、フルートやケーナと同じ分類となる。
尺八には長さが異なるものが多数あり、その代表が二尺三寸管(A管:写真上)、一尺八寸管(D管:いわゆる尺八:写真中央)、一尺六寸管(E管:写真下)である。
これら長さが異なる管を曲によって使い分け、通常の曲はD管で、「春の海」などはE管、「尺八三重奏曲」の低音部や「ノベンバーステップス」などではA管を使用する。

 

1966年 余韻嫋々たる尺八の響きに衝撃 

◆1966年 NHK大河ドラマ「源義経」

 「なぜ尺八を始めたのか?」という質問をよく受ける。「感銘を受けた演奏家は?」とも…。そう問われてみれば、初めてプロの奏者の演奏を聴いて感銘を受けたのはいつで、誰だっただろうか? 今回回顧録を執筆するにあたって考え、それは1966年のNHK大河ドラマ「源義経」ではなかったかと思い当たった。

 1966年放映、尾上菊之助の義経、緒方拳の弁慶、そして音楽は武満徹。吹き上がる幽玄な尺八の音色、かき鳴らされる琵琶の音、そして両者のやり取りに呼応するオーケストラ…。これまで聴いたことのない異次元の音が作り出す劇的な世界は、諸行無常の哀感を帯び、滅びゆく平家一門や悲劇の武将義経への鎮魂の曲にも聴こえ、心を撃ち抜かれてしまった。この時の尺八奏者が横山勝也先生である。

 

邦楽界のスーパースター、横山勝也先生のとの出会い

 私が邦楽部に入部した1960年代の邦楽界は、まさに尺八が牽引したと言っても過言ではない。NHKの委嘱作品も数多くつくられ、テレビやラジオでの放送回数も多く、中でも尺八の持つその音色の多様性、表情の豊かさを体現する横山勝也の演奏は、邦楽ファンの心をわしづかみにした。その豊穣自在な音色と類まれな表現力、特に「ムラ息」と呼ばれる尺八独特の奏法に惹かれ、少しでも近づこうとさらに練習に励んだ。

◈横山勝也

東京音楽大学名誉教授、国際尺八研修館館長としても活躍。1963年、村岡実、宮田耕八朗と「東京尺八三重奏団」を結成。伝統音楽の発展的継承と新しい日本音楽の創造を目指して、1964年に「日本音楽集団」に成長した。流派とか、いわゆる社中というものを作らず、免状なし、自由な音楽教室を開く。1964年、山本邦山、青木静夫と「尺八三本会」を結成。1967年、小沢征爾指揮のニューヨーク・フィルと武満徹作曲の「ノヴェンバー・ステップス」を演奏し、その後世界各国のオーケストラと数多く共演するなど国際的にも広く活躍した。2002年、紫綬褒章受章。 2010年4月21日死去。

 

1967年 学生主体の演奏会を開催

 横山先生の音に魅せられ、尺八にのめりこんでいく一方で、部活動を続ける中で疑問に思うことも出てきた。当時九大邦楽部の技術指導は「都山流」の藤田先生が当たっておられたが、高校時代に流派の異なる「琴古流」や「上田流」の尺八を習い入部してきた学生が、流派の違いで居心地が悪いためか半年程度で退部するということが相次ぎ、それを何とかしたいと思うようになったのである。

 同時に、金と引き換えに免状を発行する家元制度や弟子を囲い込んで離さない社中制度にも疑問を抱き、それまでは藤田社中の全面バックアップで開催されていた演奏会を、学生の手に取り戻す活動を行い、学生自らが広告を取りに行くなど演奏会の資金を確保し、1967年1月18日(3年時)、下記ポスターのように「第1回九大邦楽部定期演奏会」開催にこぎつけた。

 しかし、住田君の投稿にもあるように、1968年6月2日に起こった、電算機センターへのアメリカ空軍機の墜落事故などを機に学生運動が高まり、落ち着いて邦楽の練習に没頭することも困難となり、翌年第2回演奏会が開かれることはなかった。その後邦楽部の定期演奏会が継続的に開催されるようになったのは、学生運動が沈静化した10年後くらいのことである。

 

 

 

 最初は「暇つぶし」のつもりで入部した邦楽部であったが、思いのほか情熱を注ぎ、現代邦楽界の至宝ともいえる素晴らしい先生方とのご縁を得、また友人も沢山できた。ここでは、そんな恩師の方々とのお付き合いと、創部60有余年、卒業後50年を超えて絆を深める邦楽部の同窓会活動について紹介することにしよう。

 

横山勝也先生(尺八)と私 

 1967年(学部4年)北九州市在住の琴の金沢歌光先生が、東京から尺八の横山勝也先生と17絃琴の菊池悌子先生を招いて演奏会を行うという噂を聞きつけ、横山先生の生演奏が聴ける絶好のチャンスと思いお手伝いを買って出た。
 その卓抜した技術はもちろん、人格面でも尊敬してやまない横山勝也先生に実際にお会いできたのは院1年になった1968年のことであった。福岡と北九州の2か所で演奏会を開催。併せて北九州では、九大や北九州大の学生十数名を集めて、先生たちを囲んでの意見交換会を開催したりした。

 1970年(武田薬品入社1年目)の大阪万博では、「ノヴェンバーステップス」の作曲者・武満徹が鉄鋼館の音楽監督を務められたため、横山先生の生演奏が鉄鋼館で行われることになった。残念ながら入場券は手に入らなかったが、上に書いた金沢先生主催の演奏会をお手伝いしたご縁を頼って直接鉄鋼館の受付に行き、横山先生の関係者として潜り込むことに成功、すぐ間近でその演奏を聴くことができ感激した。
 また、その後に横山先生が大阪で開催された尺八の講習会に大喜びで参加し、少しでも横山先生の技術に近づきたいと努めたりした。

 

金沢歌光先生(琴)と私 

 1968年の福岡、北九州での演奏会のお手伝いをしたご縁から、金沢歌光先生には大変お世話になり思い出も多い。
 金沢先生は、琴の筑紫会を主宰されていた筑紫歌都子先生の弟子として、歌都子先生が作曲された曲のお披露目演奏をされていた秘蔵っ子である。その関係で日本全国で教えておられ、私が大阪の研究所に就職したとき(1970年)は、金沢先生が教えに来ておられた大阪駅前の教室にお邪魔し、後に伊丹の平松先生の自宅で教えておられたときは、家内が習いに行っていたほどである。

 また、私が光工場に勤務していた時(1985年-1994年)は、徳山に教えに来ておられたので、光の社宅まで来て頂き、あるときは、歌都子先生の出身地である鹿野まで自動車でお連れしたりしたが、このことが後に鹿野に歌都子先生の顕彰碑を建設しようという下地となった。

◆金沢歌光先生が鹿野に建設された筑紫歌都子先生の顕彰碑

 さらにまた東京・日本橋の東京本社に勤務していた時(1994年-1995年)は、地下鉄・高田馬場の単身赴任寮から日本橋まで通勤していたが、高田馬場の隣の早稲田に歌光先生の稽古場があったので、何度もお邪魔させて頂き、東京在住の邦楽部同窓生のたまり場にもなっていたほどである。

 

中村旭園先生(筑前琵琶)と私 

 私自身在学中のお付き合いはなかったが、後輩諸兄が結成した「九州邦楽合奏団」で、「子供のための組曲」を演奏するに際して、旭園先生に琵琶の演奏をお願いしてから、その後学生を指導して頂くなど関係が出来ているようである。

 

メーリングリストが活躍する同窓会活動

 PCや携帯のメールが使えるようになった2000年頃から、昭和39年―平成6年入学までの邦楽部部員37名でメーリングリスト「九大筑風会(9tiku)」を作成し、日々の情報交換などを継続中。昨年10月時点で2,064通ものメールのやり取りを行った。

 

◈1994年 11月5日 東京・学士会館同窓会

 私が東京本社勤務になった時に、特許庁勤務の後輩のお膳立てで開催された。出席者は、大学4年間の同窓生たちで男子10名・女子10名の計20名。二次会は神田の飲み屋であった。

 

◈1996年 8月10日ー11日 篠栗・明石寺同窓会

 1996年8月には、毎年7月に5泊6日の合宿をしていた篠栗・明石寺で同窓会を行った。出席者は男子6名・女子2名の計8名。

 

◈2012年 10月7日 創部60周年記念同窓会

 それまでとは異なり、昭和36年から昭和57年入学までの幅広い年代27名が参加。料理屋の2階和室に琴や尺八を持ち込んで、琴尺八の合奏や尺八の独奏を行った。於:福岡市中央区荒戸「お料理みつやす」 出席者は男子18名・女子11名の計29名。

 

◈2019年 4月23日 金沢歌光先生を偲ぶ会 於:小倉ステーションホテル 

 2019年2月17日に亡くなられた金沢歌光先生を偲ぶ会が、昨年4月23日、北九州市の小倉ステーションホテルで行われ約100名が参列、九大関係者は10名が参加した。筑紫会家元の筑紫純子さんも出席し、筑紫歌都子さん作曲の箏曲「菅公」を献奏された。

 この日は、歌光先生の満80歳の誕生日。この誕生日を目前に、2月17日に亡くなられたわけだが、参列者全員で「ハッピーバースデー」を歌い、ケーキを切ってありし日の先生を偲んだ。

 偲ぶ会終了後、九大関係者の有志たちは、夫は尺八、妻は琴の同窓生夫婦のお宅にお邪魔して懇親会を開いた。一同、先生が「喜寿の祝いで歌いたい」とおっしゃっていた「ありがたや節」を三味線、尺八で演奏し、歌いながらご冥福を祈った。

 

さいごに・・・

 さて現在の私は…子や孫たちに「うるさい」と言われ、自宅で尺八を拭くことはめっきり少なくなった。
 しかし、言い忘れたが、「尺八の楽譜と言えば、タイトル画にも紹介しているようなロツレチハというカナ文字の羅列したもの」と皆さん思うかもしれないが、実は、入部以来、尺八の楽譜は全て手作りの五線譜を使用していたので、五線譜さえあれば、歌謡曲でもクラシックでも何でも演奏することが可能である。
 そこで、例えば寿禄会室内管弦楽団や相賀誠君から、何時なんどき合奏を申し込まれても後れを取らないよう(笑)、楽器の手入れと心技体の鍛錬は怠りなく、緊張感を保っていることだけは言っておきたい。

 

 

 

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