寅さんと豊後路
2018/03/13
好きだから強くぶつけた雪合戦
今冬は近年にない大雪で、各地で甚大な被害が発生した。1月22日、東京都心では積雪20cm超の「大雪」だった。
渥美風天には次の句がある。
好きだから強くぶつけた雪合戦
好きな女の子にわざと雪を強くぶつけた田所康雄少年の淡い恋の思い出か。
作家野上弥生子の生家
臼杵は、戦国時代には大友宗麟が覇を競った地で、小藩ながら幕末まで続いた城下町。99歳で亡くなるまでペンをとり「海神丸」、「真知子」、「秀吉と利休」等を代表作とし、文化勲章を受章した作家野上弥生子の生家は臼杵の名家小手川酒造であり、夫の英文学者野上豊一郎、安倍能成、岩波茂雄の三人は、一高、東大の同期で夏目漱石に師事した。弥生子は漱石の推薦で文壇に登場している。三人の墓地は鎌倉・東慶寺にあり、死後も仲良く語らっていることでしょう。ちなみに彼らの一高の同期生には、明治36年日光・華厳の滝で遺書「巌頭之感」を残して自殺した藤村操がいる。
さて寅さんは湯平温泉で、チンパンジ-飼育係の沢田研二、デパ-ト店員の田中裕子と出会い、おせっかいをやいて沢田の母の供養を行い、例のように大失敗をする。
山頭火が愛した湯平温泉
湯平といえば、漂泊の俳人種田山頭火を想いうかべる。山頭火は昭和5年11月湯平を訪れ、その「行乞記」に
しぐるるやひとの情けに涙ぐむ
秋風の旅人になりきっている
貧しう住んでこれだけの菊を咲かせている
等の句を記している。
その後12月、博多を訪れた山頭火は次のように記している。「さすがに福岡という気がする。九州で都会情調があるのは福岡だけだ(関門は別として)、街も人も美しい。殊に女は!若い女は!」
また西公園を経て松原づたいに名島へ行き、火力発電所と水上飛行場とを見て、次の句を記している。
松原ほしいままな道を歩く
正しく並んで烟吐く煙突四本
飛行機着いたよ着いたよ波
ちなみに昭和6年9月、かのリンドバ-グは名島飛行場に着水し、福岡市民の大歓迎を受けている。 その名島からさらに東へ行くと、今は福岡市東部の副都心ともいえる香椎へ至る。仲哀天皇と神功皇后とを祭神とする香椎宮があり、神亀五年(728年)「香椎廟」に詣でた大宰の帥大伴旅人と大弐小野老は、萬葉集にそれぞれ次の歌を残している。
いざ子ども香椎の潟に白たへの袖さへ濡れて朝菜採みてむ
時つ風吹くべくなりぬ香椎潟潮干の浦に玉藻刈りてな
ちなみに明治29年、香椎宮に詣でた漱石には次の句がある。
秋立つや千早古る世の杉ありて
山頭火の出演依頼を固辞した意外な理由
山頭火は昭和七年四月、長崎、佐賀を経て再び博多を訪れ、「筑前の海岸一帯は美しい松原つづきだが、殊に津屋崎海岸の松原は美しい。津屋崎の町はずれの菜の花も美しかった」と記している。
津屋崎につづく宗像・神湊の隣船寺には
松はみな枝垂れて南無観世音
の句碑があり、学生時代に見た。当時の住職が俳句を通して山頭火と親交があり、昭和八年建立で山頭火生前唯一の句碑という。
ところで渥美は、山頭火や尾崎放哉に強い関心をいだいていたが、早坂暁の脚本で山頭火を主人公とする企画の出演依頼を「寅さんをやってるおれが山頭火やって、人が笑やしないかね」と断っている。あまりにも寅さんのイメ-ジが渥美と一体化したためか。
二つの坂が谷町通りを挟んで向かい合う
さて湯平で別れた三人は、杵築で再会する。杵築も幕末まで続いた城下町で、その特異な形により「サンドイッチ型城下町」とよばれる。南台、北台とよばれる高台とその谷あいとからなり、高台には武士が住み、谷あいには商人が住んだ。
坂が多い杵築の代表的な坂である北台の「酢屋の坂」と南台の「塩屋(志保屋)の坂」とは、谷町通りを挟みほぼ一直線に結ばれており、その塩屋の坂で三人は再会する。
◆手前が南台の「塩屋(志保屋)の坂」、奥が北台の「酢屋の坂」
ロケ現場を見たおばあさんは「もうずいぶんと前のことですがよく憶えています」と語った。撮影現場を遠方から撮りに来た私は、おかしな人と思われたことでしょう。
城下町杵築でひいな巡り
◆杵築城天守、右2枚:旧家の雛飾り
そして映画の結末はというと、寅さんの名ならぬ迷恋の指南で若い二人は結ばれることとなった。二人の恋の成就を知った寅さんは、二人に会うこともなく「やっぱり二枚目はいいな。ちょっとやけるぜ」と言って、またさびしく旅に出るのでした。