竹田範弘さんLONG INTERVIEW 防衛大学校に学んで

      2018/04/14

■インタビューにお答えいただいた方/竹田範弘さん ①防衛大学校編

 

略歴(昭和39年―43年)

昭和39年4月 防衛大学校入校(横須賀)18歳
2年時:陸上要員に指定、3年時:基礎工学Ⅱを専攻
昭和43年3月 防衛大学校卒業  22歳
後期第4大隊学生長を務める、(卒業時)日本機械学会畠山賞受賞

今回は、防衛大学校から自衛官というベールに包まれた経歴をお持ちで、寿禄会ホームページに「フィリピンボランティア滞在記」を連載していただいた竹田範弘さんに、インタビューをお願いしました。

 

防衛大学校時代(昭和39年―昭和43年)

 

――こんにちは、竹田さん。お忙しい中インタビューにお応えいただき、ありがとうございます。防衛大学校は、「防衛省施設等機関として、幹部自衛官の養成を目的とした教育施設」とあります。そこで学ばれた竹田さんにぜひお話をお伺いしたいと願っていたところ、快くお受けいただき心より感謝申し上げます。どうぞよろしくお願いします。

 

 

――そもそも、防衛大学校に入学された動機は何ですか? ご両親の反対などはありませんでしたか?

竹田  中学生の頃からなんとなく軍記物を読むのが好きになり、日米の戦いを通じて、自分の中で国家意識が芽生えたのが遠因です。直接的なきっかけは、父の旧軍時代の部下の方が自衛隊福岡地方連絡部(募集・援護担当の機関)におられ、「是非受験を。」と言って過去問などを持っておいでになったことでした。

 

――日本の国の守り、愛国心などについて、どんな「志」を持って入学されたのでしょうか?

竹田  入学の時点では、実に単純で素朴なものでした。国の守りについても愛国心についても、防大時代の教育や自分なりの勉強で学んでいったと思います。考え方や専門的な知識の幅が広がりました。

――防衛大学に入学するには学力はもちろんですが、強靭な体力や精神力、運動能力などを備えていなければ難しいと思うのですが、竹田さんはいかがでしたか?

竹田  確かにそう思われるでしょうが、そう厳しいものではありません。健康診断はしっかりなされたように思います。確か、私は裸眼視力が0.6でぎりぎりでした。体力・運動能力は基本的なチェックでした。ただ、思想的背景の確認は、小グループでの討論や面接で行われたと思っています。

――やはり厳しい基準があるんですね~?

竹田  防大には「対番学生」といって、1年生には必ず1人の2年生が付いて、学生舎での生活全般や、防大での過ごし方をサポートするシステムがあるのですが、2年のとき私が着校のお世話をした人は、着校時の身体検査で体重がほんの少し足りなかったので、すぐ売店に行って色々食べさせ、たくさん水を飲ませて再測定してもらいセーフでした。懐かしい思い出です。

 

 

――全寮制の生活はいかがでしたか?

竹田  防衛大に入校すると皆が全寮制の「学生舎」で起居するのですが、ここらが思い出の中心ですから書けばきりがありません。

 1日の生活の中でのインパクトを覚えるものといえば、時間で規制されることがあります。入校当初1ケ月くらいの間、眠たいのを我慢して22:15の消灯時刻まで起きているのがつらかったです。高校時代は早寝でしたし、2月初めの防大合格の通知を受けてからは、皆さんを横目に見ながらゆったりとしていましたからなおさらのことでした。

◆現在の学生舎/防衛大学校ホームページより

学生の一日

6:00 起床
6:05 日朝点呼・体操
6:10-6:30 清掃
6:35-7:20 朝食
8:10 国旗掲揚・朝礼・課業行進
8:30-11:40 授業
12:00 昼食
13:00 課業行進(月水金)
13:15-17:15 授業
課業終了―18:30 校友会活動
17:30 国旗降下
17:30-19:15 入浴
18:15-19:15 夕食
19:35 日夕点呼
19:45-22:20 自習時間(各自勉強)
22:30 消灯

◆防衛大学校ホームページより

――身の回りのことは全部自分で?

竹田  今思うと人間の能力は多彩です。下着類の洗濯は週末と週の途中で1回くらいのペースでやっていましたが、慣れてくると、夏などは朝食後から課業整列までの僅かの時間に、前日着替えたものを洗って屋上に干し、テキスト・ノート等を準備し、着替えて飛び出していました。
 学生舎では掃除もよくやりました。朝起床点呼・体操の後と夕食後自習時間が始まる前の2回、公共場所と自室を手分けしてやります。廊下は昼食後を含め3回です。いつもどこもピカピカでした。

――上級生と下級生の上下関係がきびしいとのことですが・・・

竹田 上級生・下級生の間の関係は極めて紳士的でした。上級生の指導は理知的でなければならず、相手の向上を思いやった親切なものでした。ある特定の人を指導する時は、人目につかぬところで「私はこう思う。」と言って真摯に話をしました。当然のこととされていましたが、殴る・触るなどということは勿論のこと粗暴な言葉での指導は、在校間見たこともないし聞いたこともありません。将来幹部として部隊を指揮する責任を有する人間としてのモラルを身に沁み込ませるのが、防大学生隊生活の眼目でした。言い換えると、そういう人間を作ることが防大の使命なのです。

――厳格な集団生活にとまどったり、自由な時間がない、プライバシーがないなど、正直辛いと思うことはありませんでしたか?

竹田 私は生来よく言えば素直で、悪く言えば欲と覇気がない人間だったかも知れません。だから、慣れていくことには全く抵抗感がありませんでした。とまどったのは、防大に着いた日、布団で寝るのかと漠然と思っていたのが、ベットで毛布・シーツのみで寝たことです。これもすぐ慣れました。

 プライバシーについては、今もそうですが、隠そうという気持がないので何とも思いませんでした。自由時間も、与えられた環境を当然だと思えば、その中で見出して喜べます。時たまあった休講の時間などです。生活指導と週2時間の(いわゆる軍事的)訓練を担当する各級の幹部自衛官(訓練教官兼指導教官:指導官と言っていました。)は陸・海・空自衛隊から防大学生を育てるため選抜されて来ている人達であり、上級生は前述のとおりですから、私は正直言って辛いと思ったことはありませんでした。

◆左:課業行進(整列して教場へ行進)、右:現在の学生食堂 / 防衛大学校ホームページより

――「防衛学」とはどういうものですか?

竹田  「防衛学」は防大独特のカリキュラムですが、3年・4年でも週4時間か6時間くらいではなかったかと思います。「理工学」には国立大学と同等の時間を充当してあったので訓練の時間と防衛学に多くの時間を充当できません。(注:現在は理工学だけでなく国際関係などの人文専攻もあります。)休講などはあまりありませんでしたし、病気でもしないと欠席はしませんから、おそらく、私達は国立大学に勝る量の勉強をしたことになります。(中身は?ですが。)

――どんなことを学ばれたのですか?

竹田  防衛学としては統率学、戦術の基本、ミサイルなどの防衛工学などでした。統率学は、学問であるかは別として哲学的興味は覚えました。

――将来自分たちが負う重大な責務についてどのように考えておられましたか? また逆に不安や疑問に思うようなことはありませんでしたか?

竹田  防衛学で「将来の責務」を教えたわけではありません。訓練としての部隊実習が少しありましたが、生の自衛隊をあまり知らないわけですから、「将来の責務」について教えてもらうのは、幹部自衛官である各級指導官の(朝礼などでの)訓話、学校長などの訓話、来校の内外高官等の講演、総理大臣の訓示などでした。初代校長の槇先生(小泉信三氏が自らは任に就けないからと推薦された弟子)にご薫陶を受けたのは、私達12期生が最後でした。
 槇先生の「任重く道遠し」というお言葉があります。将来の国防や自衛隊について疑問に思うことはありましたが、この時点で深刻に考えたことはありませんでした。

――「体育学」とは何を学ぶものですか?

竹田  体育学は、防大としては大事な科目ですが、体育学教室が当時の理工学の6教室(機械、電気、応用物理、航空工学、土木工学、応用化学)と人文学教室より特別に扱われていたわけではありません。体育も多分国立大学並みの時間数で、特に多かったわけではありません。

 4年間で球技、水泳、柔道、剣道などを履修したと思います。正直言って、クラブ活動と比較すれば楽なものという思いでした。それと、記憶が定かでないのですが、いわゆるスポーツ科学の面が多くはなかったように思います。隊員を育てる部隊の管理者としては大事なのですが。

 

 

――防大の年間行事を見ると、春・夏・秋・冬季定期訓練などがあるようですが、これはどういうものですか?

竹田  前に申し上げたように通常の時期(一般大学の学期でしょうか。)の訓練は僅少なので、主に夏に3~4週間くらい集中的に行います。夏以外は短く、全学年共通でなく個別の計画です。訓練等に充てる時間は、防大の場合は、一般大学より休みを少なくということで組み立てられています。休ませてやりたいけどこれくらいで、というわけです。

――思い出に残るエピソードを教えてください。

竹田  私の思い出では、入校直後の1年春は約2週間の基本教練(オイチニオイチニです。)と持続走などの基礎体力作りでした。夏は校内とすぐ裏の海岸で水泳を主に行い、最後に遠泳をしました。上手な組は8kmでしたが、私は普通組で4km泳ぎました。秋の訓練は1年生のみ約1週間、北富士演習場に行って、各個戦闘訓練の基本を教わりました。

 そして1年の冬約1週間、新潟県妙高高原スキー場で旅館泊してのスキー訓練、これは4年間で一番楽しい訓練でした。因みに、私は積雪地部隊で勤務しなかったし自分ではやらなかったのでスキーは下手ですが、転び方だけは自信があります。スキー訓練では最初に徹底して転び方を反復しました。

 あと2年からは陸上要員としての訓練ですが、厳冬期の旭川での部隊実習、夏の金沢での部隊実習など思い出に残っています。金沢では現地解散でしたので、高岡市出身の同期生の家に寄り、立山に昇って、さらに福高同期の同じ竹田君がいる愛媛(大学)に寄って福岡に帰りました。

 また、陸上要員はよく富士の演習場での訓練にいきましたが、夏にトラックでの往復時、湘南海岸では海水浴を眺めて羨ましく思いながら走ったものです。訓練はきつかったですが、色々な楽しい思い出があります。

◆写真左上:3年生 夏の定期訓練は金沢の第14普通科連隊でした。演習場で小銃班戦闘訓練中です。
左下:3年生 金沢では近くの名所(白山・永平寺等)にも連れて行ってもらいました。これは安宅の関です。
右上:3年生 この訓練の解散直後に、高岡市出身の同期生と立山に登りました。登る途中です。
右下:1年生 秋の訓練(北富士演習場) 徒歩行進の小休止中です。

 

 

――その他、年間行事で思い出に残るものがあれば教えてください。

竹田  まず4月の入校式と3月の卒業式は、総理大臣や内外の来賓が来校され盛大です。特に、自分達の入校・卒業時は父兄の臨席もあり感慨深いです。5月の連休直前の新2年のカッター競技と新3年の断郊競技、11月開校記念祭(学園祭)時の棒倒し競技が、学生隊の大隊対抗の3大競技です。

カッター(短艇)は帆走もできますが、漕いで使うものです。何回か手のひらの豆がつぶれお尻の皮がむけて一人前になれます。

◆2年生  カッター(短艇)競技会でゴールして「櫂上げ」をしているところ。この写真は私が乗ったカッターではなく、防大短艇部が全国大会で優勝したときのものです。

――断郊競技とはどういうものですか?

竹田  断郊は背嚢・水筒をつけ戦闘服・半長靴で学校周辺の野山を小グループで走ります。一人でも欠けたらゴールになりませんから、不調者の背嚢を持ったりロープで引っ張ったりしてゴールをめざします。

◆左:3年生 断郊競技のスタート 写真が暗いですが、竹田は真ん中付近に居るようです。右:スタートから4~5kmくらい走ったくらいの緩い上り坂を頑張る竹田です。正面からは見えませんが背嚢を背負い水筒は後ろに回しています。

――開校記念祭に行われる「棒倒し」はかなり迫力があるそうですね。

竹田  棒倒しが最大のチームプレーです。各150名が攻防半数に分かれ戦いますが、攻撃がうまくいった時には絵をみるようです。中学・高校での棒倒しのような乱闘はしません。遊撃が相手の防御線に突破口を開き、そこを通って攻撃のスクラムが敵陣にとりつき、そこに間髪を入れず主力が連なって駆け上がり棒にとりつきます。下ではスクラムが押し込み・潜り込み、上では棒に昇って反対側に荷重をかけて倒すのです。
 一定時間で倒れない時は、両方とも失敗で中止、再度やります。団結・闘志を持ち冷静にチーム力を競うのです。これはまさしく戦場で求められるものです。やはり、この3つが一番ですね。

◆平成29年の棒倒し/防衛大学ホームページより

 あと開校祭の前夜祭ではプロ歌手を呼んだりしていましたが、不思議とその後有名になった人がいました。

 

 

◆4年生   秋の開校祭の前夜祭に
招かれた「いしだあゆみ」さんです。
この後有名になりました。

――防大には著名な方々も沢山来校されたのではないでしょうか?

竹田  数ケ月に一度くらい学者や作家など各界・内外の著名な人の講演もありました。少しがっかりした思いがしたのがライシャワー米大使です。ベトナム戦争最中でしたからアメリカの主張ばかりで、日本語でなく英語でした。(つまり公人の姿勢で話されたのです。)

 吉田茂元首相は春亡くなられる前の秋の開校祭の時お見えになり、グランドに整列した学生隊(我々)にお話をされ激励されました。杖をつかれお付きの方が支えておられたように思います。お話のあと観閲行進をしたと思います。

◆1年生の時、開校祭に来校され学生隊にお話をされる吉田茂元首相です。(翌春亡くなられました。) 

 韓国陸軍参謀総長の金大将には「日本陸軍士官学校の伝統はここ(防大)ではなく韓国陸軍士官学校にある。」と昼食会食後の短いスピーチの中で気合を入れられました。思いだせば色々あります。

――理工学「基礎工学Ⅱ」を専攻されたとのことですが、どんなことを学ばれましたか?

竹田  私の1期上の11期生までは理工学6専攻でしたが、私達の12期から基礎工学I・Ⅱが新設されました。当時独創的だった阪大の基礎工学部を参考にしたようですが、防大のそれは阪大ほどのものでなく、Iは電気主体プラス機械で、Ⅱはその逆でした。従って基礎工学教室が出来たわけではありません。

 私は基礎工学Ⅱを専攻しましたから、機械工学と電気工学の基礎を学びました。電気工学と機械工学の専攻学生数が全体の各1/3くらいでしたが、新設2つもその枠の中に収めました。私が学んだと言えるのは機械工学で、実験や実習が楽しかったのを思い出します。詳しくは忘れましたが、卒業研究はディーゼルエンジンの燃焼だったように思います。

――卒業時「日本機械学会畠山賞受賞」とありますが、これはどのような賞ですか?

竹田  これは簡単な話です。卒業の数日前に、担当の指導官から「機械教室の主任教授のところに行くように」という指示を受け小野教授室に伺うと、教授から説明があり賞状を授与されました。副賞として分厚い「機械工学便覧」をいただきました。活動とか特別のことがあったわけではなく、私が機械工学・基礎工学Ⅱの機械系学生の中で成績が一番だったという単純なことでした。機械学会が毎年各大学の機械工学専攻の卒業生1名?に付与しているということでした。

――優秀でいらっしゃったんですね~。

◆4年生 卒業式(写真は前年くらいのものと思います。)

 

 

――「学生隊」とはどういうものですか?

竹田  学生隊とは、学生相互の理解を深め、融和団結をはかり、共同生活を円滑にするとともに、将来幹部たるに必要な資質(部隊指揮および業務処理の基礎的能力)を涵養することを目的とした学生組織です。

 開校の時から設けられ、防大の学生は入校と同時に全員学生隊に所属することになります。教育や訓練、各種競技会など校内での行動や行事は学生隊を主体として行われます。

――どのような組織構成になっているのですか?

竹田  5個大隊に分けられ、各大隊が4階建ての学生舎1つに入っていました。各階が中隊で、1コ階には13の居室・寝室とその他の部屋・公共場所がありました。各中隊は3個小隊に編成され、第3小隊は1年生と小隊学生長及び室長の4年生が数名だけでした。第2・第3小隊は陸・海・空の要員別の2年生から4年生までで編成され、各室が大体均等に編成されました。

◆4年生 第4大隊学生長として行進する竹田です。

◆3年生 中隊学生長付として中隊旗の旗手を務め、行進する竹田です。

1室は8名で、廊下を挟み表の南側が寝室で北側が自習室でした。朝・昼に課業整列をし行進をして教室へ行き勉強すること、授業後学生舎に帰ってからクラブ活動に行くこと以外のすべての生活を学生隊が運営しています。前期・中期・後期ごと学生長が指名され、日々のことは1週間勤務の週番学生が行いました。学期は一般大学と同じ(前期・後期)だと思いますが、学生隊生活は、夏休みまでの前期、冬休みまでの中期、春休みまでの後期に区分されていました。
 私は後期ですから冬休み後の1月から卒業まで第4大隊の学生長でした。大隊は約400名です。(学生長は学校が指名し、週番学生は学生隊で決めました。)

◆左:自衛隊中央観閲式で、先頭をきって行進する学生隊、一団が1コ大隊です。神宮外苑絵画館前です。今は朝霞訓練場で行われています。右:1年生 12月8日未明のグランドに集合した学生隊。開戦の日にご英霊に対して観閲行進をしました。(現在はやっていないようです?)

――校友会活動(クラブ活動)は何をしておられましたか? 

竹田  学校に着いて最初の室長がラグビー部のマネージャーをしていた人で、「竹田は福岡高校だしラグビー部に入れよ。」ということで、すんなりということでした。1年間頑張りました。

◆1年生 クラブ活動 ラグビーの練習中

 ラグビーが嫌いというわけではないのですが、格技をやりたいという気持があり、2年になった当初に剣道部に移りました。初心者には基本から丁寧に指導してくれました。毎年昇段し3段になりました。

◆2年生 初心者入部の剣道部で初めての夏合宿です(富士吉田)。一番上右から5人目です。

 4年の時には、今度は初心者の指導を任されて頑張りました。その中の一人の林君が今防大剣道部のOB会の会長になっていて嬉しい次第です。(彼も陸上に進み、九州・沖縄の防衛にあたる西部方面隊の総監(昔流に言えば軍司令官)を務めました。)

――クラブ活動で思い出に残ることは?

竹田  合宿は自衛隊の施設などもありましたが、多くは地方の旅館でした。仲間ときつい練習の日々をやり遂げたという満足感が大きかったように思います。夏などは、お茶かけご飯ならぬ水かけご飯を流し込んだこともありました。不思議と下痢はしませんでした。(正露丸は飲みました。)

 剣道部での一番の思い出は、4年の秋の関東学生で、2回戦くらいで、前年度全日本優勝の国士館に勝ったことです。私は会計係でお金を持ってのお世話役でしたが、眼前に見ました。下枝君と話したら、早稲田は前年国士館に準決勝か準々決勝で負けたそうです。

 

 

――休日はどのように過ごしておられましたか?

竹田  現在は週休2日ですが、当時は土曜午後と日曜が外出でき、2年からは月1回外泊ができました。(クラブ活動の対外試合には特例があったと思います。)私の場合はあまり出たいとも思わなかったので、総じてあまり外出しなかったように思います。一人での外泊の記憶もないのです。
 でも、1年の時は室長が横須賀出身だったので実家に度々遊びに行ってご馳走になりました。あとはクラブ活動での対外試合の応援ですね。これは方々の大学などにでかけました。一人で外出時のパターンは、平坂書房(横須賀で一番大きい書店)に行って本を見て買い、美味しいものを食べて帰ることでした。

◆左:1年生 入校1ケ月後の連休時 新入生のためのバス旅行(箱根)、右上:3年生 1室8名の者で三浦半島の海岸でキャンプ(土・日)、右下:3年生 11期生卒業前の室会(へやかい)くだけた格好で楽しんでいます。

 4年になったら、剣道部の会計係だったので、マネージャーと組んで、試合前日から選手と一緒に東京で泊まることが度々ありましたし、3年から一緒の杉並出身の友達の家に泊まったこともあったと思います。外の人との交流はほとんどありませんでしたが、福高3年1組で仲良しだった高橋和行君が都立大だったので、何回か東京・横浜で会いました。/span>

――女性のカゲがまったくありませんね。(笑)

竹田  防大生がみなそんな感じだったというわけでもありません。3年・4年(つまり専攻が)一緒だった八幡高校出身の杉山君なんかちゃんと伴侶を見つけたのはいいのですが、歯科大生だった奥さんと一緒にというわけで、幹部候補生学校卒業後自衛隊を辞めて歯科大に入りました。夫婦で開業し、いま神奈川県歯科医師会会長をやっています。

――チャッカリとして無駄のない方ですね!(笑)

竹田  卒業前の秋にダンス同好会主催の恒例のパーティーが横浜のプリンスホテルで開かれました。同室の同期生が同好会長だったので、私も強く誘われて、特訓を受けて参加したのですが、最初「そう言われても僕はパートナーがいないよ。」と言ったら、彼は平然として「心配しなくていい、何人でも(女子大生を)連れてくるから。」と言うのです。色々の学生生活があったのですね。ここはこれくらいで。(笑)

――大学生活で出来た友人とは、どんな付合いをしておられましたか?

竹田  防大の同期生との付き合いが殆どですが、中でも3年・4年と2年間、文字どおり寝食をともにした基礎工学Ⅱ(訓練班も同じ。)の30名弱の人達及び剣道部で一緒に頑張った人達とは、親しい付き合いが続いています。勤務の中では励ましたり助け合いました。個人的な親密の度にもよりますが家族ぐるみの付き合いが多く、おそらく死ぬまで互いに見届けると思います。
フィリピンに行った時も、皆の便りを送ってもらいました。若い時に在外公館の警備官に希望して行き、そのまま外務省に移った者が一人いますが、機会ある度に皆で励ましました。

◆3年生初め 終生の親友達です。学生隊に団結を誇った陸上9班(基礎工学Ⅱ)です。
◆幹部候補生 候補生学校で 防大時代からの9班会をしました。左から2番目が歯科医師になった杉山君で、幹部候補生学校は卒業しました。竹田が何かを食べさせようとしているのが杉並出身の細野君です。

 
――夏季休暇、正月休みには福岡に帰省をされていましたか?

竹田  福高3年1組で前述の高橋君を含め仲良し3人組だった堀尾君(歯科医師になりました。)とは何度も会いました。東京でも会ったことがありました。互いの近況を話すのが主体で、これまた難しいことを話した記憶はありません。

 3年生の夏休みだったと思いますが、帰省の時、たまたま3年1組の同窓会があり、食事とお茶くらいだったと思いますが、散会後(旧姓)半田さんと天神の交差点の辺を少し歩いたことがあったのですが、前述の同専攻の野中君(警固中・修猷卒)がどこからか見ていて、休みが終わって帰ったら冷やかされました。

●昭和41~42年頃は、学生運動が盛んでしたが、同世代の学生たちの行動についてどう思っておられましたか?

竹田  確か3年生の時、神宮外苑での自衛隊観閲式に参加して帰りの京浜急行の電車に、羽田あたりで暴れてきたヘルメット・顔覆いの学生達が乗り込んできました。互いに一言も発することなく、間もなく下車して行きました。
 私は、非難・反発するより、同じ世代として「何を考えているのだろう。」というような気持だったように思います。何か不正義なこと・我慢できないことが動機であろうとは思いましたが、過激な行動にどんな意味があるかは理解できませんでした。

後編につづく。By 市丸幸子

 

 

 

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