江副さんとリクルートと私【第一章 ②】/小野塚満郎

      2020/10/21

 

趣味の株取引

 江副さんは株取引が趣味で、もはや趣味の域を超え、一種の依存症のようになっていました。始めたのはリクルートを創業して間もなくの頃だと思います。目的は資金稼ぎとは口実で、その実態は麻薬のような甘い誘惑だったのではないでしょうか。100を超える銘柄の売り買いをしていたようです。

 当初は、私を経理部に呼んだ上司が、株式台帳を作り管理していました。江副さんが株の売り買いを判断するのは夜中です。仕事が終わり、接待が終わり、全てが終わって社長室に戻って、指示が出ていたと思います。上司は毎晩遅くまで会社に残っていました。江副さんの家は会社で、社長室が居間でした。逗子から麻布に転居しましたが、ほとんど寝に帰るだけだったと思います。上司が忙しくなり、対応できなくなると、上司の秘書が担当になり、台帳をつけるようになりました。

 リクルート事件は、別稿で書きますが、江副さん個人の株式取引にも影響が出ました。株取引の対税務上の規則は詳しくは知りませんが、税務上取引件数、回数に制限があったのです。制限を超えると、利益に税金がかかるのです。ということは、制限内では利益に税金がかからない、そんな時代もあったんですね。江副さんは、国税局から子会社名義での取引も江副さんの取引と数えられ、件数が増えて多額の納税義務が発生し、請求書が来ました。裁判中のことです。江副さんは払いませんでした、延滞税だけ払っていました、資金が無いわけではありませんので意地で払わなかったのだと思います。裁判が終了して払いました。

 

失敗に終わった通信事業への参入

 通信の自由化――公共企業体が独占していた電気通信事業が民間に開放され、電電公社がNTTとして民営化されることが発表された時、江副さんは素早い動きを見せました。いち早く第2種通信事業者の認可を取り、通信事業に乗り出したのです。私が関連会社室長に就任した1985年(昭和60年)の事です。

 それは江副さんに取って、まさに「第2の創業」とも言える意気込みでした。社運をかけて取り組んだ新規事業への情熱は並々ならないものがあり、江副さんは私たちの顔を見るたびに「コンピュータを勉強しろ」、「COBOLを覚えろ」と、大変でした。並行して、これまで文系に偏っていた大卒者の採用に技術系大卒者の採用を加え、コンピューターがすぐに使える即戦力の中途採用を積極的に推進しました。そして、これらの人材がが後のリクルートを支える大きな力になったのです。

 通信事業展開のためには、全国展開が必要です。通信ネットワークを築くためには、拠点を全国に拡げることが不可欠で、そのためには多額の資金が必要でした。その額すべてを合計すると、一千億円を超えていたのではないかと思います。この事業は結果として失敗、撤退しました。自由化初期には多数の企業が参加しましたが、今残っているのは数社です。

 この投資に多額の資金を使い、大きな損失を出しました。しかし、その中でも大きな割合を占めた技術系人材の確保は、リクルートにとって大きな財産になりました。リクルートはこの先行投資により、いち早くデジタル化の波に乗り、事業転換に舵を取ることが出来たのです。

 

「企業の寿命三十年説」はリクルートには当たらない

 「企業の寿命は三十年説」というものがあります。企業が変化に対応せず三十年の年月が経つと、衰退し消えていく運命にあるという意味です。
 変化の一つは環境の変化です。新たな時流に適応できなければ企業は消滅します。もう一つは経営トップの姿勢です。社歴が長くなり成功体験が積み重なっていくと、つい「これまでこの方法でうまく行ったのだからこのままでいい」と考えがちです。この姿勢が衰退へ導きます。そうならないためには、考え続けるしかありません。江副さんは考え続ける指導者でした。

 

江副さんの記憶の倉庫

 江副さんの記憶力は相当なものでした。そしてその記憶力の活かし方には、特徴がありました。
 江副さんの脳の中は、情報のジャンル・テーマごとに、収納場所が細かく分かれていました。何かを考え、検討、判断するとき、そのテーマの収納場所を開き、すべての情報を取り出し、生かし考えて、会議や相手との会話に生かしていました。その間他の収納場所の扉は閉ざされていました。

 江副さんが何かの思考に没頭しているとき、他のテーマで相談に行っても、答えません、他の人に振ったりします。そのくせ相談した人が、江副さんが振った人に判断してもらい物事を進めると、後で江副さんに「誰が決めた、判断した」と怒られることがたびたびありました。

 江副さんは、自分が関心あること、重要なことには全て関与しようとしました。特に総務のイベントの社員総会、運動会、忘年会、全社部課長会等々には頭を突っ込んでくるので、総務担当役員は苦労しました。江副さんを知り尽くしていた、心理学者の大沢さんは心得ていて、江副さんから大沢さんと相談してと言われて部下が相談に来ても、答えませんでした。

 

有為の若者を道連れにしてはならない

 江副さんがリクルートを離れて、新しい会社を立ち上げていた時期のことです。江副さんから財務ができる若い人材が欲しいので紹介してくれと依頼されました。私は自分の優秀な部下を江副さんの会社に転職させようとしました、部下も了承し、江副さんに伝えました。

 ところが江副さんはどう反応したかというと、なんだかんだ難癖をつけ、「君はダメだ」と言うのです。江副さんは、ダイエーに自分のリクルート株を譲渡した時点で、リクルートは自分の手から離れたことを承知していました。自分とリクルートとの関係が、時間とともに距離ができるだろうことを予想し、そんな自分がリクルートの優秀な若い人材を引き抜いてはいけないこと、道連れにしてはいけないことを承知していたのです。そんな江副さんの思惑に気づいた私は猛省しました。私の人生で最大の過ち、危うく大切な部下の一生を台無しにするところでした。

 - 第一章③へつづく -

 

 

 

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