寿禄短歌の会 竹田範弘

      2024/02/06

 

 昔のことを想って短歌を作ってみました。読んで下さる方が「おっ竹田、元気にしとるばい」と思って下されば、それだけで満足です。

 

 私は昭和39年4月に防大に入りました。東京オリンピックの年でした。開会式のプラカード持ちの訓練時間をとるため、例年より短い夏休みでした。オリンピック開会の10月になり、母から誕生日を祝う便りが届き、お金が添えられていました。手紙には「家におれば赤飯でも作るが、せめて美味しいものでも食べなさい」ということに加え「偉くはならなくてもよいが、天下の大道を闊歩出来る人間であって欲しい」と書いてありました。
 母は10年以上も前に他界しましたが、防大の学生生活や自衛官としての日々を振り返ってみました。

◆写真左:昭和39年4月防衛大学校入校、左は同期の阿部保之君 右:4年生時、学生隊第4大隊学生長の指名を受ける

 

 30歳の時、教導連隊の副中隊長から防衛医科大の訓練教官に転任しました。学生課の係長も兼務しました。訓練と言っても、ほんの基本的なものです。生活指導が最も重要なことでした。私は、主に第1期生を担当しました。10歳違いでした。

 彼等にとっては初めての集団生活であり、大学生としての、何より医学生としての先輩がおりません。しかも出来たばかりの大学であり、求められる「総合臨床医」というものも姿がはっきりしません。私は「兄であり先輩として共に苦しもう」と思って努力しました。教室の先生方とご相談することに努めました。例えば、臨床教育のため学生舎での食事に戻れない者には、教授方のご意見を伺い、事務局と調整して、弁当を作って貰い届けることにしました。旅券の申請は、県庁にお願いし、出張して来てもらうことにしました。

 苦しいことの連続でしたが、学生のためと思えば喜びを覚えました。3年半勤務したところで、異動の内示がありました。「1期生が卒業する来春まで、あと半年勤務させて欲しい」と強く希望しましたが、駄目でした。後ろ髪を引かれる思いで、沖縄の第1混成群に赴任しました。そして、翌春の卒業式に想いを電報で送りました。

写真左:防衛医科大学校(埼玉県所沢市) 右:防衛医大剣道部(1期生・2期生・3期生)

 

 35歳の夏、沖縄で中隊長を命ぜられました。約170名余の現員でした。着任の数日後、帰省中のA2曹が佐世保で市民を殴って逮捕されたとの知らせが入り、身柄引き受けのため、翌朝早く熊本に行く便で那覇を発ち、長崎空港に寄ってもらいました。先ず、支援してくれる相浦の教育団にジープで行きました。

 副団長が「得意の時は冷然と、失意の時は泰然と」と励まして下さいました。更に駐屯地内で、中部方面隊から研修に来ていた警務隊のB2曹に偶然会いました。10年前に大阪での新隊員教育で育てた一人でした。高校を卒業したばかりで弟のように思ったものでした。互いに再会を喜びましたが、司法警察職員でもある彼は「大丈夫ですよ」と慰めてくれました。

 佐世保の地方検察庁に行くと、A2曹が綱で縛られて出て来ました。担当検事は、海上自衛隊の警務隊を定年退職後に特別枠で地方検事になられた方でした。「竹田さん、自衛官が連れて来られると、本当に切ないんですよ」と声を詰まらせながら、私達2人を励まして下さいました。略式の処分で釈放してもらい、2人で被害者を訪ねて謝罪し、赦してもらいました。直ぐに民航で那覇に戻りました。A2曹は教範を絵に描いたような隊員でしたが、酒を飲んで失敗しました。中隊長の懲戒権での処分に留めてもらいましたが、その後も中隊のため活躍しました。

◆写真左:連絡偵察機LR-1で大村へ飛ぶ 右:第302普通科中隊長離任式

 

 過ぎた日々を思い出すと、ほんとに多くの人達にお世話になったんだなあ、と感謝の気持ちで胸が一杯になります。元気で頑張らなければと思います。

 

 

 

 - 短歌