啄木賛歌〔上〕

      2020/10/21

 

 韓国の歴史や日韓関係に関心を抱いている友人が、時折その研究成果を我々二人に送ってくれます。それへの感想とお礼を兼ねたメールの中で廣渡君が韓国併合を悲しむ石川啄木の歌を紹介したのがきっかけでした。若い頃は共に啄木を口ずさみつつ、その後は他の分野に進んで文学や短歌に縁遠くなっていた二人が、しばし福高生の気分に戻ってメールのやり取りを続けることになりました。

 最初の数通のメールが韓国併合をはじめとして政治面にも言及しているのに、後のメールは啄木や短歌そのものがテーマになっているのは、そのような経緯によります。廣渡君が、青春の記録でもあるから寿禄会のHPに寄稿したら、というので、そうだなと応えてまとめてみました。コロナ危機のなか、その収束を思いながらしばしのなごみでした。

黒川 勝利

 

 韓国併合(1910年8月)に際して、石川啄木が

を若山牧水主宰の雑誌『創作』に「時代閉塞の現状如何にせむ秋に入りてことに斯く思うかな 明治43年の秋わが心ことに真面目なりて悲しも」という文章を付して発表したことは、よく知られているね。歴史家は、韓国併合に対する日本人民の違和感、抵抗感の代表としてこれをあげている。
(原田敬一『日清・日露戦争』岩波新書2007年、233-234頁)

 

 ぼくは昔から啄木が好きで、学生時代に古本屋で3巻の著作集を見つけて購入したことがあるが、もう手放してしまった。彼が社会主義に惹かれていたことや韓国の悲運に同情的だったことも読んだ記憶はあるが、何で読んだかはもう定かではない。
 今しっかりと記憶に残っているのはいくつかの短歌だけになってしまった。その中でもっとも印象に残っているのは次の歌だ。

 秀歌の多い啄木だからこんなのを好きなのは自分くらいかとずっと思っていたが、とんでもない。釧路には小奴碑があり、インターネットで調べたら最近は小奴さんの肉声も発見されたそうだ。晩年の小奴さんに当時の研究者がインタビューした記録らしい。

 

 石川啄木が北海道で詠んだ歌は、もちろん他も皆いいけれど、いいのが多いよね。啄木が好きだというのは、高校時代にはお互い話したことがなかった気がする。白水(秀俊)とは、生徒会の総務室で放課後、お互いが次から次に啄木の歌を言い合う、などということをやっていた記憶がある。

 これはロマンチックでいいなと思っている。これも歌碑があるらしいよ。

 白水が好きだったのは

 

・・・と思いだした。

 

 『胡堂と啄木』(郷原宏著)という本が昨年末に出版された。ぼくは野村胡堂と啄木の関係に興味があったのでいずれ読んで見たいと思いながら、そのままになっていた。先日のメールの応答の中で啄木についていろいろと出てきたので最近購入して読んで見た。先日のメールとの関連で記憶に残ったことをいくつか記しておく。

◈日露開戦の時、啄木は21歳。『岩手日報』に「戦雲余録」を連載、「好戦的な文章で、戦争に反対する社会主義者たちを口汚く論難」しているそうだ。「啄木はのちにトルストイの戦争論に感化されて反戦平和論者になるのだが、この時点では明らかに好戦的な開戦論者だった」と、著者は述べている。

◈啄木がいつトルストイの影響を受けたかについて、この本には混乱がある。本文では1911年4月頃に「平民新聞に掲載されたトルストイの「日露戦争論」をノートに筆写」し、それが「彼の戦争観を根本から覆した」とある。しかしながら、末尾の年表では1904年の9月に「トルストイの日露戦争論を読んで非戦論に傾く」とある。後者では早すぎるので、前者が正しいと思う。

◈1910年頃の啄木の思想や行動については、大逆事件との関連がかなり詳しく紹介されている。この事件の衝撃とクロポトキンの著書をよむことで、啄木は無政府主義に傾倒していったようだ。ただし同年の韓国併合については、残念ながら本書は何も述べていない。

◈先日のメールでぼくは好きな短歌として「小奴と・・」を挙げておいた。啄木の多情は周知のことだからその相手が釧路では小奴だったとぼくは思っていたのだが、本書によると、わずか76日間の釧路滞在中に彼は四人の女性と付き合い、その「四人が彼をめぐって『女のたたかい』を繰り広げ」ていたそうだ。そのしばらく前、すなわち彼が岩見沢、旭川を経て釧路へ向かった日の小樽駅に、妻の節子は吹雪の中長女の京子を背負って見送りに来ていたのに、そして啄木はその情景も短歌にしているのだけれど。

- 啄木賛歌〔下〕につづく。 -

 

 

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