聞き書き[満州国]の思い出

      2019/07/22

◆旧満州国・新京駅

 

はじめに・・・

寿禄会の皆さんとメールのやり取りをする中で、私たちが生まれた昭和20年(21年)当時、ご両親が満州にいた帰国子女が多いことが分かり、勝手ながら(笑)見切り発車で「満州帰国子女の会」を発足しました。

今回紹介するのは、山本智子さんがお父上である村井典男さんから直接聞かれた話、およびお父上が書き残された本「悠々蒼天」から抜粋したものです。日本人として、また人の子、人の親として忘れてはならない貴重な体験が綴られていますので、ぜひお読みくださいね。

なお「僕も(私も)同じ満州からの帰国子女だよ」とか、「アイツは確か帰国子女だと言ってたよ」という情報をお持ちの方は申し出て、ぜひお話を聞かせて下さいね。(編集部)

※掲載の写真は山本智子さんからご提供いただいたものです。

 

東大から満州「大同学院」に入学

ご両親が満州に渡られたのはいつ、お二人が何歳の時ですか?

山本 父は大正4年(1915)11月生まれで、昭和15年(1940)3月、24歳で東京帝大農学部農芸化学科を卒業後、4月に元満州国総務庁高等官試補・大同学院に入学しました。昭和18年4月10日に母と結婚しています。(父28歳・母24歳)

◆大同学院(全景)

◆両親の結婚: 戦時中にこれだけ豪華な花嫁衣装は珍しかったそうです。

どんな経緯で満州へ? お父様は満州でどんな仕事をされていたのですか?

山本 父の古い履歴書を見ると、
昭和15年(1940)11月 元満州国大陸科学院・高等官試補(院長研究室)
昭和18年(1943) 4月 大陸科学院・副研究官(農産化学研究室)
昭和19年(1944) 4月 新京畜産獣医大学・講師を兼務
昭和20年(1945) 8月 終戦・退官
とあります。

「大陸科学院」とは、満州国の国務総理大臣直属機関として1935年に設置され、日本の理化学研究所との関係が深く、白米に含まれる脚気を予防するビタミン(オリザニンン:ビタミンB1)の発見で有名な鈴木梅太郎が第二代の院長でした。

◆大陸科学院

最初は「院長研究室」に配属され、夏期は微生物の生産するリボフラビン(ビタミンB2)を冬期は菊芋イヌリンよりの果糖(フラクトース)の精製を担当していました。果糖は結晶し難くて手こずったが、冷やした果糖飴の甘味は最高で、砂糖とは「電灯とネオン、いやガラスと水晶やダイヤモンドとの違いだ」と吹聴して、甘みに飢えていた人達を羨ましがらせていました。梅太郎先生もビーカーに指を突っ込んで舐められたことがあったそうです。

「農産化学研究室」に移ってからは、副研究官として関東軍指定研究「寒地産植物からゴムの分離精製」に携わり、純粋なゴム質を分離することができ、きわめて良質とのことで、20年度の研究費約30万円が内定しました。「原料は貨車で、溶剤類はドラム缶で」と皆張り切ったが、実現には至らなかったそうです。指定研究に携わっていたせいか、父に召集令状は来ませんでした。

満州では何という町に住んでおられたのですか?

山本 満州国の首都である新京特別市(現長春)で、住まいは代用官舎の3階に住んでいました。

新京では、緒方嶺子さんご一家と同じアパートに住んでおられたそうですね。

山本 そうなんです、奇遇ですよね。本人同士はもちろん覚えていないのですが、嶺子さんのお姉様の話を伺うことができて嬉しかったです。

その新京で一つエピソードがあります。小学5年生の頃父から「○○君を知ってるかい?」と聞かれたので、おなじ香住ケ丘小の同級生だと答えると、「実は今日、新京にいた○○さんにばったり会ったんだ。お子さんが香住ケ丘小の5年だと言っていた」と言うのです。.

母の話では○○さんは、誰もが知る有名ホテルの御曹司だったのですが、大恋愛の末駆け落ちをして、勘当され満州に渡ったそうです。それはそれは、映画俳優みたいに美男美女のカップルで、当時の新聞や雑誌にも取り上げられたとのことでした。

父が「○○さん、ずいぶん生活に困っているようだ」と母に話しているのを聞きましたが、引き揚げて来ても援助の手を受けられなかったなんて、昔の勘当は厳しいですね。

智子さんのご兄妹は何人で、どこで生まれたのですか?

山本 兄、私、弟の3人で、兄は昭和19年に新京特別市義和路で、年子の私は昭和20年に新京特別市主聖大路で誕生。弟は引き揚げ後の昭和22年に、祖父が住んでいた香椎で生まれました。

◆京城の女学校に通っていた父の妹(美智子叔母)が、夏休みに遊びに来て、写真館で撮った写真。母に抱かれているのが兄です。(昭和19年8月14日撮影)

当時の日中の関係はどういう状況だったのですか?

山本 父が大学へ入学した昭和12年には、7月に盧溝橋事件、北支事変、続いて8月には第2上海事変が起こり、中国との全面紛争に入っていました。

当時は野球場にいても映画館にいても、「誰それさん、召集令状が参りました。直ちにご帰宅下さい」という放送を聞かない日はなかったそうです。クラスにはすでに応召した人もいましたが、父は召集を受けないまま何とか卒業でき、満州国に渡ることになりました。

 

※編集部注 盧溝橋事件:1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習中の日本軍が実弾射撃音を聞いたことが引き金になり、近くにいた中国軍と戦闘になった事件。日中戦争の発端となった。 北支事変(支那事変): 1937年〜1941年の期間、盧溝橋事件に端を発する大日本帝国と中華民国における戦闘を指す。第二次上海事変:1937年8月13日からの中華民国軍の「日本租界」への攻撃に端を発する日本軍との軍事衝突のこと。これを機に日本と中国はついに全面戦争へと踏み出すことになる。

 

人間の感情を麻痺させる戦争

1945年8月にソ連が満州に侵攻し、満州にいた日本人男子は戦闘に駆り出されるなど、日本人家族の帰国は困難をきわめ、かなり悲惨な目に遭った方々もいたと聞いています。その時のお父様、村井ご一家の状況を教えてください。

山本 わが家は新京にいて、住まいは代用官舎の3階だったのでそれほど酷い目には会わなかったが、ソ連の侵攻から逃れるため、北部辺境から都市へ向かって、隊列を組みほとんど徒歩で避難してきた難民の皆さんの惨状は見るに忍びなかったと話していました。

初めに侵攻して来たソ連兵は質が悪く、日本人が野宿しているのを見つけると女性たちを拉致し、その多くは戻って来なかったそうです。めぼしい物は奪われ着のみ着のままで、途中歩けなくなった老人や子供は落ちこぼれたままにされ、泣き叫ぶ幼児はソ連兵に見つかるからと周囲から非難されて、迷惑にならないよう捨てざるを得なかった母親もあったと聞いています。

新京で数日おきに回ってくる使役では、ソ連軍が持ち去ってパイプの無くなった水洗便器の掃除をさせられ、最後の検査では便器に残っている水を飲まされたこともあったそうです。戦後の在満邦人には、頼るべき軍も警察も法もなく、どんな仕打ちを受けても泣き寝入りする以外なかったのです。

酷い状況には父も次第に慣れ、転がっている死骸を見てもほとんど何の感情も覚えず、恥ずかしいことだが、死体が日本人でないとわかるとホッとしたと書き残しています。

敗戦になって、現地の中国人から迫害されたというようなことはありませんでしたか?

山本 ソ連兵に次いで入れ代わった共産八路軍、それを追い払って進駐した国府軍、警官等はいずれも何をされるか分からない恐ろしい存在だったが、父によると一般の満人から酷い仕打ちを受けることは希で、同情し親切にしてくれる人も少なくなかったそうです。

ある日買い物に出て帰る途中、父は満人の老人と二人ソ連兵に呼び止められ、地下室の雑貨を運びだし掃除をさせられた事がありました。作業中ソ連兵が鋭い眼をして、父が日本人ではないかとロシア語が少し話せるお爺さんに糾すと、「そうだ、しかしこいつは日本人の下っ端だ」と言ってくれたのが、父にも何とか聞き分けられたそうです。お爺さんの対応いかんでは、父はソ連軍に連行されていたかも知れません。

村井家の引き揚げはいつ、どのように行われましたか? 危険なことなどはありませんでしたか?

山本 昭和21年春に、米軍が新京飛行場にやって来て、ようやく日本への帰還が具体化し、7月下旬から待望の引き揚げが始まりました。引き揚げは途中さまざまな妨害はあったものの、米軍と日本人の組織的な行動、協力によって比較的整然と行われたそうです。

7月下旬、村井一家を含む3千名の部隊は新京を出発しました。列車はなぜか故意に止められ、そのままでは付近の暴民の略奪を誘う恐れがあるというので、そのつど運転手、警備兵などに差入れをしたとのことです。後で当時としてはかなりの大金、数十万円の割り当て集金があったそうです。

葫蘆(コロ)島に着くと、私たちの部隊は伝染病汚染部隊ということで、8月上旬まで足留めされました。コロ島滞在中は名簿書きや、近くの病院清掃などの使役に駆り出されました。

やっとリバティに乗船できることになったのですが、乗船間際に兄がひどい下痢をして、しかも血便で熱もある…。血の気が引いた父は、薬を飲ませ血便の事はひた隠しにして乗船したそうです。

幸い兄の血便はまもなく治まりましたが、博多までの間、船内で何人もの死亡者が出て、水葬が行われました。棺桶を滑らせて海に落とし、汽笛を鳴らしながらその周りを一周する寂しいお葬式だったそうです。

船が博多湾に入ると甲板は人々であふれ、中国の荒涼とした風景と違い、周囲の山のしたたるような緑の美しさに見とれ、涙ぐんでしまう人達もいたそうです。上陸すると、父が勤めいている会社の引揚者受付の人達が迎えてくれ、その夜は社員の家に泊めてもらいました。父の両親は既に京城から引揚げ臼杵にいて、翌日夕刻臼杵駅に着くと、父の弟妹が迎えに来てくれました。

引き揚げに当たって、私有財産などはどうなりましたか?

山本 引き揚げ時は持ち帰れる上限があったようです。嶺子さんのお母様のように、母もお金を布団に縫い込むやり方を聞いてやろうと思っていたらしいのですが…

質実剛健の鏡のような父は、決められた通りにすればいいと言って、お金を縫い込むどころか、引き揚げの前夜は大勢の大学の教え子たちが詰めかけて夜中まで別れを惜しみ、大切なアルバムも全部置いたまま、慌てて集合場所に駆けつけるありさまで、「全くもう、腹が立った!」と母は後年笑っていました。

父が作るコールドクリームが評判に

お父様は敗戦という苦しい状況の中、何かご専門を生かした商売のようなことをされていたそうですね。

山本 敗戦後父は秋から翌年春にかけて、豚脂を精製し、それを基材にコールドクリームを作り、これが当たって食いつないでいました。1個約120グラム入りのものを毎日100個作り、1個8円で卸したものが、20円、30円で売れたそうです。

毎朝7時頃には売り切れ、日中は材料を買いに満人街へ出かけ、掘り出し物を探していました。さまざまな薬品類(日本製はもちろん、ドイツ製その他も)が屋台に並べられ、ものが何か分からずに売っているので値段は交渉次第、香油、香水の原油なども見つけると買っておいたそうです。

春が終わりコールドクリームの季節が過ぎると、次は香水を作って売ることにしました。ちょうどその頃八路軍が三中井百貨店を開放し、希望者に抽選で貸与するという布令が出たところで、運よく抽選に当たった父は陳列ケースに香水を並べて売ることにしました。

香油、香水の原油などは手持ちがあり、香水の空瓶は20~70円で、フランス製が手に入ったそうです。常連はダンサーや医師などで、保香剤の効果があったのか人気があり、並べるとすぐに売れてしまったそうです。

◆三中井百貨店(左)

日米でガチンコの野球対決

日米で野球対決をしたエピソードもあるそうですね。

山本 はい。21年の春を迎える頃には、日本人の蓄えはとうに底をつき、売り食いする以外にもさまざまな身過ぎ世過ぎが行われていて、新京ではプロ野球まがいのものまで出現し、入場料を取って見せていたとのことです。

しばらくすると米軍が新京の飛行場にやって来たのですが、公園で野球をやっているのを見た駐留軍は、さっそく試合を申し込んできました。

日本側は新京プロ軍の混成で、甲子園や六大学で活躍した選手を揃えており、見るからに洗練されたチーム、片や米軍はいわば馬力のチームです。父はたまたま通りかかってその試合を見ることができたのですが、タイプの違う両チームが最後まで競り合い、観衆を沸かせる面白い試合だったそうです。

接戦の末逆転勝利した米軍チームは、大喜びで日本選手の手を握り肩を抱き、ビールを配って乾杯し、缶詰や菓子をたくさん置いていったそうです。

彼らは試合を申し込んだ後、何度か偵察に来て、これは相当なものだというので、南方からわざわざ目ぼしい選手を招集したということでした。

終りに・・・

山本 父の「悠々蒼天」を改めて読み返し、戦争は絶対にイヤだ、繰り返してはならないと強く感じると共に、どんな時でも人間は逞しく生きていくんだなぁと、その生命力に感動を覚えました。

父はもともと正義感が強くかつ豪放磊落な人でしたが、非常時での父のこうした知恵と逞しい行動力、そして母の明るさがあって、私たちの今があることに深く感謝しています。

 

村井典男 「悠々蒼天」

 

 

 

 

「悠々蒼天」は、山本智子さんのお父上・村井典男氏が西日本新聞や同窓会会報誌などに寄稿されたものをまとめた書籍です。

 

 

 

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