聞き書き[満州国]の思い出
2019/07/22
はじめに・・・
寿禄会の皆さんとメールのやり取りをする中で、私たちが生まれた昭和20年(21年)当時、ご両親が満州にいた帰国子女が多いことが分かり、勝手ながら見切り発車で(笑)「満州帰国子女の会」を発足しました。
ここに集めた「聞き書き」は、会員の皆さんがご両親やご兄姉、親戚から伝え聞いていることをお話しいただいたものです。なお「僕も(私も)同じ満州からの帰国子女だよ」とか、「アイツも確か帰国子女だと言ってたよ」という情報をお持ちの方は申し出て、ぜひお話を聞かせて下さいね。(編集部)
※掲載の写真はネットで拝借したもので、本文とは直接関係ありません。また「編集部注」とある文も、必ずしもご投稿いただいた方の歴史認識ではない場合がありますので、ご了承ください。
「満鉄」職員録に父の名を発見!
ご両親はどんな経緯で満州へ? お父様は満州でどんな仕事をされていたのですか?
馬渡 父は1935年(昭和10年)、九州帝国大学を卒業後直ぐに満鉄に入社、大連本社に勤務しました。事務系社員で、ネットで調べた昭和15年7月1日現在の職員録によれば、用度部購買課調査係 職員 馬渡岩夫と父の名前が偶然見つかりました。用度部とは現在の資材部のようなものだと思います。
母は両親がすでに大連におり、出生時に祖母の実家(熊本県玉名市)で誕生後すぐに渡満し、幼少時代から満州で育ったそうです。
ご両親は大連で結婚されていますが、お二人は大連で出会われたのですか?
馬渡 そのへんは全く聞いていませんが、母の父は満鉄病院の事務長をしており、父と同じ満鉄グループであることから、どなたかが仲人をされて結婚になったのだと思います。
大連での暮らしや、当時の日本人と中国人の関係、中国の人々の暮らしはどうでしたか?
馬渡 母の話では、子供の頃、日本名で星が浦という海水浴場で唇が紫色になるまで泳いだそうです。またアカシアの花が綺麗だったとよく話していました。
中国人でも裕福な家族の子女は、母と同じように日本の高等女学校に通っていたそうです。更に、我々が福高に通っていた頃の英語の先生・葛巻行徳先生は、母の女学校の恩師でもありました。父は余暇にテニスをしており、ミスしたボールは中国人に拾わせていたそうです。
セピア色の写真で見た追憶のホテル
大連への出張で宿泊したホテルが、偶然ご両親が結婚式をあげられたホテルだったそうですね。
馬渡 そうです。回顧録にも書きましたが、2002年、王子木材工業本店「営業企画部」在籍中、新たな木材加工基地候補選定のため大連に出張したのですが、その時の宿泊先が大連賓館(旧大和ホテル)で、偶然にも両親が結婚式を挙げたホテルだとわかり驚きました。
なぜ同じホテルだとわかったのですか?
馬渡 子供の頃から両親の結婚式の写真を見て、大和ホテルで結婚式を挙げたことは聞いていました。当時としては大変豪華な式場だなと思った記憶があります。因みに結婚式は1938年(昭和13年)6月13日に届出と戸籍簿にあります。
ホテル大広間中央のマントルピースに見覚えがありました。また、結婚式の写真で見た中2階の落下防止のフェンスの模様が記憶と同じだったので確信しました。
大連賓館・総経理から頂いたプレゼント
ホテルから何か特別のプレゼントがあったそうですね。
馬渡 はい。大連賓館が昔両親が挙式したホテルであること、写真で見た内装やインテリアが当時のまま変わらず残っていて覚えていたこと、その両親が90歳を超えて元気であることなどをホテルの総経理に話したところ、とても感激したようで、翌朝ホテルを立つときに、丁寧に包装された大連賓館のレプリカとお礼のメッセージを頂きました。
お母さまの実家があった場所も訪ねられたとか・・・
馬渡 これも回顧録に書いていますが、翌日は日曜日で休日だったため、一人タクシーに乗って母親の実家があった日本の地名で桜花台を訪ねました。
桜花台はその名の通り、少し高台にありました。両親は中国との国交回復後、現地を訪れていました。桜花台では携帯で日本の母親と電話しながら実家を探しましたが、残念ながら広すぎて見つけることができませんでした。
病院の坂を上ったら住宅街があり、日本式の家屋一軒毎に中国人3家族ぐらいが同居していました。各戸に表札がありましたが、名前は剥がされていました。道端では屋外でマージャンに興じる人達もいました。
1945年8月にソ連が満州に侵攻し、満州にいた日本人男子は戦闘に駆り出されるなど、日本人家族の帰国は簡単にいかず、かなり悲惨な目に遭った方々もいたと聞いています。そのとき馬渡家に危険なことはありませんでしたか?
馬渡 終戦前に父は転勤で大連から奉天(遼寧市)に転勤していました。その時は用度課長になっていたそうです。戦局が厳しくなって、ロシアが参戦してくることを予知してか、奉天の満鉄社員の妻子は朝鮮に疎開しており、お腹に私を宿した母と兄2人も疎開しました。
ソ連侵攻時も、奉天の中心部はあまり危険はなかったようです。その前にソ連の下士官が来て、日本人の秩序、安寧は守ると宣言したそうです。しかし、市街地から離れた地区はわかりません。
その頃、流通していたお金はソ連の軍票で、父は満鉄の用度課の仕事を生かして、日本人から着物を買い中国人に売って軍票を集めていたそうです。
馬渡さんはどこで生まれたのですか?
馬渡 終戦、ロシアの進駐があり父は大変だったらしいのですが、ある程度落ち着いた頃に母と兄たちは奉天に戻り、私は昭和20年9月26日、満州国遼寧市平和区紅梅町の病院で生まれました。母のお産後、大連から奉天に叔母が手伝いに来てくれていたのですが、その後大連に帰れなくなり、私たち家族と一緒に引き揚げてきたそうです。
リュックにおしめ(私の)を詰め込んで
引き揚げの時期はいつですか?
馬渡 1946年秋頃です。大連の母の実家の家族は、昭和20年に引き揚げてきましたが、父の仕事を中国人に引き継ぐため「留用」となり、私たち家族の引き揚げは少し遅れたようです。
引き揚げは無事に行われたのですか? そのとき私有財産などはどうなりましたか?
馬渡 引き揚げは遼寧省西部・遼東湾にある葫蘆(ころ)島まで貨物列車の無蓋車で移動し、葫蘆島から船で佐世保港に引き揚げてきました。佐世保に着いたらコレラが流行っていて、暫く留め置かれたそうです。
日本へ持ち帰れるものは、背負うリックサックと手荷物だけという決まりで、貴金属を衣類の中に縫い込んだり、着物、洋服、身の回りの物を持ち帰りました。母に言わせると、お前を背中に背負い、お前のおしめが多くて、ほとんど荷物を持ち出せなかったと言っていました。
◎インタビューには、今でも健在の叔母(母の妹・91歳)の話や、昔母から聞いた事などを思い出して回答しました。父から戦時中の話などは、残念ながら余り聞いた記憶がありません。(寿禄会/満州帰国子女の会 馬渡和夫)