聞き書き[満州国]の思い出

      2019/07/22

◆追憶のイメージ/コーリャン畑

 

はじめに・・・

寿禄会の皆さんとメールのやり取りをする中で、私たちが生まれた昭和20年(21年)当時、ご両親が満州にいた帰国子女が多いことが分かり、勝手ながら見切り発車で(笑)「満州帰国子女の会」を発足しました。

ここに集めた「聞き書き」は、会員の皆さんがご両親やご兄姉、親戚から伝え聞いていることをお話しいただいたものです。なお「僕も(私も)同じ満州からの帰国子女だよ」とか、「アイツも確か帰国子女だと言ってたよ」という情報をお持ちの方は申し出て、ぜひお話を聞かせて下さいね。(編集部)

※掲載の写真はネットで拝借したもので、本文とは直接関係ありません。

 

歴史の闇に葬られた「通化事件」

お父様は旧満州の通化で起きた「通化事件」で九死に一生の経験をされたとか・・・
そもそも「通化事件」とはどんな事件だったのですか?

市丸 「通化事件」とは1946年2月3日、中国共産党軍(八路軍)と国民党軍が激闘の末、旧満州国の通化省通化市をほぼ支配下においていた八路軍から、通化奪還を狙って国民党軍が蜂起した事件です。

国民党軍の誘いに、日本の敗戦に納得がいかない関東軍一個師団と一部の日本人が呼応し、八路軍司令部を襲撃したものの失敗。そんなことはつゆ知らず、ただ日本への帰還を待ちわびていた罪もない多数の在留邦人が巻き込まれ命を落としました。

※編集部注 通化事件(つうかじけん):1946年2月3日、中国共産党軍(八路軍)に占領されていたかつての満州国通化省通化市で、国民党軍と気脈を通じた旧関東軍が蜂起した事件。その鎮圧後に、八路軍および朝鮮人民義勇軍により苛烈な取り調べが行われ、邦人約3000人が連行虐殺されたが、その多くが無実の罪を着せられた一般人だった。

◆通化事件を追跡調査した書籍

当時の通化の状況はどうだったのですか?

市丸 日本の敗戦後、満州各地では関東軍(日本軍)が支配していた地域をめぐって国民党軍と共産党軍(八路軍)が激しい争奪戦をくり返し、昭和21年には八路軍が交通の要所通化をほぼ支配下におさめていました。

そうした中、国民党軍残党が関東軍・第百二十五師団の参謀長であった藤田大佐一派と手を組み、八路軍に不満を持つ日本人を誘い込んで、通化奪還を図ったわけです。

一方、ソ連参戦後に関東軍が司令部を通化に移転したこともあり、通化には満州各地から避難してきた日本人約3万人が集まっていました。その中の一家族が両親と私(幸子)です。

藤田大佐とはどういう人物だったのですか?

市丸 1945年8月16日、通化にいた関東軍は、本国からの命令に従い武装解除を進めました。ところが、第百二十五師団の参謀長であった藤田大佐が命令に背いて行方をくらまし、元軍人や仲間を集めて国民党軍に加担し、八路軍を襲撃した通化事件の首謀者の一人です。

藤田大佐という人物については、終戦と同時に八路軍、朝鮮人民義勇軍、中国人暴徒などに襲撃され、略奪、暴行、虐殺、強姦などを受け通化に避難してきた日本人の窮状を救うため決起した英雄という見方と、多数の無辜の邦人を悲惨な運命に引き込んだ張本人という見方があります。そもそも「通化事件」そのものが、歴史教科書で教わることもなかったため、そんな悲惨な事件があったことを知る人もほとんどなく、その真相は未だ明らかになっていません。

事件はどのように起こったのですか?

市丸 2月3日午前4時、決起隊が変電所を襲撃、電気を3回点滅させ攻撃の合図を送り、そのあと全市を停電させました。攻撃の目標は、八路軍司令部や満州国宮内庁の要人が収容されている公安局、監獄などです。

反乱に加わったのは第百二十五師団、市内に潜んでいた元日本兵や血気にはやる若い日本人のほか、脅かされたり騙されたりして参加した一般人たちもいました。しかし銃などはほとんどなく、武器は日本刀やオノ、棍棒など。一時は、専員行署(元省公署)、公安局(警察署)など要衝を占領しましたが、しょせん多勢に無勢、午後には形勢が逆転し八路軍の重火器を擁しての攻撃にまたたく間に制圧されてしまいました。

八路軍に連行された父

制圧後、反乱に加担した日本人や一般の日本人はどうなったのですか?

市丸 反乱が制圧された午後8時になると、父をはじめ16歳以上の日本人男子は事件への関与を問わず全員が拘束され連行されました。その数3000人余、八路軍は連行する際、日本人一人一人の首を針金でつなぎ合わせて連行したそうです。寝間着姿の者、素足に下駄履の者や病人まで、零下20度の中数珠繋ぎで行進させられました。

このとき連行された父は死を覚悟し、母は生後7か月の私を両腕に高く抱きかかえ、顔を父の方に向かせて連れられて行く父に見せたそうです。

取り調べはどのように行われたのですか?

3000人以上に上る拘束者は小銃で殴りつけられながら収容所に集められましたが、その状況は悲惨を極めるものでした。父たちは通運会社の社宅8畳の部屋に120人が収容され、食事も与えられず5日間立ったままで押し込められました。そのうち飢えと恐怖と寒さで精神に異常をきたして叫びだす人が出ると、そのたびに窓から朝鮮人兵士たちが無差別に銃撃し窓際の人たちが殺害されたそうです。死体は立ったままで放置され、やがて倒れると床はみるみる赤い血でいっぱいになったそうです。

尋問は一人ずつ別室に引き据えられ、板の間に正座させられて、事件に加担しただろうと聞かれる。加担していないと答えると、木刀で容赦なく打ちすえられました。

通化事件の制圧とその後の犯人捜しに当たったのは八路軍と朝鮮人民義勇軍ですが、父によると特に朝鮮人部隊の残虐非道ぶりは酷く、別の場所では拘束から5日後に部屋から引き出されたあと、朝鮮人兵士たちに棍棒で無差別に撲殺された人も沢山いたそうです。

目撃したこの世の地獄

反乱軍の処刑はどのように行われたのですか?

市丸 反乱を起こした兵士たちや、それに加担した者は凍結した渾江の上に引き出されて処刑されました。川岸に一人ずつ並べられた日本人が次々と銃殺され、服をはぎとられた後、死体は川に落とされるのです。凍った川の上には、そんな死体がごろごろ転がっていました。銃殺は二日間続き、凍った死体は数日後に荷馬車に積まれて、運び去られていったそうです。

反乱鎮圧後の通化市中も、酷い状態だったようです。朝鮮人部隊は日本人の家を家宅捜索しては略奪を繰り返し、女性たちを強姦しました。蜂起した負傷者を事件後に手当てしたというだけで銃殺された女性や子供もいたそうです。

父は運よく2月9日に釈放されましたが、連行中に逃げようとして射殺された人、長い行軍で体力が尽きて倒れ射殺された人、収容所で殺された人、凍死した人、反乱鎮圧後に虐殺された女性や子供たちなど、反乱軍の処刑者を含め、何の罪もない一般の日本人家族2000人以上が虐殺され通化事件は終わりました。

通化事件について、ご両親はどのように話しておられましたか?

市丸 帰国後長い間、商店街の会合や友人たちが集まると、両親はくり返し通化事件の話をしていました。日本ではただ「八路軍と朝鮮人民義勇軍による日本人への大量虐殺事件」と報じられましたが、現地で事件を体験した一般の日本人たちは「全く勝算のない無謀な反乱を起こした軍人たちのせいで、一般人が多数犠牲になった、恨めしい」と話していたそうですから、やはりそれが真相なのでしょう。

父はただ生きて帰ることだけを念じ、「逃げようとしない、騒がない、逆らわない」ように身を処し、お陰で今の命があると話していました。
八路軍については軍としての統制がとれ、反乱軍と一般の日本人を分け、一般人については逃げようとしない限りあまり酷いことはされなかった、一方朝鮮兵は日本人への憎悪と報復の念に燃え、鬼畜のようだったと話していました。

ここに書いた話は、父母の話をもとに大人になって調べたものも含まれていますが、事件のことを知れば知るほど、両親が生きているうちにもっとキチンと話を聞いておけばよかったと、返す返すも残念です。

野生児のように過ごした子供時代

通化事件の真実を初めて知りました、大変な経験をされたんですね。ところで、ご両親はどんな経緯で満州へ渡られたのですか?

市丸 父は大正7年生まれ、6男1女の末っ子で、貧しい農家の出です。当時の農家は長男が先祖の田畑をすべて相続し、その他の男子は放り出されたらしく、「満州にでも行くしかない」という状況だったらしいです。

母は大正9年生まれで、こちらも2男4女の末っ子。父と同じ村落の出身で、生家は父の家よりもさらに貧しいという状況でした。

渡満の時期についてはあまり話を聞いたことがなく、今となっては当時を知る人もすべて故人になっていて確かめることもできません。

ご一家は1953年まで抑留されていたとのことですが、どういう事情があったのですか?

市丸 抑留と言ってもシベリアに連行された方々などと違い、父の仕事が電気技師だったので、技術のある日本人をすぐには日本に帰したくなかったということらしいです。

ただ子供だった私は気づきませんでしたが、いつ日本へ帰れるかも知れない絶望感で、母は毎日泣き暮らしていたそうです。

市丸さんは8歳まで中国で育ったわけですね。

市丸 はい、物心ついた時には錦州(遼寧省錦州)という町で暮らしていました。小さな一軒家を貸与され、横に畑があって母がトマトやナスを育てていたようです。すぐ近くに「放送局」があり、父はそこに勤めていました。

◆錦州市街

錦州での暮らしはどうでしたか?中国人から迫害されるようなことは、ありませんでしたか?

市丸 父が技術者ということで当局からは比較的大切にされていましたので、差別されたり苛められたりという記憶はありません。ただある時大人たちが私を指さして「小鬼」とヒソヒソ囁いているのを聞いたことがあります。「鬼」の子供だから「小鬼」という意味です。

子供時代のことでは、どんな記憶が残っていますか?

市丸 まるで古い映画のようにすべてが断片的な映像なのですが、はるか彼方に連なる峻烈な山々、人が住む町以外は果てしなく続く荒涼とした大地、広大なコーリャン畑…。

冬は父手作りのソリで雪の中をはしゃぎ回り、夏は畑の中を走り回って虫取りをしたり…女の子とは思えない野生児のように育ちました。

食べ物が美味しかったそうですね。

市丸 畑で穫れる野菜はみな、洗ってそのまま丸かじりできる美味しさでした。

中でも好物はピーナッツ(日本のものとは味が全く別物です)で、母が市場から買ってくるピーナッツを夢中で食べていました。ピーナッツで作ったお菓子「花生酥」も大好きでしたが、後年日本の中華街で買った「花生酥」にはそれほどの感激はありませんでした。初恋の人との再会のように、幼い日の体験は美化されるのかも知れません。

赤いネッカチーフに憧れて

小学一年生までは中国の小学校に通っておられたそうですね。

市丸 先生や生徒たちからも差別されることなく、中国人の子供たちに交じって通学しました。そのため中国語はペラペラで、中国人と両親の通訳をしていました。しかし中国語は帰国後すぐに忘れてしまい、残念でなりません。

その頃はすでに、中華人民共和国建国の後ですね。

市丸 はい、小学1年生の教科書の巻頭には、毛沢東が子供たちに囲まれた笑顔の肖像画が載っていて、1953年にスターリンが死去した時には、鳴り響くサイレンを合図に全国民が黙祷をしました。

社会主義一色ですね。

市丸 そうです、子供向けの漫画といえば、豪農に搾取されてきた農奴たちを八路軍が解放する話とか、日本軍の圧政と闘って勝利する勇敢な青年兵士の話などが劇画調で描かれたものばかりで…。子供心にも、おどろおどろしく殺伐としてるなという感想を持ちました。

その頃親戚が日本の雑誌「小学一年生」を送ってくれていたのですが、日本って何ときらびやかな国だろうと憧れて、ボロボロになるまで読みふけっていました。

中国の小学校で優秀な生徒に与えらる、赤いネッカチーフの思い出があるそうですね。

市丸 中国の小学校では2年生になると、成績優秀で生活態度も良いと認められた児童に赤いネッカチーフが与えられます。このネッカチーフはエリートコースへの第一歩で、赤いネッカチーフを貰った子供たちは次は重点中学、重点高校、さらには一流大学への入学というように選抜競争を闘っていくのです。
※「重点」というのは、優秀な学生が集まる学校の意味です。

私はこのネッカチーフが欲しくてたまらず、両親が待ちわびた日本への引き揚げが決まったときも、私だけ中国に残ると駄々をこねたそうです。もしあの時中国に残っていたら、今頃は共産党の高級官僚か、もしくは大富豪になっていたかもしれません。(笑)

終りに・・・

市丸 日本への引き揚げ船が着いた京都府舞鶴には、母の姉が迎えに来ていました。福岡に帰る列車の中で、祖母(母の母)の死や、母の弟が鹿児島の知覧から特攻隊で飛び立って、わずか20歳で戦死したことなどを聞かされ、母は「親不孝な娘だった、何もしてやれない姉だった」とずっと泣いていました。私が母の涙を見たのはその時が初めてです。

他の「満州帰国子女の会」の皆さんと違い、うちの両親は学もなく恥ずかしい気もします。かといって、それを卑下している訳ではありません。無一文の帰国から頑張って家電店を開店し、大学まで出してもらったこと、過酷な運命に翻弄されたにもかかわらず、苦労のあとを子供たちに見せずのびのびと育ててくれたお陰で、人の善意を信じ、何ごともポジティブに考える楽天的な性格になったのではないかと感謝しています。

 

 

 

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