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町家からの眺め Vol.7 博多町割

      2018/09/21

◆博多古図

 

町割って何?

 町割は、まちわりと読むのだけれど、ま、都市建設といいかえればわかるだろう。都市計画図に従って、杭を打ち、縄張りをしていく。縄張りかい、そんなんで都市なんていうのかよと思うかもしれないが、中世都市・近世都市ということばが学術用語としてもちゃんと存在する。ネットに『近世都市博多の成立』という講演資料が公開されている。中世から近世への変わり目に城下町ができる。というか、福高で織豊時代と習った時代を、中世と近世のどちらにしようかと歴史家は悩んでいるようなのだ。

 中・近世都市と城下町とはほとんど同義語で、織田信長が4か所つくったのが有名だ。清須・小牧・岐阜と居城を移すたびに城下町らしく整備していって、最後が安土だった。安土はまだ農地とかも混在しているけれど、ほぼ城下町の完成形といわれている。

 

戦となれば寺が砦になる

 町人の町は長方形街区が普通だ。敵の進入路を減らすため、敵に向かって横に長い町割をする。博多の寺が石堂川沿いに集中しているのは、箱崎方向からの敵に対して、寺がすぐに砦となるからだ。お墓は盾になるし、本堂や庫裏は兵の宿舎となる。そして町の形も、川を渡ってくる敵を想定して川沿いに長い長方形の街区割になっている。

◆写真上段左から:東長寺、順心寺、節心院 下段左から円覚寺、幻住庵、妙楽寺、まだまだ沢山・・・

 博多は中・近世都市の中でユニークな存在だ。堺もそうだが、博多には城がない。だから基本的には城下町じゃあない。ま、福岡城の城下町ともいえるのだが、福岡城は博多町割のあとからできている(鉄腕アトムの両親が、息子よりあとに誕生したのに似ている)。しかし、実は、博多のそばに城をつくる予定はあったらしい。つまり、秀吉は唐御陣(からごじん 朝鮮出兵)のために城をつくろうと考え、兵站基地として焼け野が原だった博多を再建したというのだ。ところが博多湾が遠浅で大船が出入りできないとわかった。それで、城は肥前名護屋に建設したのだという。

 

焦土の博多を救った「太閤町割」

 さて、博多町割には秀吉が実際に立ち会っている。だから博多では今でも太閤町割という。なぜ太閤様が立ち会ったのかというと、薩摩が九州制覇を狙ってどんどん北上していたからだ。それで、秀吉は自ら兵を率いて九州御動座した。それで博多町割に立ち会えたのだった。秀吉軍が30万、あるいは35万と言われる大軍で島津征伐にやってくると、島津さんたらすぐに頭を丸めて恭順した。

 博多は戦のたびに焦土になった。それを秀吉が再建してくれたんで、今でも博多山笠の飾りに太閤町割がテーマになる。

◆太閤町割 戦で荒廃した博多を秀吉が復興させるべく七つの「流」に区分けした。

 町割の状況を、秀吉に可愛がられた博多商人神屋宗湛(かみやそうたん)の『宗湛日記』天正15年(1857)の記事をみてみよう。( )内は筆者。


◆神屋宗湛

 

船上で宣教師と対面した秀吉

 秀吉は筥崎宮本殿を本陣にしている。神社の本殿を本陣に使うなど前代未聞のことだが、八幡宮は武神としても信仰されるからそれもアリか。
 太閤町割というけど、宗湛日記でわかるように、町割のとき秀吉はまだ関白だ。それでも、ま、6年後には最終の地位として関白になったので太閤町割と呼び習わされている。唐御陣のときには太閤として博多にもやってきたし。

 博多町割の記録は、秀吉に会いに来た宣教師の記録にも書かれている。宣教師はイエズス会のガスパール・コエリュとルイス・フロイスの二人で、記録はフロイスの『日本史』による。ここでも当然ながら秀吉は関白として登場する。長いので、訳文を意訳する。

 

 ちなみに、この1週間後、秀吉は有名な伴天連追放令を筥崎宮から出したのだった。キリシタンたちは驚愕し、ことに好戦的なコエリュは秀吉と戦うといい、長崎を要塞化している最中に、急死している。

 もう一つ町割の記録がある。貝原益軒の『黒田家譜(くろだかふ)』だ。

 三つの記録を比べると、いろいろ面白い。二人の宣教師は、箱崎に来る直前は、姪浜にいた足利義昭に会いに行ったりしている。信長に追放された15代将軍だが、このときは秀吉に保護されていた。
 フスタ船は、長崎でつくったようだが、映画「ベン・ハー」の戦闘船を考えてもらうといい。主人公ベンハーが奴隷になって船底で櫂を漕いでいたあの船。こちらのはもう少し小型かと思うが。フスタの画像はネットで検索するといくつか出る。

 博多町割に関しての史料は実はもうひとつある。箱崎の地侍が書いた『豊前覚書(ぶぜんおぼえがき)』なのだけれど割愛した。秀吉の町割の半年前、黒田の家臣が箱崎の住民を動員して草を刈り整地して町割をしたという。興味は尽きない。

 無料のフリーペーパー『ぐらんざ』に「はかた宣言」という歴史エッセーを書いている。歴史に興味のある人はこちらも御覧ください。ネットでも検索できる。

 ※編集部注 最新号には、「大蔵経」について書かれていますよ!

 

参考資料
『城下町』松本史朗/吉川弘文館
『神屋宗湛日記』西日本文化協会  
『完訳フロイス日本史4』松田毅一・川崎桃太共訳/中公文庫
『黒田家譜』貝原益軒/歴史図書社
『豊前覚書』城戸清種著/川沿昭二・福岡古文書を読む会校訂

 

 さて、町割りの山笠の走る博多(最近「旧市街」というしゃれた言葉が冠になっているけれど)は、10里四方と言われている。

 

 

 

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