男と女のエピソード 第7話 ~ 第9話

      2019/12/03

 

第7話 グリーンのリボン

「あのときはありがとう、とても嬉しかった。」と彼女は言った。

高校3年の1年間は、あっという間に過ぎる。5月の文化祭、夏の競技大会、そして9月の体育祭、秋風が立つと受験勉強が待っている。

浩二は、心のなかで彼女のことをリボンの君と呼んでいた。教室で彼女のひだり斜め後ろに座っていた浩二は、髪をあげて後ろで結ぶリボン、そして彼女の左の横顔を、いつも大事なもののようにながめていた。言葉をかわす機会は、ほとんどなかった。下校の途中、もの思いにふけって歩く浩二を、彼女は「草野さん、お先に失礼します」とスタスタと追い抜いていった。

秋が深まるとともに、浩二に心境の変化が生まれた。ただ満たされるのではなく、何かを伝えたいと思った。1つ年上の従姉妹にリボンのことを相談し、手に入れた。
手紙を書いた。

「教室のオアシスのあなたにこれをおくります。レパートリーに加えてもらえればとても幸せです。」
浩二の好きなグリーン、その色のリボンとこのメッセージカードを入れた封筒を、彼女の机の中にそっとおいた。本当は、「ぼくのオアシス」と書きたかった。

こんなことをして、魔が差した、と思った。それでもおくったリボンを結んでくれることを薄氷の思いで期待していた。けれど、浩二の願いは叶わなかった。浩二は、深く後悔した。ただ満たされていた静かな時代に戻りたかった。

卒業の日が来た。講堂の式を終えて教室に帰り、級友たちの最後の交流の輪が広がる。浩二の気持ちは、彼女を探していた。今日で見納めになるかもしれない。きっと彼女を不愉快にしたに違いない、あの軽率で卑怯な自分を謝らなくてはと思いつめていた。

背後に気配を感じて振り向いた。びっくりした。彼女だった。
「草野さん、お礼が遅れてごめなさい。あのときはありがとう。とても嬉しかった。おくってくれたのがあなただって、分かっていました。
草野さん、京都ですね。あなたは絶対大丈夫、大学でもがんばってください。」

彼女は、それだけを言うと教室をでていった。その後ろ姿をおう浩二の目に、グリーンのリボンが鮮やかに映った。想いは通じたんだ、浩二は、叫びたくなる気持ちをぐっとこらえた。

 

 

第8話 今日お会いできてよかった…

気の利いた言葉もでてこずに、早瀬は「そう、げんきでね」と応えた。

「ミルクの泡がお好きなんですか?」
早瀬が彼女と初めて口をきいたのは、「ショートカプチーノ、マグカップで」と注文したあとに、間の抜けた質問を受けたからだった。
「うーん、全部好きなんだけれど」とこれもまた間の抜けた答えだった。

早瀬がスタバを愛用するようになったのは、ウイーンの店に入ったのがきっかけである。東京では、入ったことがなかった。早瀬は紅茶党だったこともある。カフェ文化といえば、ヨーロッパ都市の市民文化として発展し、スタバのヨーロッパ進出は無理だとされていた。マリナーズの本拠地シアトルでスタバの第1号店が開店したのは1971年、日本では、1996年、東京銀座の松屋通りの店が最初という。

早瀬がウイーンで飲んだのは、カフェラテだった。いまはもっぱらカプチーノ、イタリアでは子どもの飲み物だそうだから、いつもこれを飲んでいるいい年をした大人に、彼女がつい、ミルクの泡が…などと聞いてみたくなったのだろう。それからは、サービスカウンターに立つと、「いつものでいいですか?」になった。

火曜日と木曜日が彼女の勤務日だと教えてくれた。早瀬が行くのはだいたい夕方だ。早番とか遅番とかがあるのかもしれず、それは知らなかったが、スタバのドアを開けるときに、今日は何曜日だっけ、と思っている自分に気が付いた。

「このあいだ、有楽町マリオンの前でおみかけしました。」「そうなの。声をかけてくれればよかったのに。」「でも、若い女性とお待ち合わせのようでしたよ。」「ああ、娘と映画を見に行ったときだね。」本当のことを言っているのに、言い訳がましくなることがおかしかった。

カウンターをはさんだ一言、二言から、彼女はどうやら就活中のように察した。楽ではないだろうなと思ってみていたが、いつも明るい顔をしていた。がんばれよ、と心のなかで応援した。

いつもの奥の席で本を読んでいた。彼女が真顔で早瀬の席にやってきた。初めてのことだ。どうしたのという顔で彼女をみると、腰を落として見上げる形で言った。「今日、お会いできてよかったです。明日でお店を辞めます。」気の利いた言葉もでてこずに、早瀬は「そう、元気でね」と応えた。彼女が戻っていったあと、残りのカプチーノを飲み干しながら、早瀬は、就活がうまくいったかな、よかったと思った。

 

 

第9話 冬の海を見たい

杏子のからだが次郎に向かって大きく揺れた。

次郎と杏子がそこを訪ねたのは冷え込みが少し厳しくなったどんよりした初冬の1日だった。七里ガ浜を前にした海のみえるこじんまりしたレストランだ。

二人は大学以来のつきあいだ。恋人未満、友人以上とふざけあって、7年になる。7年目の浮気という映画があった。いずれにしてももやもやとした関係になる十分な歳月を二人は過ごしてきた。

杏子が冬の海を見たいと言った。それが今日のきっかけだった。次郎は、普段とちょっと違う杏子を感じていた。それに呼応する自分の気持ちにも気づいていた。

二人は海に向かって並んで座った。いつものように、時がつみ重ねたコンビネーションで機嫌よく会話がはずむ。そのうち、会話が途切れ、二人はただ海を見ていた。

「大学のドイツ語の時間、ブロッホの『希望の原理』を少しだけ読んだこと、覚えている?」
杏子は海を見つめたまま、つぶやくように言った。
「希望とは、未だないという形で、しかし今のこのときに存在するもの、これがブロッホの希望の定義、だから、希望はたんなる夢とは違う。」
次郎は、杏子がなにを言おうとしているのか、じっと待っていた。

「今、ここにいるのは、『あなたと私』、『私たち』ではない。正直に言うわ。少なくとも私は、『私たち』という存在を希望としてもった。でも、希望はいつの間にか過ぎ去り、記憶になった。」
「記憶は、希望が未来を思うのと違って、過去を想うこと。だから、私にとって『私たち』は、未だない存在として過ぎ去り、私の記憶のなかにしかない。」
「私、今、本当に思っているの。この記憶は、もう一度未来の希望に変えることができるかしら。」

次郎は杏子のほうを見ずに、白い波に揺れる海を見ていた。そしてはっきりと自覚していた。これは、杏子が次郎に与えた最後の機会だ。彼女が冬の海に託したのは、7年の記憶を二人の希望に結ぶことだ。

「ブロッホの定義に付け加えるよ」、次郎は杏子に向かって言った。「君の記憶につながれた希望は、今、君とぼくのものだ。そして、未だない存在を現実の存在に変えるのは、人間の、そう、ぼくたちの行為だ。」

杏子のからだが次郎に向かって大きく揺れた。次郎は、杏子の肩をしっかりと抱いた。頬が赤くなるのを感じながら、次郎は冬の海に心から感謝した。

 

 

 

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