「その時、君は?」【004】1964-1967 楽しかった大学時代〔後編〕北海道演習林研修旅行

      2019/12/03

 

1964―1967

 

その時、君は? 【004】  馬渡 和夫

 

1966 Jul. 教官2名、学生10名が名古屋駅に集結。

 1966年(昭和41年)7月上旬、名古屋駅に集結した教官2名、学生10名は市内の合板工場を見学した後、鈍行列車に乗って浜松へ。迎えに来ていたマイクロバスで、静岡県林業試験場に向かい、林学科OBの先輩から場内の説明、現地見学をして、再びバスに乗り、佐久間ダムを見て、有名林業地である天竜に向かう。スギ美林の現場で森林組合の担当者から説明を受け、その日は近くの営林署の保養所に泊まる。

◆日本三大人工美林の一つ・静岡県天竜のスギ美林

見学、宴会、見学、宴会に興奮怒涛の10日間

 ここから北海道の足寄演習林まで、鈍行列車とマイクロバスで北上し、宿泊は各地の営林署の保養所、民間会社の宿泊所で、1泊2食驚くほど安く利用させて頂いた。全行程10泊ぐらいしたが、50年以上昔の事で記憶がない場所もあるので、行程のみを記載して、特に印象に残った所について記述する。

【北海道演習林研修旅行の旅程】

名古屋→静岡県林業試験場→佐久間ダム→長野県伊那市→群馬県沼田林業機械化センター→栃木県林業試験場→日光東照宮→山形県蔵王(治山)→秋田県(秋田美林)→能代(海岸防潮林)青森十和田湖→奥入瀬→浅虫温泉→青森→青函連絡船→函館→長万部→札幌(北大植物園)山部(東大演習林)→釧路→標茶(パイロットフォレスト)→弟子屈→足寄

 本州最後の宿泊地は青森県の浅虫温泉(ここも営林署の保養所)。十和田湖から奥入瀬の渓流を眺めながら浅虫に到着し、その夜は青森営林局管内のOBの方々との盛大な宴会となった。

◆十和田湖

◆奥入瀬渓流

◆浅虫温泉

 翌朝青森駅から青函連絡船に乗り、函館に到着、室蘭本線で長万部へ行き、カニめしなど食べて、函館本線の鈍行列車に乗り換えて、札幌に向かった。

◆青函連絡船・函館港(1960年代)

◆函館本線(同)

 札幌も夜の会食は、この旅行で一番大勢のOBの皆様と大学の現状やら北海道の話に花が咲いた。この札幌での会食には、私が北海道に勤務していた時にも何回か出席した。

 翌日、北大の構内のポプラ並木、クラーク博士の銅像など見て、植物園に向かった。

◆北海道大学・クラーク博士像の前で

◆北海道大学植物園

 植物園を見学していたら、大きな犬小屋があり、そこに、あの南極昭和基地に取り残されたカラフト犬、タローが静かに余生を送っていた。ちなみにジローは日本に戻ることなく南極で死亡したそうである。

◆カラフト犬・タローと

「パイロットフォレスト」に見た林業の未来

 札幌から根室本線で富良野から少し下った所に山部(やまべ)と言う駅があり、そこで下車して東大演習林を見学した。

◆東京大学・北海道演習林

 翌日は帯広、釧路と乗り継ぎ、釧路から釧網本線で標茶駅に降りた。標茶営林署のカラマツのパイロットフォレストを見るためである。パイロットフォレストとは、およそ1万haの無立木地を昭和31年から10年間でカラマツ主体に植林する計画で、我々が見学した時はあと1年で植林が完了すると言う時だった。展望台からみてその雄大な眺めに感心した。

◆標茶 植林が進む1966年当時のパイロットフォレスト

◆現在のパイロットフォレスト

 鈍行列車の旅はここまでで、出雲市駅から釧路駅までの途中下車のスタンプが乗車券の全面に余すところなく押されていた。ちなみに博多駅から標茶駅までの料金は学割で5,730円であった。標茶からは演習林のバスで弟子屈、阿寒経由で最終目的地である足寄演習林に着いた。

◆阿寒湖を望む高台で

 

1967 7月中旬―8月中旬 北海道営林局でアルバイトを体験 

 足寄演習林で2日間くらいの授業と演習林見学を終了した夜の会食は、毎年恒例のカレーライスが待っていた。翌朝、10名が集められて、2名ずつ7月中旬から1か月間の北海道営林局でのアルバイトが言い渡され、バイト先は函館局、相棒はH君に決まった。

 二人で函館営林局に出向いて、アルバイト先と仕事の内容を確認した。仕事先は内浦湾沿いの、八雲、森営林署、日本海側の厚沢部、北桧山営林署で山の飯場に泊まって、ブナの伐採現場から集材機で集められた玉切り材が中間土場に搬入されるまでの工程を終日調査する事だった。
 この調査は、当時はやりの伐採・搬出作業を如何に効率よくやるかのデータとなった。

懐も温かく初めての東京へ

 8月中旬仕事を終えて、函館局に戻り、アルバイト料金を頂いて、H君とも別れ、大きなリュックは宅送して身軽になり、初めての東京見物に出発した。

 東京行はアルバイト料金をもらったため、特急を使って乗車した。東京では兄貴の友達のMさんに銀座を案内して頂いた。特に印象に残っている場所は、その年(1966年4月)オープンしたばかりの銀座ソニービルである。最先端の技術情報の発信基地としての機能を持っており見るもの、聞くもの興味が尽きなかった。一泊し、東京を楽しんで、福岡に帰った。

◆1966年4月竣工当時の銀座ソニービル 

◆ソニービルにて 

 

1967 Jun. 思い出深い就職試験と卒論 

 4年生になると、就職と卒論を決めなければならない。まずは、春に第1次国家公務員上級試験を受験し、合格通知を頂いた。2次試験と面接に備えていたら、6月に王子製紙から、求人案内が来た。そこで北海道旅行の前に山陰方面を旅行した仲良し3人組の一人のK君に聞くと、俺は長男で大分に帰るので、大分県庁を受験すると言った。Y君は大学に残って博士課程に進みたいとの事で、我々3人が大体成績の上位を占めていた事から、それなら私が受験する事を決めて、就職担当の教授にその旨お願いした。

 王子製紙から受験案内が来て、東京本社で試験を受けて、夕方旅館で待機していたら、明日の面接に来るように連絡があり、社長以下の面接を受けて帰福すると、正式に採用通知がきた。その後夏に第2次国家公務員試験を受けたが、残念ながら不合格の通知が来た。

 卒論は、当時問題となっていたのが、国全体が高度成長期にあり、木材需要が飛躍的に拡大、山村から多くの人々が都市へと仕事を求めて流出し、山に木を植え、手入れを行う人が不足していた。この問題を解決するため、1964年(昭和39年)長崎県に対馬林業公社が発足した。人が集まらず困っている土地所有者に代わって公社が造林、育林の仕事を費用も負担して実行、伐採時期になったら、収穫収入を土地所有者60%、公社40%の分収契約を結ぶシステムである。全国で未だ4~5件しか公社が出来ていなかったので、教授名で各県に林業公社を作る意図があるか、その場合の問題点等をアンケート調査し、私も広島県に行って現地調査を行った。その結果今後、日本全国の造林事業拡大にはこの方法がベストである。と言う卒論を書いた。

 その後全国に林業公社が発足した。しかし、50年後となった現在は、立派になった森林はあるが、木材価格が低迷し、伐採しても当時期待した収入は望めず、放置されている森林が多い。30年~50年先を予測することが如何に難しいか考えさせられる。

 

1968 Mar.博多発特急列車に乗って… 

 1968年3月末、博多発の特急列車に乗って東京に向かった。王子製紙の入社式に出席するためである。

 

 

 

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