沖縄と私の思い(3)
2021/04/25
[ 結婚から沖縄部隊勤務まで ]
防大研究科1年の秋に結婚した私達は横須賀で1年半過ごし、御殿場の連隊勤務3年と所沢の防衛医大勤務3年余の後、昭和54年8月に希望していた沖縄勤務となり、妻・長男・次男と4人で那覇に向かいました。それ迄にも、防衛医大1期生・2期生の沖縄研修のほか私用でも何度も沖縄に行き、復帰後の変わり行く様を見ていました。
[記憶に残る米海兵隊のロビンソン少将]
昭和51年8月、義父が第1混成団長を辞める離任式に家族として列席しました。式後のレセプション会場で第3海兵師団長のロビンソン少将にご挨拶しました。温かさが滲み出るお人柄が強く心に染みました。少将と義父は互いを尊敬していました。黒人初の将官である少将は、その後NATO軍司令部に栄転されましたが、その際、写真週刊誌「FOCUS」に少将と義父の二人が並ぶ写真が掲載されたので、提供された少将のお心を察しました。
[ 防衛医大学生の沖縄研修 ]
訓練課程の課目として、1期生が4年生の昭和52年春に「沖縄研修」を実施しました。1期生担任の私が計画・調整・実施を担当し、経理課事務官の人を伴い準備に行きました。米軍見学の調整は、在沖3自衛隊を代表する南西航空混成団(空自)にお願いしましたが、戦跡の現地調査やホテル・バスの借り上げなどで方々を回った事が楽しく思い出されます。
2度目の準備では、ジョン・カビラ兄弟の祖父の川平朝申先生を首里に訪ね、学生への講話をお願いしました。研修時は学校長の松林久吉先生も同行されるので、学校長車をC-1輸送機で運ぼうと考えたのですが、南西航空混成団の幕僚に「こちらで用意します」と言って笑われました。
学生を引率して沖縄へ向かう時、現地の天候が悪いので新田原基地(宮崎県)で待機しました。何度も様子を聞く私に先任の機長が「じゃあ、(飛んで)行ってみますか」と言ってくれました。多くの方々への感謝の気持ちで一杯になります。
[730(ナナサンマル):車の対面交通が左側通行に変更]
右側通行を左側通行へ変えるのは正に大事業でした。沖縄海洋博開催等の諸事情もあり、復帰6年後の昭和53年7月30日に行われました。29日22時で緊急車以外の通行を禁止し、信号等の諸準備を完了して、30日6時から左側の通行を始めました。それ迄に数え切れない問題に手が打たれました。例えば、バスは乗降口が逆になるという大きな問題があり、一部の改修使用車以外は新車になりました。
私は直後の8月半ばに沖縄に行って目にしました。全国の警察から応援に集まった多数のパトカーと白バイが交通の中に入り、一緒に走って指導していました。
陸上自衛隊の第1混成群は、年に4回ほど九州の演習場での訓練のため移動しましたが、この「730」までは、前照灯の処置などに加えて、移動する前・後に慣熟訓練をして対応しました。
[ 復帰・移駐から7年後の沖縄部隊に勤務 ]
昭和54年8月の定期異動で沖縄勤務となり、翌春卒業の1期生の事が気になりながら赴任しました。復帰・移駐から7年、沖縄部隊は落ち着いて任務に励んでいました。九州出身隊員に代わって沖縄出身隊員が増え、郷土部隊に育ちつつありました。飛行隊は日常的に急患空輸を行い、不発弾処理隊も本土とは桁違いの量の処理作業に従事していました。
私は第1混成群本部で1年の幕僚勤務後、第302普通科(歩兵)中隊長を命ぜられました。
約170名の隊員と共に第一線中隊の任務を遂行した苦楽と喜び及び妻の両親や親族の方々との嬉しい思い出は、生涯忘れることが出来ません。
◆左:慶良間列島の渡嘉敷島に海遊びに行く筆者家族 那覇泊港から定期船に乗り込む。 右:福岡から沖縄を訪ねた筆者の母と首里見物をする。(玉陵にて)
[在沖米海兵隊での研修]
中隊長に就く直前の昭和55年6月に、陸上幕僚監部計画の「日米共同訓練前段階の在沖米海兵隊研修」に現地部隊から加わり、キャンプ・ハンセンと北部演習場で約1週間、海兵歩兵中隊と行動を共にしました。
直接お世話になった中隊長のキース大尉(エクアドルから移民の子)や仲良しのピゾ大尉(イタリアから移民の子)はほぼ同年代でしたが、2歳年長のキース大尉は陸軍兵としてベトナムで戦闘していました。二人が口にした「我々は合衆国があるから生きて行ける。だから合衆国に忠誠を尽くす」という言葉に、日本とは違う強さを学びました。
また、若い小隊長や下士官・兵とその行動を見ていて、軍隊としての強さを理解しました。研修中にイランの人質奪回作戦失敗の報が入りました。大隊長のバウアー中佐は「(作戦中止を命じた)カーター大統領はどうしたのだ、自分に命ずれば、今すぐここから(イランへ)行く」と言いました。米海兵隊の士気と世界的意識が感じ取れました。
◆左:米海兵隊研修での機関銃射撃、照門(銃身手前の照準孔)を使っていない。米軍は弾着を誘導する撃ちまくり制圧、弾薬を節約する我らは狙っての短連射で命中させます。(苦笑) 右上:嘉手納基地内マラソン大会に出場の筆者(ゼッケン番号244)、多くの隊員と参加したが、第1混成団長の名代で表彰式に参列のため、ハーフで止めて式場に移動した。(筆者の後の方に家族の姿が見えます。) 右下:米海兵隊研修での中・小隊長との交歓
[ 本土演習場での転地訓練 ]
沖縄には米軍の演習場以外には自衛隊が使用する大きな演習場がないので、普通科(歩兵)中隊などで編成される第1混成群は、九州各地の演習場に入り、その度約1ケ月間訓練しました。移動は民船が主体で、航空自衛隊の輸送機と海上自衛隊の輸送艦も併用しました。民船での移動は船内で1夜2日を過ごし、奄美大島などを眺めながらの楽しいものでした。民船組で洋酒を下げて行って九州の友人に譲り、復帰特別措置による戻し税の幾分かを中隊基金にしたなどの裏話もあります。
◆左:九州演習場への移動で乗船した照国郵船(鹿児島)のフェリー 琉球海運(那覇)と大島運輸(奄美大島)との3社の便を使いました。 右:九州演習場への移動で乗艦した海上自衛隊の輸送艦(LST)本島東海岸のホワイトビーチ(米軍埠頭)から佐世保基地への航海でした。
台風時期には、輸送艦の沖縄出港が日延べされたり、民船で帰るのに鹿児島(国分駐屯地)で足止めされたりしました。12月に沖縄に戻る時は、那覇に着く迄に冬の厚着を脱ぎました。輸送機で那覇空港に降り立つと陽光が強く、眼がチカチカしたものです。
演習場では訓練の空き間に、近くの別府温泉や嬉野温泉で入湯する事もありました。九州出身隊員は機を見て近くの父兄の元に帰しましたが、沖縄出身隊員を連れて行ったり、土産を持ち帰ってくれました。中隊長として大変嬉しい事でした。
[ 沖縄本島で夜間徒歩行進 ]
演習では一般の道路を使う事があります。沖縄では久しく行われていなかったので、中隊で本島北部での夜間徒歩行進を計画し実施しました。名護警察署長の道路使用許可を得て、トラブルに備え調査隊・警務隊の支援も受けましたが、何事もなく出来ました。
◆左:夜間徒歩行進の開始に当たり現地で命令を下達する筆者 右:北部の一般道路を行進する第302普通科中隊(筆者が先頭での管理行進です。)
実は、私が一番気懸りだったのは「ハブ」でした。夜であり、休止の時は特に注意しました。行進経路に近い「ハブ血清」を備える診療所などを調べて、何処で咬まれても対応出来るようにしました。米海兵隊研修中に北部演習場の森林内で訓練した時、米軍は直ぐヘリコプターで後送出来る態勢を取っていました。沖縄では人とハブは住み分けていて、余程のヘマをしなければ咬まれませんが、いる所にはいて、動ける条件のもとでは動くのです。
[ 第302普通科中隊長離任 ]
[ 沖縄部隊と沖縄出身隊員 ]
沖縄からの陸上自衛隊入隊者は、佐世保に近い相浦駐屯地の教育団で、3ケ月の新隊員前期教育を受けて沖縄に戻るのが通常でした。沖縄部隊で更に3ケ月の後期教育を受けて各中隊等に配置されます。
前期教育から戻ったある隊員が高校の担任教師に挨拶に行きましたが、その教師が「自衛隊ではどんな教育をしているのか」と、隊員の立派な態度に驚いたと言うのです。教え子が挨拶に行くのだから、優しい慕われた教師だったと思います。話を聞いた私は、自衛隊の教育は優しいだけではなく、厳しい無私の指導があるからだと思いました。
中隊長の時、外出中の沖縄本島出身隊員が帰隊せず、友達の所に居るのを捜し当てましたが、その友達が「自衛隊が〇〇をいじめているから帰らせない」と言うのです。友達仲間を説得するのに一苦労しました。中隊に連れ戻し懲戒処分をしました。その後、群長にお願いして、選抜されて務める群長伝令に就けましたが、素直で能力もあるので立派に勤務し、群長もそれを認めました。
優しさに加え強さを備えるようになった沖縄出身隊員が次第に増えて行き、彼等が中核となって精強な郷土部隊に育ち、第15旅団(平成22年3月新編)となりました。その過程で九州出身隊員と沖縄出身隊員が大変仲良く切磋琢磨したことを、この上なく嬉しく思っています。
結び ウチナーとヤマト
琉球王国は江戸幕府より150年以上も前に統一され、奄美大島まで領有しましたが、薩摩藩に侵入され、与論島以北は薩摩領(鹿児島県)になりました。清国の冊封使が来る時は、薩摩藩の役人は目につかぬよう隠れました。
沖縄では、自分達を「ウチナンチュー」、本土の人達を「ヤマトンチュー」と言います。「ヤマト」とは本土の事で、日本の国も意味していました。今はウチナーもヤマト(日本)だから、殊更に気にする事はありませんが、特に琉球処分後に、沖縄の人達には本土に対する反発の意識、本土の人達には沖縄に対する差別の意識が生じたのは否定できません。
ここで歴史的な見方や民俗学的な見方を論じる気持ちはありません。私は、お互いがその気持ちを正しく昇華させることが大事であると思っています。そういう意味で、実に見事で立派な沖縄出身の日本人を何人か知っています。
この稿を以って「沖縄と私の思い」を終わらせていただきます。お読みいただいて有難うございました。眼を閉じれば、心優しい人達そして美しい海と空が浮かびます。私にとっての沖縄です。
- 完 -