江副さんとリクルートと私【第四章 】リクルート事件・バブルの崩壊/小野塚満郎new

      2021/02/07

 

リクルート事件とバブルの崩壊 そして江副さんが書いた本

 1988年6月、朝日新聞による「リクルートコスモス」未公開株譲渡報道を機に、「リクルート事件」は広く社会に知られることになりました。1991年にはマンション不況の報道が増加、そしてバブル崩壊、1992年には江副さんがダイエーへ株式を譲渡、さらに1993年には一兆六千億円の返済計画・銀行交渉がスタート・・・。この一連の流れが、リクルートにとって最大の危機の年月でした。そして課題解決担当の私にとっては、最後の任務になりました。

 リクルート事件でリクルート会長職を辞め、裁判を控え、多額の借入金があった江副さんの置かれた環境、江副さんを受け継いだ位田社長、この二人の間にあり、長年グループ会社の資金調達を担ってきた財務担当の奥住専務、この三者の考えが一致することはなく、結果として江副さんの考えが実行され、ダイエーへのリクルート株譲渡・業務提携が行われ、リクルートは自主再建の道を進むことになりました。

 決まって以後のリクルートの対応はスピーディーでした。リクルート事件の報道が騒がしく、裁判関係者は大変でしたが、リクルートの業績に影響はありませんでした。社名は全国区になり好業績が続きました。江副さんは裁判に専念、リクルートとの関係は希薄になっていきました。位田さんは、リクルートグループ全体の経営に力を発揮され、奥住さんはリクルートグループの財務担当専務として動かれました。私は、この三者の間を駆け回り、一兆六千億円返済プログラム作成に専念しました。1996年3月プログラムが完成、銀行との協定書調印完了、交渉することは無くなり、不動産売却したお金とリクルートの収益をもって、淡々と返済していくだけになり、私のリクルートでの課題解決役割も終了しました。

 事件報道から協定書調印完了までの6年間の中でも特に、1991年から1992年5月までの一年間、バブル崩壊が始まるころから江副さんリクルート株売却までの一年間は、リクルート11階会議室での会議は揺れに揺れました。コスモス、FF両社の負債を抱えての再建策議論、江副さんの不動産市況レポート、経営立て直しレポート、他にもレポートを沢山提出、そして「銀行交渉には私に代わる人物が必要」と株式譲渡先にダイエー、中内さんと交渉を独自に進めました。

 位田さんは自主再建論を主張、奥住さんは間に挟まり、苦悩の日々が続き途中で姿を消してしまいました。会議議事録にこの間のことが詳細に記録されています。
 当時の状況として、一兆円の負債を肩代りして、本体合わせて一兆六千億円の借入金返済は、容易なことではないと誰もが思っていました。しかしリクルート経理部、財務部担当者間では、リクルートの収益をもってすれば、年数をかければ不可能ではないと考えていました。

 

リクルート事件

■リクルート事件 1980年代、情報サービス会社リクルートが政界、官界、財界の要人に、子会社のリクルートコスモスの未公開株を譲渡、贈賄罪に問われた事件。贈賄側、収賄側合せて12人が起訴され、いずれも執行猶予付きの有罪判決が確定した。江副浩正リクルート元会長の公判には100人以上が出廷し、13年3カ月を要した。

※ブリタニカ国際大百科事典他を要約

 

事件発生から判決まで15年間の克明な記録

 ここに一冊の本があります。『リクルート事件・江副浩正の真実』、表紙を開けると、謹呈:小野塚満郎様、平成21年10月21日、江副浩正と書かれています。113日間の拘留期間中に江副さんが記したもので、裁判中にも書き続け、裁判が終了して、数年後に出版した本です。
 出版を反対する人もいました。江副さんは執筆完了後4年後に出版しました。自分の思いを、なんとしても伝えたい、自分の一方的言い分もあるかも知れないがと言いながら書いています。

1)

1突然の報道、2朝日新聞の”打ち方始まり“、3半蔵門病院へ入院、4赤報隊の自宅への襲撃、5国会承認詰問、6加熱する報道、7政治献金、8安倍晋太郎先生との出会い、9創政会との出会い、10政治家と交わりを深めた失敗

2)

1特捜の取り調べ、2、新聞報道による取り調べ、3墓を予約、4悪魔の証明、5女性問題、6検事がどなる、7膠着状態、8取り調べから55日目の逮捕

3)

1拘置所での取り調べ、2カンカン踊り、3逮捕直後の検事態度一変、4社員の逮捕、5パソコン問題、6拘置延長

4)

1現代の拷問、2壁に向かって立たされる、3拘置所の生活、にらめっこ、4検事作成の調書にサイン、5再逮捕、6宗像検事現れる、7土下座させられる、8特捜とメディア、9長期拘留か保釈か、10ぼかした調書、11再再逮捕、12折衷的調書、13法律上の罪と倫理上の罪の混同

5)

1保釈後のこと、2特捜は3800人を聴取、3いったい何が起きたのだ、3逮捕直後の報道、4拘禁反応鬱状態、5参院選で自民党惨敗、6弁護団結成、7ロッキード事件・伊藤宏さんの教訓、8公判前合宿

6)

1裁判、2政界ルート、3労働省ルート、4NTTルート、5文部省ルート、6調書の信用性

 そして論告求刑・最終弁論・判決、10人の情状証人と219人の上申書、求刑懲役4年、判決懲役3年・執行猶予5年、検察側は控訴せず裁判は終了しました。

寛大な処分を求める上申書

 1988年12月、江副さんの取り調べ開始に始まり、1989年2月一回目の逮捕、3月6日二回目の逮捕、3月28日に三回目の逮捕、6月6日保釈、12月公判開始、2003年3月判決・懲役3年執行猶予5年。13年半という長期にわたる裁判でした。この間、関係者の裁判全てが有罪、執行猶予付きの判決でした。

 判決の要旨に、「株式を譲渡した相手方として政界、官界、財界と多岐に渡っている、人数の多さ、地位の高さ、職務権限の大きさ、事件の重大性は高く、国民の信頼を損ねる結果を招いた社会的影響は大きい」とあります。

 一方「当時政官界に対する接待や贈答は社会的規範を著しく逸脱しているとは考えられていなかった」「未公開株式の譲渡は接待などの利益供与の一環で、当然のように受け入れていた、収賄側にも問題がある」「本件各贈賄行為により、収賄側が違法不当な職務行為に及んだという事情もなく、職務の公正が現実に害されたり、政治、行政がゆがめられたりはしなかった」「就職協定の存続、順守は社会の強い要請であり、公益に合致するものであったから、リクルートの利益になる行為であったにしても、それ自体としては、違法不当な施策を行わせるものではなく、行政の公正などを害するようなものではなく、むしろ国の正当にかなったものであった」と、一見無罪のような趣旨でした。

 長い要旨の後半では、「社会福祉法人、社会各種分野で若手育成に寄与」「公職をすべて辞め、リクルート株も大部分を譲渡した」「本件とかかわりないことでも、マスコミ等により社会的制裁も受け」「14年近くの長期に被告人の立場にいたことは必ずしも当人だけの責任ではない」「様々な分野の方から、江副さんの人格、識見、その業績を高く評価され寛大な処分の上申書等がたくさん提出されている」とあり、執行を猶予するのが相当であると判断するとありました。

 最後に江副さんは「日本の司法制度は、諸外国でも稀な密室での取り調べによる検事作成の調書に重きを置き、調書の中の有罪になる部分だけが開示される。その結果有罪率は99.8パーセント前後に達する。裁判員制度を導入しても、こうした状況が変わらなければ公正な裁判にはならない。司法制度を改めてほしいという強い気持ちを私は抱いている」と書いています。

企業の新卒採用情報をオープンにした江副さんの革新

 「リクルート事件」について、ここで私の見解を書いておこうと思います。それは、リクルートと新聞社との間の当時の関係です。

 1960年、学生たちがまだ自由に就職先を選べなかった時代に、東京の小さなビルの屋上プレハブからリクルートはスタートしました。1962年には大学生向け就職情報誌『企業への招待=のちのリクルートブック』を創刊。当時ゼミの教授による紹介など限られた手段でしか就職先を選ぶことが出来なかった学生に無料で配布しました。そして、最初は大学生向けだった『企業への招待』の対象を高校生に拡大、さらに中途採用情報誌、アルバイト情報誌、女性向け情報誌、自衛隊員向け、専門学校向け、高校生向け進学情報誌、住宅情報誌、旅行情報誌、自動車情報誌カーセンサー、結婚情報誌、エリア単位のアルバイト情報誌へと、就職情報に止まらず情報の内容そのものも領域を拡げていったのです。まさに「まだ、ここにない、出会い」の創造でした。

大新聞に睨まれたリクルート

 リクルートがこれらの広告情報誌を出す以前、人々が情報を得るのは一般新聞紙上の広告掲載が全てでした。しかし、専門情報誌と新聞掲載の広告とでは、情報の質量は格段に違います。専門情報誌の方がコストは安くて大きな効果を上げることができるのです。新聞社の広告売り上げが落ちていくのは、当然のなりゆきでした。リクルートおよび江副さんは、新聞社から目の敵にされるようになりました。

 並行して、営業力にも差がありました。良い例が住宅情報誌です。リクルートの住宅情報誌に対抗して読売新聞が同様の住宅情報誌を出版しましたが、数年で撤退しました。最大の敗因は、読売新聞は広告掲載営業を新聞販売代理店に任せたことです。代理店はスペース販売です。一方リクルートの営業マンは、ディベロッパーのマンション販売企画の担当者と同じ立場に立ち、土地取得から販売企画に至るまで、一貫して協力していました。顧客から寄せられる信用や期待の差は明らかでした。

 リクルートによる専門情報誌の出版事業が、新聞社にとって目の上のたんこぶになったことは、容易に想像できます。新聞社内部で『リクルートを叩け』は、重要なテーマになったのではないでしょうか。特に社会部では徹底的に議論されていたのではないかと思います。リクルート事件当時の新聞の記事、見出しを見れば明らかです。リクルートという文字と、贈収賄という文字、江副さんの顔写真を執拗なまでに掲載する、その"叩き方"は尋常ではありませんでした。

裁判所で作られる調書という"台本"

 一方東京地検特捜部ですが、私も何回か検事に呼ばれ調書にハンコを押すよう言われました。もう出来上がっている調書です。こちらの言うことは聞いていません。検事が作った調書に捺印させるのです。裁判にも証人として出廷しました。私が何か言おうとすると、検事は余計なことは言うな、私の問いに答えるだけでいいと。法廷はできあがっている台本を、読んで演じているだけの場でした。

 当時地検特捜部は大きな事件がなく、事件が欲しい状況だったと思います。マスコミで騒がれている、これは事件になる、事件にしようで、地検内部は盛り上がったと思われます。時を経ての朝日新聞記事捏造事件、地検証拠捏造事件を見れば、新聞社、地検特捜部の実態はそんなもんだったのでしょう。地検特捜部とマスコミの癒着、暗黙の癒着が想像できます。

 検事を辞め弁護士になった方が、リクルートに来て、地検特捜部の取り調べなどに対する対応の仕方を指導していきました。リクルート事件の担当検事の一人が後に江副さんと親しくなり、江副さんに「私が弁護士だったら江副さんを無罪にできたかも』と言っていました。朝日新聞社会部、地検特捜部という閉鎖した社会で仕事をしている人たちは、特殊世界の価値観で特殊なルールに従って働いている、特殊な人たちと思わざるを得ません。

- 江副さんとリクルートと私【第四章】②へつづく -

 

 

 

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