江副さんとリクルートと私【第一章 ③】/小野塚満郎
2020/10/21
「江副さんとリクルートと私 第一章 ②」から続く。
ゴルフは散歩
江副さんは、裁判が終わって執行猶予の期間、新橋事務所で執筆活動や好きな仕事の不動産開発・マンション事業を行う以外、冬は安比へスキー、暖かくなるとゴルフ場へ"散歩"に出かけていました。ゴルフは散歩だというのです。私たちとゴルフをするときは、ボールがグリーンに乗ったら一回だけパットをして、ホールは終わりでした。
ところが学生時代の親友とのゴルフでは態度が一変、ヘリコプターで到着し、一人では降りられず皆に抱えられていましたが、ゴルフがスタートするとシャキッと歩き、パットも最後まで打ちました。やればできる人だと分かりました。
半径1メートル以内に入るな
私が現役を引退、子会社の監査役をしていた時期、暇で江副さんの会社を手伝っていた頃のことです。ある日突然事件が起きました、江副さんが電話で私を怒ってきたのです。初めてのことでした。江副さんの怒りの内容は、私からすると青天の霹靂、全く筋違いの事でした。
その当時江副さんは、ある人物を攻撃し続けていました。攻撃された彼は、何をやってもだめでした。私と弁護士で、彼をサポートしましたが、無駄でした。江副さんが目を付け、苛めの標的にされた彼に逃げ場はなかったのです。彼は会社を辞める判断をしました。そういう時期だったので、江副さんは次なる苛めの相手を探していて、どうやら私が候補になってしまったようなのです。私が江副さんの"半径1メートル以内"に近づいてしまったのです。私は、江副さんの前から姿を消しました。私を次の攻撃対象に決めたのだと判断したからです。消えた後、江副さんから電話や人を介して「来るように」と厳しい追及がありましたが、応えませんでした。
当時江副さんは、好きな株投資で損失を出していました。金庫番の女性では、対応できないほどの大けがでした。私は毎日、赤坂の江副個人事務所へ行き、女性のフォローをしていました。江副さんは新橋の江副育英会のオフィスが常駐場所で、赤坂には来ませんでした。レポートを作成し、江副さんに届けていました。夜になると、江副さんから電話があり、ありがとうの言葉をかけられました。
この事件以降、私は江副さんを冷静に観察できるようになりました。真の江副像が見えてきた気がしていました。それから、江副さんとの仲は友人的なものになり、付き合いの主軸は仕事から遊びへ、ゴルフやスキーへと移っていきました。
人前では痛いと言わない
新橋の江副育英会事務所でのことです。行くと江副さんの顔面が、額から鼻先にかけて腫れあがって痛々しい姿。近くの第一ホテルからの帰途、つまずいて顔からアスファルトの地面へ倒れたとのことです。手をついて防御も充分にできなかったのか、顔先から突っ込んだので、無残な姿になっていました。
気がついたのですが、歩き方がつま先から、突っ込むような歩き方でした。パーキンソン病の始まりだったような気がします。本人は少しも痛がらず、平気な顔をしていました。そうです、江副さんは痛みを感じない人、痛いと言わない人でした。少なくとも人前では。以前、安比スキー場で足首を捻挫して、自宅で役員会議をした時も、足首に重たいものを乗せて、部屋の中を歩きまわっていました。
愚痴を言うと論破される
1996年(平成8年)頃の話です。現在のマンションに住んで3年目の頃です。マンションは西にベランダがあり、リビングから冬になると真っ白な富士山が見えました。
マンションの西には広い敷地に二階建ての産婦人科病院があり、広い庭がついていました。そこに大京不動産が10階建てのマンションを建てたのです。当然富士山は見えなくなりました。
そのことを江副さんに愚痴ったところ、江副さんから軽くいなされてしまいました。
「小野塚君、駅傍の広い土地は、いずれマンションが建つこと解らなかったの?」
「産婦人科は経営が不安定だから、売られる可能性は高いよ」
「広い土地は、いずれ高い建物が建つと考えておくべきだったね」
等々と、理詰めで畳みかけるように言われたのです。
リクルート在籍中、仕事面では数多くの難題に対峙して乗りこえてきたと自負していますが、江副さんとこの話をしたのをきっかけに、ようやく気付かされたことがあります。これからの人生は、自分で先を考え生きていかなくてはいけないのだと。
ただ一人先生と呼んだ人
◆リクルートの旧社名ロゴ ◆1964年東京五輪シンボルマーク
リクルートが開発した安比高原スキー場のグランドデザインを担当したのは、アートディレクターの亀倉勇作先生です。1964年東京オリンピックのポスターをはじめ、数々の名作デザインを世に送り出した日本の現代グラフィックデザイン界の第一人者です。リクルート創業時からのお付き合いで、リクルートの旧社章『カモメ』も先生のデザインです。
江副さんが唯一先生と呼び、江副さんに対して唯一強く意見を言える方でした。事件で江副さんが長い裁判を開始したとき「江副さん、早く裁判を終えて、経営者に復帰しなさい」と何度も何度も言っておられました。リクルートの重要会議に同席する一人でもありました。
江副さんは、安比の総合デザインを亀倉先生に依頼しました。安比ホテルの黄色、ゴンドラのブルーと黄色、部屋の小鳥たちのデザイン、国道からの入口に立つトーテムポール、安比スキー場案内パンフ、全て先生のデザインです。
先生もスキーが大好きでした。安比の広いゲレンデを大きくゆったりと滑る姿は見事でした。ゲレンデをいっぱい使って、端から端へ、大きく大きく滑るのです。ご高齢にもかかわらず、この体力、パワーはどこから生まれるのかと感服していました。レストランで厚いステーキを召し上がっているのを見て、納得したものです。
先生のスキーでの行動は、午前中滑ると昼前には一度上がり、着替えてレストランでゆっくり食事というようにゆとりを感じました。この姿を見て江副さんも見習うようになっていきました。
1997年のスキーシーズン、安比スキー場で転倒し、頭を打って数か月後に帰らぬ人となりました。私の部屋には今も小鳥のデザインがあります。いつまでも眺めて飽きることがありません。江副さんは、かけがえのない大きな心の支柱を失ってしまいました。
- 第一章④へつづく -