山本さんの「クーニャン」母子伝承にあやかって、思い出してみました。ぼくの母は、たぶん、歌がそれほど得意でなく、母子伝承でぼくが歌えるのは、淡谷のり子の「雨のブルース」と大津美子の「ここに幸あり」くらいです。「雨のブルース」の「雨よ降れー降れー」という切ない出だしを彼女はふざけて「尻よふれー、ふれー」などと歌っていた記憶があるので、まったくロマンチックではありませんでした。
母が熱をいれてぼくに接したのは、歌舞伎の話でした。母の父親、ぼくの祖父は、川上音二郎(1864-1911、筑前黒田藩出身の新派劇の創始者)に憧れて歌舞伎役者を志し、少年時代、出奔し、下関まで行って、連れ帰られたというエピソードがあったとか。戦前の博多では、大博劇場で歌舞伎興行が行われて、女学校時代、母は、学校を休んで(休まされて)祖父と(祖母も)歌舞伎に見に行ったそうです。1920年にできた大博劇場は、上呉服町にあり、戦後は演劇興行が振るわず、60年代半ばには映画館専用になり、1972年に閉館しています。ぼくはここで映画をみたことがありますが、歌舞伎をみたことはありません。
彼女はそうしたことを語りつつ、歌舞伎の有名出し物の見せ場を所作つき、台詞つきで解説してくれたのでした。いくつも覚えていますが、そのなかでも、得意の出し物が与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)の源氏店(げんやだな)の場面です。かつての情夫、与三郎がお富との再会でこう啖呵をきります。ちょっと間違って覚えているかもしれません。
「御新造さんへ、お上さんへ、お富さんへ、いやさお富、久しぶりだなー、34か所の刀傷、誰がーために受けた傷だ、これが一分じゃあ、すまされめーが」