「江副さんとリクルートと私【第三章】新プロジェクト/  小野塚満郎」

      2021/04/25

 

著者小野塚さん、読者の皆さまにはご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。

 昨年8月から、編集部(私、市丸幸子)の事情により休載中だった小野塚さんの回顧録「江副さんとリクルートと私」がこのたび再開できることとなりました。今後は月1~2回のペースで当HPに掲載の予定です。皆様にはどうぞ、倍旧のご声援(コメント大歓迎です!)・ご愛読をお願い致します。

 

 

 

新規プロジェクト 30を超える関連企業

 受注管理課、財務課、経理課の実務を通して多くの知識を得ました。並行してプロジェクト事業、新しい仕事の開始、子会社化が進みました。江副さんの発想は止まることがありませんでした。
 部門別会計課の設立、PC会計制度の推進、部門・営業所の子会社化に沿って関連会社課を設立し経理関連業務を引き受け、鹿児島志布志有明ファーム事業、竜が森開発事業、岩手観光ホテルの経営、安比総合開発事業への参加など、経理部門はこれらすべてに関与し、私も関与しました。

① 部門別会計課設立、PC(プロフィットセンター)会計を推進

 経理課時代、営業経験ありのベテラン社員の一言から考えだされた仕組みです。部門、マネージャーの業績評価を売上高から利益高に替えたのです。部、課、営業所をその単位で会社とみなし、損益計算書を作りました。売上、原価、一般管理費が課単位、部単位で集計できる仕組みを作ったのです。その結果、売上高、利益、成長性、収益率、新規獲得率等々が、課、部、営業所単位で比較評価できるようになりました。

 この仕組みを理解してもらうために、社長である部課長との勉強会を、東京はもちろん、全国の営業所に出かけて行いました。部課長が成長したことは言うまでもありません、利益に対する関心が高まりました。この仕組みづくりには見本がありました。それは松下電器、松下幸之助の経営でした。大阪まで行って勉強してきました。

 私の優秀な部下、仲間達が、売上高、利益高、成長率等々、結果を整理・グラフ化し、目で見て業績の良し悪しが分かり、比較できるようにしました。それを、毎年決算が終わると、全社決算マネージャー会議で結果を発表するのです。会議は泊まりがけで、ホテル等で行いました。第一回は、箱根の富士屋ホテルだったと記憶しています。大広間のステージに上がり、分析を数時間かけて報告し、各課、各部を評価したのです。初めての事です。

 私は喋るのが苦手で、心臓をドキドキさせながら、喋った記憶があります。途中からコントロールが利かなくなり、私が知っていることを、良いも悪いも、PCの内情をべらべらしゃべり始めたのです。会場は笑いと、掛け声で一杯になりました。2時間たっぷりです。最後に優秀課長、部長を発表、表彰、多額の表彰金が出ました。会議が終わって、夜の宴会時、大変だった記憶があります。喜ぶマネージャー、怒るマネージャー、私のそばに来て、なんだかんだ言っていくのです。当時私は、今で言う花粉症で苦しんでいました。アルコールも入って、頭の中はメチャクチャでした。

 この仕事『PC会計』を私は3年間続け、決算部課長会で講評、優秀経営者を発表しました。江副さんはどう見ていたか。「喜んで、楽しんでいた」のではないかと思います。僕の尻を叩いて、励ましていました。一方のとある営業担当取締役は、『小野塚君、夜暗い道を歩くときは注意しろ』と私に言いました。若い課長が、部門、マネージャーの評価を好き勝手に喋っていたのですから、怒りたくなるのも当たり前です。しかし優秀な社員が多いリクルート、あっという間にこの制度・仕組みは効果を発揮し、会社の業績は上がって行きました。

 この仕組みを作りあげたのは、優秀な部下、仲間でした。5~6人の課員が、時期になると毎晩深夜近くまで分析をまとめ、発表スタイルを考えていました。リクルートで現役の30年間、私は常に優秀な部下、仲間に支えられて仕事をすることができました。その最初の仕事がPC会計でした。

 この仕組みの評価基準検討会は、江副さんを入れて行いました。江副さん何かと言っていた記憶があります。その中の一つ、提案した事項があります。この仕組み、PC収支全てを合計すると、リクルートの営業収支と一致するのです。PC単位の利益額は、相当な額になります。そのまま表示したのでは、各PC長は自信過剰になります。江副さんの事業拡大、不動産投資に利益は欠かせません、PCから本社費という名目で、負担させることにしたのです。その率は江副さんが決めました。その結果、決算部課長会で発表する数字は、適正?なものになりました。
 部門別会計課は私の後、二代目、三代目と続きましたが、部門評価の役割が終わった時点で解散しました。

② 関連会社課設立、後に関連企業室に昇格

 私は昭和56年(1981年)、36歳の時に「関連会社課」を作っています、「部門別会計課」と兼務。5年後の昭和61年、41歳の時に「関連会社室」を経て「関連企業室」へと名称を変更、昇格させています。最初財務部と兼務でしたが、関連企業室に名称変更したとき、専任になりました。江副さんがリクルートを分社化させて行った流れです。

 何故分社化したのか、江副さんから何らかの説明があったと思いますが、覚えていません。先に作ったPC会計、会社の中を部単位、課単位に会社とみなして管理する仕組みを作った流れからすると、事業ごとに会社を分けていくという発想は、元々持っていたのだと思います。分社化させた会社の経理事務は、関連企業室で一手に引き受けました。全国の営業所を販売会社化したものも含めると、30社を超えていたと思います。大規模な不動産会社コスモスとノンバンク・FFだけは別で、経理、財務業務は関与しませんでした。人間関係は繋がっていました。

 最初がリクルートコンピュータープリントです。リクルートは紙と鉛筆で事業する会社です、メーン商品はリクルートブックです、写植打ち、原稿整理が重要で、リクルートの工場でした。採用テスト・研修事業、中途採用情報誌事業、アルバイト情報誌事業、映像研修事業、人材斡旋事業、派遣事業、旅行事業、竜が森開発、やがて大阪と名古屋支社を除く全国の営業所を順次販売代理店化していきました。

 設立登記の際、全ての会社で私が監査役になりました。戸籍謄本を取るのが大変でした、本籍は北海道虻田郡倶知安町でした。父から八王子に移すように言われ、今は八王子市椚田町です。会社は、アメリカ、イギリスにも作りました、ニューヨーク、ロスアンゼルス、ロンドンです。最終的に会社数は30社を超えていたと思います。月次決算、期末決算、資金手当て等一手に引き受けていました。

 当初経理部には、財務課、経理課、受注管理課がありました。私は受注管理課、財務課、経理課と移動し、部門別会計課、関連会社課を設立兼務、経理部次長で、財務課と関連会社課を兼務していました。成長したリクルートは、経理部を、経理部、財務部、販売管理部そして関連企業室に分けました。同時に私は関連企業室長専任になり、私が最も自由に動き回った時代でした。国内、海外を歩き回りました。

 リクルート社内報『カモメ』と競争できる内容の関連会社報『グループネットワーク』、月次決算マンスリーレポート「MAPS」を発行しました。ここに一冊の本があります。小野塚満郎の企業探訪・三十番勝負です。毎月出す関連会社報に私のトップインタビューを掲載した総集編です。MAPSは、会社トップへの月次決算報告です。メンバーにコメントも書くようにさせました。メンバーは30人以上いたと思います。一人が一社を担当、経理事務統括、損益計算書作成、貸借対照表を作成し、見させていました。入社してすぐの人にも担当させました。彼らの成長は著しいものがあり、関連企業室は経理全般の人材の宝庫でした。

 最大の子会社は、リクルート事件の引き金となったマンション販売の不動産子会社コスモス。当初は環境開発という名称で、総務部の中で事業を始めていました、江副さんの手元の、総務のメンバーで事業をしていました。後に休眠会社を利用し会社としてスタート、後にリクルートコスモスに社名変更しました。江副さんは、不動産が好きでした。大きな資金が動き、利益も大きい物でした。江副さんは『でかいこと』が好きだったと思います。

 一方で、不動産取引は目利きが重要なことも知っていました。土地の価値を評価、予測することです。江副さんを見習う人がいました。港区の大手不動産会社森ビルの創業者です。学者から不動産事業経営者になられた方です。リクルート創業の場所、それは第一森ビルの屋上の小屋でした。

 関連企業室が経理事務等関与しなかった会社が二つ、リクルートコスモスとファーストファイナンス(FF)です。規模と事業内容から、私の関与する会社ではありませんでした。バブル時代の不動産事業、目利きも不動産知識も必要ではありませんでした。資金は銀行から湯水のように流れ込んでいました。不動産は買ったもん勝ちの世界でした。江副さんは裁判中の身であり、直接経営への参加はできせんでした。コスモスはバブルの世界へ突き進んでいきました。

 もう一つ大きな会社、FFはノンバンク事業。銀行でない銀行です。親しくなっていた銀行の方を迎えて、社長になっていただきました。この会社の設立理由、江副さんの言い分は、『銀座の女性たち、収入はあるのに、銀行ローンが借りられない、そういう女性たちがマンションを購入する際の資金を貸す』でした。コスモスのマンション販売に役立てるための『ノンバンク=銀行』だと。江副さんの真の目的は、今ではもはや確認できません。コスモスに続き、株式を上場させる計画もありました。リクルート事件、バブル崩壊で計画は挫折しました。

 FFの銀行からの借入金は、バブル崩壊時点で七千億円ありました。コスモスがマンション販売用用地取得のための、資金調達が必要だったのです。さらにこの会社は、コスモス用だけでなく、いわゆる独自のノンバンク事業を、拡大していました。この二社を合わせた、バブル崩壊による負債一兆円をリクルートが肩代わりする、その返済計画作成プロジェクトが作られました、第四章で書きます。

 関連会社の役員人事では、江副さんの思いが働いていました。仕事ができる人、人望がある人でも、社長にしないケースがいくつかあったのです。しかし、その方達は全く気にしないで、実質、会社トップの立場を維持、会社運営をされていました。江副さんの性格を知り抜いている方達でした。名目社長になった方、口を出すようなことはありませんでした。

 

- 江副さんとリクルートと私【第三章】②へ続く -

 

 

 

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