「江副さんとリクルートと私【第三章】②/小野塚満郎」

      2021/04/25

 

③ 鹿児島志布志有明ファ-ム事業

 江副さんは、昭和47年(1972年)鹿児島県志布志にリクルートファームを開園しています。私がリクルートに入社して3年目です。ファーム開園の目的は、日本に大災害が起こり、食べ物に困った時に、『リクルートの社員が生活していけるように』と言っていました。『日本列島沈没』という本が出版、話題になっている時でした。
 江副さんの好きな研修、ファーム研修が始まりました、社員が部単位で泊まりがけで行き、畑を耕し、牛の世話をする研修です。志布志は遠い所でした。東海道線、山陽線、日豊線、一日かけて行く場所でした。飛行機を使った部もあったと記憶があります。ファームの責任者は、社員から募集、希望者の中から選ばれた人でした。一ちゃん、彼は学生時代から牧場、農園に関心があったと聞いています。経理は財務の高卒の女の子が一人で担当していました。土地を買い足し徐々に広くしていきました。年末になると、牛一頭をつぶして、その肉を社内販売していました、おいしい肉だったの覚えています。我が家の年末はご馳走でした、良き時代、良き思い出です。私がこの研修に参加したのは営業マンを3年半経過した時でした。忘れもしない10月31日、研修が終わり東京へ戻って出社すると、営業部長から『小野塚君、明日から経理に行ってもらう』と、言われた日でした。

 このファームは、のちに閉鎖することになりました、オイルショックの影響です。石油不足を解消するために、宮崎県志布志湾に石油貯蔵基地を作ることになったのです。これが背景となり、志布志近辺の土地の値段が高くなり、農園拡大が不可能になったというのが、江副さんの言っていたことでした。真の理由は、東京から遠すぎたという理由だと思います。部下と二人で、会社清算処理のため出張、クローズして、霧島温泉で一泊して帰ってきました。

 リクルートには、このようなプロジェクトを提案する人がいました。創業時の社員の一人で、全国を歩き回り、役所を訪ね、面白い話を聞いては江副さんに報告していました。志布志は彼が実現した最初の開発物件でした。その人は、リクルートの資金が無かったころ、リクルートブックの配布の際、本を東京駅で東海道線の夜行列車の普通席の荷台に積み込み、人は誰も乗らずに荷物だけ運ばせ、大阪駅で社員を待機させ、持ち出させて大学へ持ち込んでいた話は有名です。
 彼が次に見つけてきたのが、岩手県の山奥、花輪線(盛岡から秋田方面へ)竜が森駅周辺の開発の話でした。

 

④ 竜が森開発事業、後に安比高原開発事業と合流

 私が入社した5年目の昭和49年(1974年)、江副さんは岩手県の山奥、花輪線の竜が森駅周辺の原野開発事業に手をつけました。名称はREC・レック事業です。RECとは、レクレーション・エデュケーション・センター、遊びと研修を兼ねた施設の開発でした。江副さんは当初ここをROD研修の場所として開発すると言っていました。江副さんは、新規事業に着手するときは必ず何らかの目的を社員に告げました。岩手県の山奥、日本海と太平洋の中間地点、花輪線で雪が一番積もる地域、積雪数メートルと聞いていました。都会から遠く離れ、心静かに研修をする場所として適切だと言いました。後の安比高原スキー場開発につながる、壮大な地域開発事業に成長するとは、想像もできませんでした。

 竜が森をさがしてきたのは、先に紹介した方です、リクルート創業の頃からアイディアマンでし
た。彼が全国各地を歩き回り、聞きこんできたエリアでした。まだバブル時期ではありませんが、商社系の不動産会社が入り込んでいました。幸いこの商社は、政界がらみの事件、ロッキード事件に巻き込まれ、撤退せざるを得ませんでした。

 順番は回ってきましたが、相手は岩手の山奥の牧場・平舘牧野協同組合、簡単にはゆきません。江副さんは週末になると岩手に向かい、関係者と親しくなることに力を注ぎました。飲めない酒を飲み、付き合いました。その甲斐あって、牧場を50年の借款契約で借りることができました。竜が森、(後に安比に地名変更、決めたのは伝説の人です)は、江副さんの故郷になりました。最初に建てたのは、数棟のログハウスです。ここに泊まって研修をしたのです、自炊でした。実際に研修をしました。

 やがて、土地の中央に大きな建物を建て、研修センターとして使用しました。竜が森にはスキー場があり、冬はスキーが楽しめました。当時私はスキーなどしたことがなく、無縁の施設でした。一回だけ試しに滑りました。今ではどこにも無い、回っているロープにタイミングよく捉まり、上にあがって行きました。何度も失敗した記憶があります。その一回目のスキーでは、正に直下降、下の広場に顔から突っ込んで止まりました。よく骨を折らなかったものだと思います。ここでは二度と滑りませんでした。安比スキー場へは通いました。こぶ斜面以外は何処でも滑れるようになりました。

 研修施設と並行して作ったのが、なんとゴルフ場でした。岩手の山奥の、誰も来そうにない土地にゴルフ場を作ったのです。最初は18ホール、18ホール追加して36ホールのゴルフ場です。ホール途中に小川があり、イワナやヤマメを見ることができました。このゴルフ場作りに社員も参加しました。中国の文化革命ではありませんが、社員みな研修の名のもとに労働に出かけたのでした。内定者も連れて行きました。銀行関係者も見学に招待しました(江副さんは金融機関には気を使っていました、銀行接待に上限はありませんでした)。まだ新幹線が通ってない頃です。上野発の夜行列車に乗り、早朝盛岡駅に着きました。竜が森のロッジに泊まり、地元のおばさんに料理を作ってもらい、まだ建設中のゴルフ場で試し打ちをして遊びました。夜は満天の星、素晴らしい経験をさせてもらいました。ちなみに同行したのは私を経理に呼んだ人、お酒が飲めない人でした。 

 余談ですが、リクルートの財務担当には、大番頭、中番頭、小番頭の三人がいました。私を呼んだ人が大番頭、中番頭は私にいつも気を使ってくれる方でした、で私は小番頭でした。竜が森に銀行団を連れて行くのは、大番頭、中番頭の仕事でした。銀行と親しくなる、関係が良くなったのは言うまでもありません。

 

⑤ 岩手観光ホテル経営引き受け

 竜が森で開発事業をしているリクルート、江副さんに関心を持ち、依頼ごとをしてきた方がいます、当時の岩手県知事です。『岩手県観光ホテル』の経営を引き受けてほしいという依頼でした。江副さんのホテル事業展開のきっかけです。岩手県で開催された国民総合体育大会、いわゆる国体に来臨される、天皇陛下ご夫妻をお迎えするために作られたホテルです。国体が終わって数年で、経営が苦しくなっていったそうです。

 私はこのホテル経営に経理面で関与しました。昭和52年(1977年)、私が32歳の時です。月1回、上野発の夜行列車、列車名は忘れましたが白鶴?かな、夜11時05分発です。それまで新橋で部下を付き合わせ、時間を調整して上野へ、夜行寝台列車のゴトゴトという音を聞きながら盛岡へ向かいました。盛岡駅に着くのは早朝6時ごろ、駅前の旅館食堂で朝食を済ませ、ホテルへ向かい、ホテルの経理相談に乗っていました。竜が森開発・研修事業構想に始まり、ゴルフ場、ホテル経営と、岩手県、盛岡市、平舘、松尾村、安代町への関わりは深くなっていきました。私は竜が森開発の1974年から江副さんが亡くなる2013年まで40年間、岩手県盛岡市、安比地区に通うことになりました。

 半官半民の『泊めてやる』感覚のお上経営のホテルでした。ホテル経営に派遣されたのが、一人の社員、一癖二癖三癖ある(私の博多での結婚式、入社二年目の私の結婚式に、部長課長先輩の三人と彼が出席していました、福岡営業所の所長でした)やり手の社員。彼は、岩手県、安比地区のボスと言われるまで登りつめました。ホテル経営に全身全霊をかけ、数年で黒字経営にし、別館を建てるなどして、軌道に乗せました。ホテル経営の基本は、客を呼ぶこと、彼は宴会企画にアイディアを出していました。宴会の幹事に宴会主役の友人を立たせる、友人が動いて人数を集めさせる、この手法を用いて、宴会獲得件数を増やしていったのです。やがて竜が森地区の開発にも関与するようになり、その影響力はとどまることを知りませんでした。

 彼の悪い評判が、社内の一部の人間から私に届くようになりました。私は隠密裏にヒヤリングをし、金銭に係る疑いを持ちました。経営に貢献している彼ですし、江副さんが重用している人材の一人です。彼とホテルの一室で面談し、忠告したことがあります。後に江副さんが株をダイエーに売却して、ダイエーとの関係が深まった時期、福岡の野球チームダイエーホークスの経営に関与しましたが、そこで事件を起こし、リクルートから身を引きました。江副さんはこの様な人材を生かし、リクルートを多角的に経営していくことを楽しんでいました。

 

⑥ 安比高原開発事業参加

 竜が森開発と並行して、江副さんは周辺の土地購入を進めていました。有限会社を設立、社員を農家に変身させ住まわせ牛を育てながら、周辺の土地を買っていったのです。江副さんの土地に対する関心は高いものでした。この会社が後に細野高原牧場となり、安比スキー場と並行して、存在価値のある会社へ変身していきました。この時期に江副さんのところに持ち込まれた話が、林野庁の『国有林有効開発事業』でした、日本全国にある国有林を何らかの形で、第三セクターで開発しないかという話です。この話も伝説の人が持ち込んできました。

 竜が森から国道を隔てて向かい側に広大な国有林、前森山がありました。そのさらに森の裏手には、ブナ林、広大な牧場が広がっていました。この山、前森山の開発、スキー場づくりの話です 昭和55年(1980年)、35歳の時、安比総合開発を設立、私は監査役へ就任しました。安比スキー場開発の始まりです。開発の条件は第三セクターですが、リクルート主導、江副さん主導の会社でした。リクルートの他には、松尾村、安代町、岩手県北バス、金融機関が参加しました。江副さんは本腰を入れて取り組みました。

 ホテルのデザイン設計は、日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)の初代会長で、1965年東京オリンピックのポスターデザインで名高い亀倉雄策先生です。

 亀倉先生にはリクルートの創業時からお世話になっています、カモメマークの社章デザインも亀倉先生です、スキーも大好きで、安比スキー場には、時間の余裕があれば行っておられました。その滑りはゆったりと大きく、広いゲレンデ端から端へ大きく流れるような滑りです、見事でした。82歳まで滑っておられました。しかし安比スキー場Tバーリフトを降りて、オオタカコースへ出た時、こぶ斜面に板を取られて転倒、頭を打たれ、しばらくしてお亡くなりになりました。江副さんは、大事な方を失いました。江副さんに唯一苦言を呈することができる方でした。私のめじろ台の部屋に、先生が書いた野鳥の額が残っています。

 安比スキー場の広さは日本一と言ってもいいくらいの広さです。コースは30前後、ホテルから見て正面の白樺ゲレンデ、左手の南斜面は、オリンピック金メダリストのトニーザイラーにコース設計を依頼しました、ザイラーコースです。

◆ザイラーゴンドラ

 右手は前森山から西森山を経てホテルまで、初心者コースのロングコース。竜が森開発事業からこの安比スキー場開発に至るまで、江副さんの岩手県盛岡地区へ注ぎ込むエネルギーは、底なしでした。竜が森研修施設、竜が森ゴルフ場、細野高原牧場、岩手県観光ホテル、リクルート・コンピューター・プリント盛岡、二番目のゴルフ場メープルカントリークラブ、そして安比総合開発=安比スキー場の開発です。安比地区担当役員を決め、常駐させていました。開発当初から、社員を何かにつけて行かせていました。内定者研修は例年のプログラムになりました。総務、人事部は大変だったと思います。竜が森は何もない所です。花輪線竜が森駅二つ手前の平舘町の旅館を借り切り、そこを常駐場所にして、通わせていました。夏にはテントを張り、お風呂はドラム缶でした。たまに車で行く温泉は、何よりのご褒美でした。

 江副さんがリクルートの株式をダイエーに売却した時、中内さんに一つだけ条件を入れました。それは、安比地区の経営に、ダイエーは口を出さない、江副が経営判断を続けるという条件でした。そのことを記した用紙を常に持ち、何かの時に持ち出していました。安比地区の社員、関係者もその条件を聞き、喜んでいました。しかし裁判中の身です、表に出て行動する訳にはいきません。あくまでも、影の経営者の立場でした。第三セクターですから、役員会が毎月開かれます。出席ができません。位田さんが出席、意思決定していました。私はいつも秘書役で付いていきましたが、楽しくありませんでした。 安比地区のマネージャー、関係者諸氏は江副さんが安比地区を買い取って欲しい、真の経営者になって欲しいと願っていましたが、江副さんは応えませんでした。江副さんにとって安比は故郷、自分の自由になるエリアでしたが、経営者として参加することはありませんでした。リクルート株式を売った後は、リクルートへの経営へは関係しませんでした。自分で不動産会社を設立、マンション分譲、運用マンション開発事業に力を注いでいました。 私はリクルートの財務部長としての責務を終わったあと、数年間この江副さんの会社をサポートしました。苛めの対象が私に向かうまで。

安比への想いがあふれた城山ヒルズ会議

 江副さんのリクルート株売却が決まり、決済が終わった後の1992年7月25日、大沢さんの会社が入っていた城山ヒルズビルで、江副さんの声かけで、江副、大沢、位田、奥住、亀倉会議が開かれました。目的は、安比経営に関して江副さんの関与を認めて欲しい、ダイエーの中内さんが了承した覚書はあるので、リクルート役員会で承認して欲しいという内容でした。私の手書きの議事録が残っています。それによると、位田さんは「中内さんが出席する会議、どんな結論になるか分からない、難しい」と。江副さんは、「位田さんの意思が重要だ」と。大沢さんは「安比地区の経営方針を決める必要がある」と。亀倉先生は、「中内さんの考えを聞く必要がある」と。奥住さんは「この問題は、中内さんが入ったリクルート役員会で決めるべきこと、江副さんが決めることではない」と発言。江副さんからは「安比地区の経営に再投資が必要、お願いしたい」との発言があり、安比地区への熱い思いが語られた会議でした。

 後に安比地区は第三者へ売却、江副さんが経営に関与する、リクルートが再投資することはありませんでした。江副さんは安比へ通い続けました。年末年始はもちろん、スキーシーズンは天気予報を確認しながら通いました。安比地区は、江副さんの故郷です。平成25年1月、その安比からの帰途、東京駅で倒れて帰らぬ人となったのでした。

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