「江副さんとリクルートと私」 第四章③/小野塚満郎
2021/05/23
※「江副さんとリクルートと私 第四章②」から続く。
本書も前に書いた『リクルート事件・江副浩正の真実』同様、江副さんから贈呈された本です。表紙を開けると、江副さんの直筆で「小野塚満郎様、2003年(平成15年)10月11日、江副浩正 私の回顧録です、その節はお世話になりました」と書かれています。
本書は三章で構成され、第一章で江副さんは自らの生い立ちを紹介。第二章では、23歳で創業し、事件で辞めるまでの29年間の歩みを「リクルートと私」としてまとめています。そして第三章では、ダイエーへの株譲渡の経緯を詳細に綴っています。
ここでは、第二章「リクルートと私」に書かれた幾つかのエピソードをピックアップし、リクルート創生期の江副さん奮闘の日々をふり返ります。
東大新聞の広告セールスで年収60万円
昭和33年(大学2年)6月、アルバイト委員会の掲示板を見ていて、江副さんは「月収1万円/東京大学学生新聞会」の掲示を見つけました。東大新聞の広告取りの仕事で、月収はコミッション制で1万円。お金の魅力にひかれ、江副さんはそのバイトにつきます。これが"情報"が利益を生み出すことに気づき、その後生涯にわたって情熱を注ぐことになる、江副さんと"情報"との初めての出会いでした。
昭和35年(1960)3月の大学卒業時、江副さんは東大新聞の広告セールスのコミッションで、年に60万円の収入がありました。当時の新人サラリーマンの年収の3倍に当たります。そして、小・中・高の12年間無遅刻無欠席を続けた反動から、規則に縛られない生活をしたいと考え、卒業後は就職せず東大新聞の広告セールスの仕事を継続することを選択、社会人生活をフリーランスの広告代理業でスタートしたのです。
当時、就職先には位(くらい)がありました。鉄鋼・造船・化学・銀行などは就職先としての位が高く、証券・不動産などは低く見られ、広告業は最も位の低い業種と見なされていました。江副さんは「私の場合、位の低い仕事から出発したことが幸いした」と述懐しています。
卒業後は早稲田、慶応、一橋、京大などの大学新聞にも手を拡げ、事務所は、教育学部で2年先輩の森稔さんが学生時代につくった西新橋の第二森ビルの屋上プレハブを借りました。さらに翌年には北は北大、小樽商大から、南は九大、鹿児島大まで、およそ40大学の大学新聞と専属契約を結びました。他大学の大学新聞も求人広告を望んでいて、すぐに専属契約を結ぶことができました。
大学新卒者向け求人情報誌「企業への招待」創刊
昭和36年(1961)、アメリカ留学中の先輩から「アメリカでは、学生にこのような本が配られている」と、1冊の本が送られてきました。就職情報ガイドブック誌『キャリア』です。学生向けに就職に役立つ記事があり、その後に企業の求人広告が1社2ページにパターン化され、200社ほど掲載されていました。
「これだ!」とひらめいた江副さんは、これをヒントに、日本初の大学新卒者向け求人情報誌「企業への招待(後のリクルートブック)」を発刊します。そしてこの「企業への招待」こそが、その後続々と発刊されるリクルートの"広告だけの本"の原点。それまで就職先を推薦や縁故に頼っていた学生たちに、自分の意思で企業を選ぶという新しい選択法を提案し、大学生の就職活動のあり方を大きく改革することになったのです。
表紙のデザインは、日本を代表するグラフィックデザイナー亀倉雄策先生に依頼しました。デザイン料は「会社が儲かるようになったら、ちゃんと請求するから」と、破格の金額で引き受けて下さいました。先生には後年社外重役をお願いし、平成9年に亡くなられる直前まで、リクルートのCI戦略から、全国に建設した自社ビルの外装デザイン、安比高原スキー場の開発やホテルの建設に至るまでトータルにアドバイスをいただき、デザインや経営面だけでなく、江副さんの心の支柱としても大きな存在となっていただきました。
創刊号は赤字
大学新聞で手ごたえを得た江副さんは、「企業への招待」にも自信がありました。大学新聞より広告紙面が広いので、詳しい情報を学生に届けられる。広告料金も安い。だから企業はきっと参加してくれるはず。この事業は必ず成功する・・・と、確信を深めました。
ところが大学新聞には好意的だった企業の反応は意外にも冷たく、第一号は赤字でした。歴史ある大学新聞と違い、「企業への招待」は江副さん個人が発行元。現物がまだない見本誌での営業、しかも前金、さらに初めて目にする"広告だけの本"に対する心理的抵抗が企業側にあったのです。
そうした中、代金後払いで印刷を引き受けてくれていた大日本印刷へ頭金が払えないという問題が起こりました。困り果てた江副さんは、会社の金銭出納の口座を開いていた近くの芝信用金庫に融資を依頼に訪れ、森ビルに収めている60万円の保証金を譲渡担保にすることで60万円の融資を受けることができました。この恩義から江副さんは現役時代、リクルートの営業報告書に記載する取引金融機関の筆頭を芝信用金庫にしていました。この融資がなければ、「企業への招待」は頓挫していたでしょう。
巻末のアンケートハガキに手ごたえ
有料と無料の計69社を掲載した第一号の「企業への招待」は、就職活動に間に合うぎりぎりの時期に完成しました。数々の苦労の末に誕生した創刊号が大日本印刷から届いたとき、スタッフ皆で歓声を上げたことが記されています。
「企業への招待」の巻末にはアンケートハガキを挟み込み、通信欄に書かれた学生たちの声を、1枚1枚食い入るように読みました。一例をあげると、「掲載社数をもっと増やしてほしい」「就職先を選ぶのにとても参考になった」「このような立派なものを無料でいただき、感謝しています」など、好意的な言葉が圧倒的。一方広告掲載企業からも、学生からの資料請求のハガキが大量に届き感謝されました。
「企業への招待」の赤字は大学新聞の広告の利益で埋めましたが、翌年も発行するかどうか逡巡しました。学生から好評だったので、来年は事業として成立するだろう。だが、手元には資金がない。発行を続けると金策で苦しむかもしれない。大学新聞の仕事だけならば、苦労せずに高収益を続けて行ける・・・と迷いましたが、苦労を成果につなげようと続行を決めました。そして2年目、折からの岩戸景気の追い風もあり、掲載社数は倍増、売上高は4倍増、計画を大きく上回る利益を上げることができたのです。
そんなある日、アルバイト学生から、東大、一橋、早稲田、慶応などの学生へ無料で配布した「企業への招待」を神田の古本屋が100円で買い取り、神田近くの中央大学や明治大学の学生に200円で売られていることを聞きました。
このことをきっかけに「すべての学生にこのサービスを提供することをこれからの仕事にしていこう」という気持ちがふつふつと湧いてきたと、江副さんは書いています。
社員皆経営者主義
駒場のクラスメイトから薦められて、江副さんはP・F・ドラッカーの「現代の経営」を座右の書にしていました。そこには「経営とは顧客の創造」「経営とは社会の変革」「経営とは実践」という心躍る言葉がありました。江副さんは夢中になって繰り返し読み、以後ドラッカーが江副さんの師になりました。
ドラッカーは組織を効率的に機能させるために多くの提言をしていますが、その柱となるのがPC(プロフィットセンター)制というマネージメントシステムです。会社の中に小さな会社(PC)を作り、そこに大きな権限を委譲して成果を求めていく、いわば『社員皆経営者主義』といえるもの。PC長は自分の裁量でPCを運営し、競い合い、年齢、学歴、性別、国籍に関係なく、業績を上げた人が評価され組織の階段を登っていきます。このPC制を導入したことで、上からの命令を待つのでなく、社員一人ひとりが自発的に仕事をする風土が育ち、リクルートは高収益企業に成長していくのです。
広告もニュースである
思えばリクルートは、東京大学新聞社で「広告もニュースだ」との気づきのもと、広告自体を価値ある情報として、さまざまな分野で展開することで情報誌ビジネスを発展させ、成長を遂げてきました
30年程前、未来学者達がマンマシン時代の到来を予測していましたが、今日若者たちはパソコンや携帯電話などでニュースを見るようになりました。新聞の発行部数は減少し、雑誌の発行部数も減少傾向にあります。このような変化の中、広告と記事を峻別した雑誌よりも、広告を記事にした雑誌の方が元気です。
今のリクルートは、コンピューターをプラットフォームにしたインターネットビジネスと、江副さんは反対した地域限定の『ホットペッパー』というフリーペーパーが、順調に伸び広告のニュース化がさらに進んでいます。
「事件で迷惑をかけてしまった私だが、52歳でリクルートを離れたことは、結果としてリクルートのために良かったと、今思っている」 江副さんはそんな言葉で「かもめが翔んだ日」の第二章を結んでいます。
- 次へつづく -