「江副さんとリクルートと私」 第四章②/小野塚満郎

      2021/04/25

 

バブル崩壊

 

小野塚君、暗雲が近づいているよ

 手元に一枚の写真があります。73人が写っています。1990年(平成2年)6月の日付。安比サミット会議、私の関連企業室が事務局でした。リクルートの役員、関連会社の役員全員が安比に集合、各社の経営状況を報告し、三ケ年計画を発表する会議です。安比ホテルの「竜が森」が会場です。
 この会議ですが、実は終わったあとの宴会、自由時間が重要な情報交換の場でした。リクルート内の情報を共有し、「社員皆経営者主義」の実践を確認する場になりました。リクルートコスモス、FFの役員も参加していました。

 その宴会会場でのことです。ノンバンク=ファーストファイナンス(以後FFと表示)の社長(金融機関出身)が、私の傍らに来て『小野塚君、暗雲が近づいているよ』と囁いたのです。最初はピンときませんでした。バブル崩壊の前兆が来ていたのです。

 1990年(平成2年)といえば私が45歳の時、財務部長に戻ってくれと奥住さんから要請があった年、関連企業室長専任だった時のことです。当時リクルートは、国内は北海道から九州、海外でもニューヨーク、ロスアンゼルス、ロンドンに子会社を持っていて、私は国内はもちろん、海外にも出張し、関連企業室長として自由に飛び回っていました。しかし、財務部長に戻る背景は薄々感じ取ることができました。

 コスモスの役員が頻繁にリクルートの経理部門の部屋に来て、奥住さんと応接室で話し込んでいました、不動産市況が悪化している、含み損が出ている・・・という話だったのでしょう。バブル崩壊が始まっていたのです。当時財務は、中途採用できた人が担当役員、財務部長は私の部下が務めていました。奥住さん曰く「子会社に相当な額の損失が発生している、銀行交渉が大変になる、小野塚君やってくれ」、とのことでした。

1兆5千億円を超える借入金

 江副さんは、バブル崩壊が来る前までは、自分の裁判対策で手一杯でした。しかし、バブル崩壊が予想されることで、自分の立場を考慮しつつ、リクルートグループのバブル対応にかかわらざるを得ませんでした。リクルートとコスモス、FF三社で借入金合計が一兆五千億円を超えていました。銀行対応に戦略戦術が必要でした。

 江副さんの考えは、『自分は社内会議には出るが、銀行交渉に出ることはできない、僕に代わるバックアップになる人物が必要だ』でした。強力に主張されていました。これを実現するための会議が頻繁に開かれるようになりました。江副さんと三社社長と亀倉さんの小人数会議、やがてRGS会議へ。私の役割は、これらの会議の事務局でした。G8ビル11階の会議室フロア、一部屋を事務局部屋として利用し、何人かの部下をメンバーに入れて対応しました。

 最高経営会議の議題は、江副さんがリクルート株を第三者へ売却することのへの議論でした。江副さんが複数の人物、会社を提示、出席者は聞く一方、大半が反対意見です。対立が続きました。新聞記事の論調は、バブル崩壊が始まり、不動産会社、ノンバンクの不良債権が増大している・・・と、日を追って切迫したものになっていきました。結論が出るまでの一年間、11階会議室フロアの事務局で過ごしました。

 - 次へつづく -

 

 

 

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