Seki-chu Rhapsody クラシック音楽青春記 中学編

      2019/11/07

 

一瞬で終わった入学式

 中学入学式、昭和33年のその日は朝から晴れた日であった。最寄りのバス停に降りた親子二人は、少し早く着いたなと思った。式の開始10時までまだ一時間ほどあるし、バス停付近には新入生らしき人影もない。

 バス停から見上げる公園の方が、明るく見えた。桜が、満開に咲いているのだ。
「サクラ、見ていこうか」と母が言った。
「まだ時間のあるけん、見ていこう」と私も言った。

◆桜満開の西公園

 石造りの大きな鳥居をくぐり、坂を上って公園に向かった。そこには古い大きなサクラの樹が何本もあり、サクラは満開であった。公園入口辺りの桜を見終わった。

 「時間がまだあるばってん、ソロソロ行こうか」と母は言った。坂を下り、入学式がある講堂へ角を曲がって歩いて行った。学校の付近に近づいたが、人の気配がない。
 「どうしたとかいな?」と、母はちょっと訝しげに言った。二人は学校の敷地の中に入った。そこには、墨で「昭和三十三年度入学式 式場」と、黒々と踊るような字で記した大きな立て看板があった。二人はここで初めて何かおかしいと気づいた。

 立て看板の横を講堂に向かって二人は黙って急いだ、突然講堂の観音開きの大きな正面扉が開き、女の人が駆け降りてきた。「早く、中へお入りください! もうすぐ終わりますから」と女の人は言った。二人は、考える間も無く正面階段を上り内へ入った。

 講堂の中には、たくさんの坊主頭が整然と並んでいた。在校生が座る長椅子の間を一人で歩いて、前方に設けられた新入生用の長椅子の端に座った。座る間もなく、「校歌斉唱 新入生と在校生 起立!」の声が。ピアノ前奏に続いて在校生全員による校歌斉唱が始まった。

南にそびゆる背振山 気高き姿仰ぎつつ
北に打寄す玄海の 輝く歴史波頭~~♬

 遅刻で動転していた私は、講堂に響き渡る大声量にただただ圧倒されるだけだった。全員着席のあと、在校生退場のアナウンスが響いた。たったそれだけで私の入学式はすべて終わった。大切な思い出になるはずの入学式は、開始時間を間違ったうっかり親子の勘違いで、在校生による校歌斉唱の朗々たる歌声だけを耳に残して終わってしまったのだった。
 こうして私の、中学校生活は始まった。

◆昭和33年 入学式直後の1年3組 生徒と父兄の集合写真(背景は後日焼失する2階建て本棟校舎)

父兄前列の右から8番目が最初の担任高口先生(社会)で兵隊経験者(習志野聯隊に所属)。
男子は皆、真新しい学生帽を大事に手にしています。今時、学生帽見ませんね~。母親の7割は着物姿です。時代を感じますね。

◆1年3組 生徒だけで写ったもの。担任は松本先生(写真中央右 社会)、副担任は岩崎先生(左 英語)

写真の1年3組から福高に進学したのは8名。男子上から2列目・左から6番目:住田章夫君、その右隣り:わたくし関 忠、上から3列目・左端:友杉貴一君、同列右から3番目:本田広一君、上から4列目・左から4人目:和田阜君、女子下から2列目・右から3人目:市丸幸子さん、最下列右端:山崎さん。他の組から進学したのは、深江憲一君、村山隆之君、白水修三君、西尾裕子さん。

明日はテスト

 居間の練炭堀コタツ前のテレビの前で、やむなく教科書とノートを開いている。昭和35年1月17日、中学2年、明日は3学期になって初めてのテスト。

 障子を隔てた土間の炊事場からは、母が晩ご飯の煮炊きをしている音がしていた。今日は日曜日。冬のこの時期は、家の手伝いで農作業をすることもない。しかし昼間は勉強をするでもなく時間を過ごしてしまった。明日のテストが無ければ、教科書とノートを開くことはなかった。

 テレビはもちろん白黒、平幕の大鵬は全勝で勝ち越しを決め、これから横綱栃錦が全勝を守るかどうかであった。優勝も気になるが明日のテストも気になる。半分テレビをにらみつつ、仕方なく鉛筆を動かしていた。

 突然、大相撲実況中、画面に字幕が出た。何かなと目を凝らすと、「本夕方、学芸大付属中学で出火、現在延焼中」の文字が画面に。えーっ、うちの中学ではないか!
「学校が火事や! 火事や!」「かあちゃん、うちの学校が火事や!」母が炊事場から顔を出し、「なんな、学校が火事な、どげんしたっちゃろうか?」

 それ以上の事は我が家では分からなかった。

 7時のニュースローカル版で、学校の本棟校舎が焼け落ちたことが分かった。その日、再び鉛筆を握ることは無かった。

◆翌1月18日の西日本新聞 

拾った雷管の爆発事故とか、足付白黒テレビの広告とか 懐かしいですね。

このニュースの掲載ページすぐ横には、福岡県から北朝鮮に帰還する第5次専用団体列車が新潟港に向け博多駅を出発、朝鮮総連が見送ったとの小さな記事があります。
悲惨な生活が待ち受けているとは誰も思い至らなかった事です。

ボロボロの仮校舎で

 焼けた本棟校舎は2階建てで、職員室、校長室、職員室、一般教室、コンクリート床の理科室、階段状の音楽室その他があったが、全て焼け落ちていた。学校敷地を囲むカラタチの生垣も焼けて無残な姿になっていた。

 我々2年生の教室は別棟になっていたためそのまま残っていた。しかし、このままでは学校としての機能は果たせないので、全員で仮校舎にそっくり移ることになった。

 東西に延びた古い平屋建て校舎の南側には長い廊下が貫き、その廊下の北側に各教室がある。教室には一年を通じて陽が射すことは無く、また窓はなぜか上下開閉方式となっている。渡り廊下から石段を数段上り長い廊下を経て陽が射さない教室へ土足のまま入る。

 二三日後には授業は通常通り始まった。陽が射さない暗い教室の、大人用の机で土足を履いたままでの授業であった。土足のままでの大きな机での授業に、少し大人になったような気がした。

 実験を伴う理科の授業は別棟の古い独立した教室で行われた。音楽は師範学校時代から音楽室としてポツンと離れのようにあった、渡り廊下の途中の古い教室がそのまま使われた。

 焼失前の階段状音楽室にデーンと座っていた、大型モノラル電蓄は、もちろん校舎諸共焼失している。そこで、新鋭のステレオがこの離れの古い音楽室に導入された。

衝撃のメンデルスゾーンとバッハ

 3年に進学したある日の音楽の時間、その日は音楽鑑賞でF先生はLPレコードをステレオにセットした。ステレオからいきなり聴こえたバイオリン。そのメロディーの美しさ、拡がりにドーンと胸を打たれた。それは初めて耳にした曲であった。
 我冒頭の出だしのバイオリンソロでいきなり心をつかまれてしまったのである。中学生の私は なんと素晴らしく美しい曲だろうと感じた。

 以前の大型モノラル電蓄とは比較にならない音の広がりと臨場感、音の繊細さ、美しさ、すべてが異次元の世界をこのステレオ装置は響かせた。F先生は、メンデルスゾーン作曲のバイオリン協奏曲ホ短調だと説明してくれた。

 この日感じた感激を、中学生は忘れることができなかった。バイオリンを弾く人はある程度練習を重ねれば、誰でもこんな風に弾けるのだろうと、その時は楽器を触ったことがまるで無かった中学生は思いこんでしまった。

 また別の日のF先生の授業で、バッハの組曲第2番ロ短調を音楽室で聴かせてもらった。弦楽合奏とフルートソロの合奏曲であるが、その溌溂としたメロディーとハーモニーにまたまた心を奪われてしまった。

 それもこれも、あの離れの古い音楽室に設置された、新しいステレオでの、あの音の広がりと繊細なバイオリンやオーケストラの音にコロッと魅了されたのである。

 もし校舎が焼失するという事がなければ、新しいステレオは存在せず、あんなにも心を奪われることは無かっただろう。今思えば、あのステレオが無ければ、その後高校・大学へと続く私の学生生活は全く違った結果となっていたかも知れない。

前橋汀子さんのこと

 旧師範学校の古臭い校舎での授業にも慣れた3年のある日、帰宅後テレビを見ながら夕飯を食べているとNHKニュースに続き、特別放送があった。なんでも今度、ソ連のレニングラード(現サンクトサンクトペテルブルグ)に17歳の女の子が世界的指導者のもとでバイオリンを勉強するために留学するのだという。

 その人は前年の音楽コンクールで優秀な成績を修めた前橋汀子さん。放送はその出発前のNHKホールでの特別演奏会であった。演奏は森正指揮のNHK交響楽団とバイオリン独奏は前橋汀子と紹介された。

◆少女時代の前橋さん

 曲目はモーツアルトのバイオリン協奏曲第3番、初めて耳にする曲であった。オーケストラ前奏の後に続く伸び伸びとしたバイオリンソロの冒頭のメロディーに心を射貫かれた。そしてバイオリンを弾く前橋さんの、キリっとした顔立ちも忘れられなかった。

 そのときTVで聴いた「モーツアルトのヴァイオリン協奏曲第3番」のYouTube動画を紹介しておきますので、ご興味のある方は下記曲名をクリックして下さい。戻る矢印(←)で戻れます。
モーツアルトのヴァイオリン協奏曲第3番

 そして17歳にして、極寒の未知の土地、レニングラードに単身留学するのは、どんなにか心細いことだろうと思った。九州からも一歩も出たことがない中学生には、別世界の夢のような出来事であった。

◆日本人初の旧ソ連への音楽留学生として、単身横浜港を旅立つ17歳の前橋さん。ナホトカまで船、それからシベリアを横断してレニングラードへ渡った。

 しかし、この頃にはさすがの私にも、コンクールで入賞するくらいの人には並外れた才能と努力が必要であろうことは、頭の中では理解できていた。

 そして、それまで楽器を触ったことさえない少年の心の隅に、音楽に対する深く熱い想いがマグマのように溜まっていったのは事実であった。

まさか

 6年後の1966年12月、「九大フィル 第97回定期演奏会」に、そのキリっとして美しい前橋汀子さんを独奏者に迎え、ベートーベンのバイオリン協奏曲でオーケストラの一員として協演する展開になろうとは、そのとき晩飯をガツガツ食べている坊主頭の15才の中学生には想像すらできないことであった。

前橋汀子さんについて少し補足します。

私たちより2才年長です。すごい美人です。

 幼少よりバイオリンを始め桐朋学園に進み、日本音楽コンクールで特別賞を受賞。中学生から独学でロシア語を学び、17歳で当時ソ連のレニングラード音楽院に留学、ミハイル・ヴァイマンに師事する。帰国後渡米し、ジュリアード音楽院に留学、名伯楽として知られるドロシー・ディレイ教授にも師事。さら渡欧して、スイスのモントルーでヨゼフ・シゲティとナタン・ミルシテインの薫陶を受ける。シゲティ他界後もモントルーで暮らし、スイスを中心に世界を舞台に精力的に活動、日本を代表するヴァイオリニストとして常に第一線で活躍しておられます。

 

 

 

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