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フィリピン ボランティア滞在記 VOL.8

      2018/01/17

 

 

糧なき戦い――見捨てられた守備旅団

 妻の両親は沖縄県出身で、父は陸軍士官学校55期生です。歩兵中隊長でソ満国境警備中の昭和19年に中部太平洋メレヨン島に移動しました。揚陸した補給品は爆撃で多くが失われて追送も来ず、米軍の上陸はないまま守備旅団の8割以上が飢死しました。

 父は生き延びて警察予備隊に入隊し、沖縄返還時に新編の陸上自衛隊臨時第1混成群長として編成地北熊本駐屯地から新設の那覇駐屯地に移駐して郷土の守りに就き、改編された第1混成団長を以て定年退職し生地首里に住まいました。父が倒れた時、私達の長男夫婦も前年から那覇に居住していました。

 

首里の病院に父を見舞う

 私達はマニラから台北経由で直接那覇に帰りました。台北を夕方飛び立った飛行機は後方から夕陽を浴びるので台北と那覇の東西の位置関係を体感しました。

マニラから那覇へは台北で乗り継ぎました。台北空港ターミナルでの妻です。

 

首里の両親宅には、妻の妹達夫婦とその子供達(父の孫達)が続々と駆け付けて来ました。
これは母、私と孫達です。

 日が暮れた那覇に降り、長男の車で首里の両親宅に向かいました。その日は母に会い、翌日病院で父に会いましたが意識ははっきりしませんでした。その後も言葉は交わせず、10月フィリピンに戻る時に「(ボランティアの)初心を忘れるな。」と言われたのが父の最後の言葉になりました。

 病状を確かめた私達は、大筋の内諾は得ていましたが「ボランティア活動を終わらせていただき父の看護に当たる。」と決めました。現地代表とNISVA事務局長にご承認をお願いし、「様子を見てフィリピンに戻り、活動を整理して正式に終了・帰国する。」ということになりました。

 首里に1ケ月余滞在しました。妻は4人姉妹の長女で、妹達夫婦やその子達が続々と来て賑やかでもあり、長男夫婦や次男とも会えましたが、フィリピンの皆さんのことが気にかかっていました。

◆写真左:忙中閑あり。長男夫婦と近くのドライブに行きました。(世界遺産:勝連城址にて)
右上:父が入院中の病院の食堂で、母を囲む妻・妹二人とその子供達です。
右下:首里の両親宅で、妻が母のミシンで父の看護のための物を縫っています。

 年を越し父の病状に注意していましたが、急激な悪化はないだろうという医師の見込みを聞けたので、1月末にフィリピンに戻ることにし関係先に報告しました。購入済みの航空券は搭乗日を変更してもらいEチケットを受信しました。

 

生徒さんたちに別れの挨拶

 1月30日(土)昼那覇を発ち、台北経由でマニラに16時頃着きました。現地代表秘書のレルマさんに空港で出迎えてもらい、成田から戻ったボランティアの方も合流して、CFF孤児院のグローリアさんが運転するワゴンで深夜アラミノスのアパートに帰りました。大家さん夫婦が優しく迎えて下さり大変嬉しく思いました。

フィリピンに戻った翌朝、アラミノスのアパートから眺めた夜明けです。

 

 

 

 翌日からは残り少ないフィリピンでの生活でした。現地代表は日本に出張中でしたが、活動の整理(締めくくり)のことは事前の連絡で承知していました。関係の人達への挨拶と説明・処置でした。先ずは洋裁の生徒さん達です。彼女達との別れが一番つらいことで、事情を話し承知してもらいました。沖縄からのお土産も差し上げましたが、皆さんこの時は余りはしゃぎませんでした。

縫製教室で久し振りに会った洋裁の皆さんです。会えて嬉しくはありましたが、
直ぐに別れねばならないので心からの笑顔ではありませんでした。

 

 後日お別れの昼食会をすることになりました。皆さんには指導した基本的事項をしっかりやるように要望し、組合活動については大事なことを再強調しました。参考になる資料を整理して渡し、活動間のアルバムも作成して資料として残してもらうようにしました。

 それと、私達の寸志10,000ペソを皆さんの基金として寄付しました。組合の相互扶助活動の基礎作りにしてもらおうと思ったのです。電気代の払いに困るなどという姿を何回も垣間見ていたからです。皆さんは大喜びでした。2日ほど後に貸出の方法などの規約に全員が署名した誓約書を見せてもらいました。

 

すべての人に感謝の想いを

 市庁舎には担当部長のネリー氏にご挨拶に行き、縫製組合についての私達の思いを述べました。琉球漆器のお箸・箸箱を差し上げました。またダグーパンに行き、CFFスタッフで終始お世話になったアレンさんと前述のレルマさんにお会いして、お礼を申し上げるとともに私達の気持を話しました。

 最後にスワルのCFF孤児院に行き、一緒に過ごした子供達や職員の皆さんとお別れをしました。子供達へのお菓子を渡し、3,000ペソを寄付しました。近くに住むビリーさんにもご挨拶に行きました。彼は未だ出回らない中を立派なマンゴーを捜して日本への土産にと持って来て下さいました。これらの間にスワル・ダグーパンに居られるNISVAボランティア仲間の方々にご挨拶をしました。

 

別れの挨拶のため訪ねたCFF孤児院からの眺めです。
乾季の晴天でひときわ美しく感じました。

 

当時のCFF孤児院の子供達の名簿です。
多くの子供達が大きくなって巣立って行ったことだろうと思います。

 

つきない思い出――そして涙の別れ

 2月5日(金)の昼食会になりました。妻は残しておいた日本の米でばら寿司を作り持参しました。縫製教室にはご馳走が並び、皆さんから私達二人に特製のエコバックをお土産に頂きました。食事の後もお菓子を食べながら話し続け、皆さんの口からは前年6月以来の思い出が尽きませんでした。互いにとても名残惜しい気持でしたが、皆さんが涙ながらに見送る中を、14:30頃縫製教室を後にしアラミノスに戻りました。

いよいよお別れです。記念写真を撮りました。
この写真は、日本に帰ってから皆さんに出した挨拶状に同封して届けました。

◆写真上:お別れ昼食会のために妻が作った「ばら寿司」です。

 アラミノスのアパートでは、私達に続き入居されていた2名のボランティアの方ともお別れの夕食会をしました。大変心に残るのは大家さんご夫婦のロレンソさんとエイミーさんです。とても誠実で優しい立派なお二人でした。家賃の先払い分なども細かく計算して返しに来られましたが、私達は予期していないことでした。急な帰国の準備をあれこれとお世話して下さいました。おかげで、私達はフィリピンでの最後の一日一日を慌てず充実して過ごすことができました。

 

胸いっぱいのラストウォーキング

 帰国前日の2月6日は、早朝のルカップ岬道ウォーキングもひとしお気持よく歩くことができました。荷物の整理や部屋の片づけもスムーズに終わりました。夕食後早めに就寝して7日02:45頃起きました。03:45頃1階に降りて、大家さんご夫婦に車でバスセンターまで送っていただきました。ロレンソさんとエイミーさんに改めて感謝を述べ色々話しました。手を握ってお別れをしバスに乗り込み、4:25お二人に見送られてマニラへ向け発車しました。

◆写真左:アラミノスでの最後のウォーキンキングで、ルカップ部落の入口(ゲート)そばに立つ妻です。右上:アパートの1階で、大家さん夫婦(ロレンソさん、エイミーさん)と妻です。エイミーさんは孫を抱いています。右下:同じく、私です。右の男の子は近所の子供です。

 途中から前述のアレンさんが乗り込んで来て、マニラ空港まで同行し見送って下さいました。午後のフィリピン航空便で成田に帰り、横浜の自宅に着いたのは24時頃でした。

 アラミノスのアパートを出る時は27℃で、横浜の自宅に入った時5℃でした。その後、活動の報告や身辺の整理をして沖縄に行きました。残念ながら父は4月に亡くなりました。

 

さよならフィリピン――再度の訪問を誓って

 「フィリピンボランティア滞在記」はこの8回をもって終わらせていただきます。私達二人にとっては得難い体験でした。あちらで一緒に過ごした皆さんを訪ねて、もう一度フィリピンに行きたいという願望が私達二人にはあります。それを実現した時には、また報告させていただきたいと思います。

 励ましを頂いた多くの皆さま、現地でお世話になった皆さま、そして背中を押してくださった親友の遠藤敬子さん、ありがとうございました。
 励ましを頂いた多くの方々に改めて感謝の念を覚えますが、妻の高校時代からの親友の遠藤敬子さんのことを述べて締めたいと思います。彼女は横浜の服飾専門学校「岩崎学園」で学び、そこで教師もされました。服飾のキャリアのない妻は、彼女に背中を押して貰い教えに行く自信を持てたのだと思っています。渡航直前にも二人でお宅を訪ね励まされました。フィリピンでの活動間には最新版のスタイルブック数冊を送って下さり、教室の皆さんが奪い合うようにして見ていました。

◆写真左:渡航前敬子さんのお宅を訪ねた時、近くの葉山御用邸裏手の海岸で撮った敬子さんと妻です。
右:同じく私と妻です。

 最後に、寄稿・掲載についてお世話をして頂いた藤本さんと市丸さん及び励ましのメッセージを書いて下さった皆さんに御礼申し上げます。有難うございました。

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