Nederland dreamin' オランダ点描⑤

      2019/11/07

 

 

 

6度のオランダ訪問にかき立てたアムステルダムの魅力

 水の都アムステルダムはどの季節も風情がある。中でも運河の水面に木々の緑と空の青色が映える6~7月が、ベストシーズンだろう。

 初めてアムステルダムを訪れたのは2008年6月下旬。縦横に走る160本以上の運河には1500以上の橋が架かり、橋の手摺には鎖につながれた駐輪の自転車が並ぶ。運河の両側にはレンガ造りの落ち着いた色彩の建物が櫛のように連なる。まるでお伽の国のような風景である。間口の広さで課税された時代があり、どの家も間口が狭く、3~4階建て。滞在を重ねるうちにその魅力にとりつかれ、前後6回オランダを訪れることになる。

◆オランダの首都アムステルダムには、100km 以上にわたって運河がはり巡らされ、1500以上の橋が架かっている。2010年にユネスコの世界遺産に登録された。

 スペイン属領から独立した16世紀に海運が盛んになり、貿易港として、また、17世紀の黄金期には東インド会社の本拠地が置かれ、世界貿易の中心地として盛えた。今も街中には当時の豪商の館などが残っており、黄金時代の面影を残している。世界最初の株式会社「連合オランダ東インド会社」(VOC)を作り上げ、日本にまで進出。200年の間、大海運国として世界に君臨した。
 アムステルダムはアムス川に築かれたダム(堤防)という名のとおり、13世紀に河口近くの平地にダムを造り、人々が住み始めたのが始まり。

◆写真上と下左:運河沿いに建つ旧市街の街並み。隣家と接し間口が狭く奥に長い造りは、間口の広さによって課税された時代の名残。 下右2枚:橋の手すりに鎖でつなぐ駐輪方法は"自転車王国"オランダらしい光景。

 

船を乗りまちがえて大あわて^^;

 北のベニスとも呼ばれる街。ちょっぴり水上生活を味わいたくて、最初の訪問時に選んだ宿は、港に係留された船のホテル。移動できるので何年かおきに場所が変わる。北海運河を渡った対岸の北地区にある。アムステルダム中央駅北側の船着場から、市営の無料渡し船が出ている。北地区には新興住宅街があり、多くの人が通勤、通学に利用する。

 大阪にも安治川や木津川、尻無川などに市営の小さな渡し船が残るが、アムステルダムの渡し船はちょっとしたフェリー並みの大きさ。いくつもの航路があり、たくさんの人とともにたくさんの自転車を運んでいる。

◆船のホテル外観と内部  下右:船のホテル近くに係留されている船

 3日目の朝、市内観光に出かけようとして、うっかり隣り合った埠頭の船に乗ってしまった。すぐに気が付いたが、船は岸壁を離れている。私の焦った様子を見て、何人もの人が声をかけてくる。船長まで操舵室から降りて来て、3ヵ所巡ってまた戻って来るから行き直したらよいと教えてくれる。見慣れない外国人が観光とは縁のない行先の船に乗っているのを見て、助けなければと思ったのであろう。オランダ人はとても親切である。時間は大分無駄になったが、その思いやりに胸が暖かくなる。

 市内観光の出発点アムステルダム中央駅の構内で、日本人に声をかけられた。パスポートと財布を失くした。デン・ハーグにある日本大使館に行きたいので、交通費を貸して欲しいという。感じのいい青年だったが、似た手口の詐欺被害を聞いていたので、断った。

 アムステルダム中央駅は、海の入り江に3つの人工島を造り、8000本以上の杭を打ち込んで、その上に1889年に完成したネオ・ルネサンス様式のレンガ造りの建物。東京駅のモデルになったことで知られる。大ドームの中を列車や人々がせわしげに出入りする。アムステルダムの玄関にふさわしい堂々とした駅。空の玄関口スキポール空港からは普通列車で20分。中央入り口の両側に塔があり、向かって右側が時計、左側は風向計。帆船、風車と、常に風を利用してきたオランダ人にとって、風向きを知ることは時を知るのと同じくらい重要なことだった。

 

アムステルダム駅前から運河クルーズへ

 アムステルダム中央駅を軸に、5重の運河が扇の形に半円を描き、主な見どころは半径1.5kmの中にある。駅前の船着場から運河巡りのクルーズ船が出ている。1時間コースの船に乗る。運河から低い目線で眺めるアムステルダムの街もまた格別。

◆運河クルーズ 1時間の運河めぐりでアムステルダムの街並みを水上から堪能

 決してきれいとは言えない運河で泳ぐ人達がいて驚く。休日にはたくさんの人たちが自家用ボートで、家族や友人達とクルーズを楽しんでいる。運河に係留したボートで暮らす人もたくさんいる。陸上の家よりかなり安く住めるという。観光客からみると優雅な生活のようにも見えるが、地上は深刻な住宅難でやむを得ずということらしい。意外と不便だという。ボートホテルもある。こちらは陸上に比べてかなり高額。

◆網の目状に市内に広がる環状運河は、夏にはボート遊び、冬にはアイススケートが楽しめる市民の憩いの場になっている。上段・下段の左2枚:休日に友人同士でクルーズを楽しむ人々  下段右:運河で泳ぐ女性の姿も・・・

◆岸辺のあちこちに停泊しているボートハウス

 中央駅前の広場から、街を縦横に走るトラムが出ている。アムステルダム名物の一つで、路線も分かり易く、ひっきりなしに出ているので観光には便利である。初めて来た時は地理不案内で、どこに行くときも利用していたが、アムステルダムは狭い街なので、たいていの場所には歩いて行ける。オランダは自転車大国。歩道、自転車道、車道がはっきり別れている。当初は知らずに何度も自転車道に入り込み、危ない思いをした。自転車でもかなりのスピードで走行して来るので、ぶつかれば大怪我をする。日本で車道を歩いてひかれるのと同じで、以後、用心して歩くようにした。自転車道はかなり広く、余裕を持ってすれ違える。狭い道路事情の日本では、望むべくもない。

 中央駅前から南西に700m歩くとダム広場に着く。アムステル川をダムでせき止めることにより発展したアムステルダムのへそと呼ばれる街の中心地。アムステルダムの歴史が始まった場所である。白い尖塔は1956年に造られた第2次大戦の戦没者慰霊塔。

◆ダム広場 左に見えるのが王宮、右が新教会 

◆ダム広場の白い尖塔(第二次大戦の戦没者慰霊塔)

 広場の西側に建っているのが王宮。現在は迎賓館として使われている。1655年市庁舎として建てられ、1808年フランスが侵略した時、ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトが王宮として接収。その後アムステルダム市に返還され、市がオランダの新王家に献上し、現在に至っている。王宮の右側にあるのが、新教会。15世紀に造られ、後期ゴシック様式。歴代の王(女王)の戴冠式が行われている。

 ダム広場から南西に400mほど行くとペギン会修道院がある。女子修道会に属する独身女性のための宿舎として、14世紀に設立され、現在もひとり暮らしの女性が住んでいる。教会の建つ中庭は表通りの喧騒がウソのような静寂に包まれている。
 修道院の南東300mにあるムントの塔。かつて市の城壁の一部で、見張り塔の役目を果たしていた。城壁は17世紀の大火によって焼失し、塔だけが現存する。その後、塔に時計台が取り付けられた。ムントとは貨幣のことで、1672年にフランスが侵略したとき、この塔の中で貨幣を造ったことからこう呼ばれている。塔の1階にはギフトショップがあり、お土産をいくつか求めた。

◆ムントの塔 

◆右上・右下:シンゲルの花市

 塔の南に、運河をはさんでシンゲルの花市がある。運河沿いにびっしりと花屋が並ぶマーケット。四季折々の花々が通りを華やかに彩る。見たこともないような珍しい花や、美しい花、球根などがかなり安い。いくつかの店では盆栽がBONSAIとして売られていて驚く。春先のチューリップシーズンや12月のクリスマスシーズンは賑わいを見せる。

 

過酷な運命の中で命を輝かせた「アンネの日記」

 ダム広場の西側、運河に面して、「アンネの日記」で有名なアンネ・フランクの家がある。たくさんの人が入場待ちの行列を作っている。ドイツ軍がオランダに侵攻して来たのが1940年。フランクフルトから逃れて来ていた14歳のアンネ・フランクと家族、知人の8人が2年間をこの隠れ家で暮らした。
 1944年8月4日、ゲシュタポに発見されたアンネ一家はアウシュビッツ強制収容所に送られ、その後ベルゲン・ベルゼン強制収容所に移送。1945年3月、戦争の終結までわずか数週間というときに、アンネは15歳の短い生涯を閉じた。隠れ家にいた人々のうち、生き延びたのは父オットー・フランク1人だけであった。

◆アンネ一家と友人たち8人が隠れ住んだ建物 アンネは、この隠れ家での生活を克明に日記に書き残している。現在は記念館として公開され、隠れ家の再現、弾圧されたユダヤ人の歴史や、平和記念の展示などが行われている。

 急で狭い階段を3階まで登る。一家が住んでいた裏側の建物に通じる回転式本棚や、アンネが日記を書き続けた屋根裏部屋など、当時を偲ばせるものがそのまま保存されている。みずみずしい感性と悲劇の生涯により「アンネの日記」は今も世界中で読み継がれている。几帳面な字で綴られた日記の原本を見ると熱い思いがこみ上げてくる。建物からは戦争の悲惨さ、狂気が実感として迫ってきて、長くは留まっていられなかった。音声ガイドがあるが、日本語は1カ所のみで、あとはオランダ語と英語。

◆アンネの日記

◆アンネ・フランクの像と

◆アンネ・フランクの家の近くで

 アンネ・フランクの家の隣に西教会がある。1631年建造のプロテスタント教会。教会前の広場の隅にはアンネ・フランクの小さな像が立っている。うっかりすると見落としてしまう。塔は85m。アムステルダム随一の高さを誇る。軟弱な地盤の上に17世紀当時の技術の粋を尽くして建てられた。塔の頂上には15世紀末にこの地を支配していたオーストリアの皇帝、マクシミリアン1世を記念した王冠が輝く。時計の下には大小47個のカリヨンが取り付けられている。アンネ・フランクも聞いていた鐘の音が鳴り響き、市民に時を告げている。塔には案内人付きのツァーがある。かなりの急階段。高層ビルのないアムステルダムの中心地、美しい運河と家並が一望だった。教会の共同墓地にはレンブラントの墓がある。

◆西教会

◆西教会の搭上から見る市内の眺め

 教会近くの道端にハーリングの屋台が出ていた。オランダ名物のニシンの酢漬け。指でシッポをつまんで持ち上げ、頭から頬張って食べる。酢が苦手で、パンに挟んでサンドイッチにしたものを買う。思いの外酸味はなく、その美味しさに驚く。

 街のレストラン、最初のディナーで失敗する。トマトスープとサーモンのパスタを頼んだのだが、そのボリュームが半端でない。2人で1人前とっても多いくらい。大きなボウルに入ったスープだけで満腹となり、山盛りのパスタは半分以上残してしまう。朝、船のホテルのレストランで見たオランダ人の少食ぶりからは思いもよらない量だった。朝、昼少ない分、夜にがっつり食べるということか?

 街の所々には、コロッケの自販機がある。€1~2コインを入れると熱々のコロッケや鶏のフライが出てくる。ちょっと癖のある味で、小腹のすいたときにつまむのによい。

◆ハーリングの屋台

◆コロッケの自販機

 

“光と影の魔術師”――レンブラントの家へ

 ムントの塔から西に230mくらい行くとレンブラント広場がある。名画「夜警」の人物の像が絵と同じ配列で並んでいる。一見の価値がある。近くでは日曜日のみだが、美術品市が開かれる。芸術家が自分の作品を並べて売っている。

◆レンブラント広場で「夜警」の群像に交じってみた

 運河を渡り、北に300mほど進むとレンブラントの家に行き当たる。レンブラントが1639年、33歳の時から、20年後に破産して人に売り渡すまで住んでいた住居兼アトリエ。傑作「夜警」もここで描かれた。内部には17世紀の家具なども置かれ、アトリエでの制作の様子も再現されている。棟続きの新館には、250点を超えるスケッチやエッチング、使っていたエッチング機械などが展示されている。レンブラントのエッチング画家としての一面がうかがえる。

◆レンブラントの家  レンブラントが住んでいた17世紀当時の居室やアトリエなどを再現、260点余りのレンブラントの素描と銅版画なども展示されている。

 

ゴッホにイマジネーションを与えた「マヘレの跳ね橋」

 運河ばかりのアムステルダムの中で、唯一の自然の川アムステル川を南に下った一つ目の白い橋が、マヘレの跳ね橋。アムステルダムに残る2つの木製の跳ね橋の一つ。床も木で、オランダ各地で見かける複葉式のもの。大きな船が通る時、橋の手前の信号が赤になり、遮断機が下りて通行止めとなる。中央を境に左右に橋が上がり、船が通過するとまた元に戻る。ゴッホの「アルルの跳ね橋」を思い起こさせる橋。

◆マヘレの跳ね橋

 計量所は、ダム広場の東500mにある。1488年に市の城門として建てられ、17世紀の初頭から計量所として商品取引に利用された。そのためこの広場はニューマルクト(新市場)と呼ばれる。現在、建物の1階はレストラン。中央駅方面に向かう区画は中華街となっている。

 ここから中央駅に抜ける一帯に「飾り窓」地帯がある。今も、ポルノショップ、セックスミュージアム、ポルノ映画館、ストリップ劇場、そして「飾り窓」がひしめいている。運河に沿った静かな街並みに、下着姿の女性が窓際に並ぶこの地区は、何ともあやしい雰囲気が漂う。金銭的な理由からアジアや中南米出身の女性がここで働いているという。撮影は厳禁。
 オランダでは、2000年10月に「飾り窓」での売春は合法化された。アムステルダムはまた「ゲイ・シティ」としても知られる。

◆飾り窓地帯の遠望

オランダ点描⑥ アムステルダム〈後編〉に続く。

 

 

 

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