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町家からの眺め Vol.3

      2016/10/21

博多町家ふるさと館 館長/長谷川 法世

◆連載エッセイ Vol.3

福岡中学と川上音二郎

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台座の表には、「川上音二郎君之像」という銘板があり、下に金属供出に際して東京府知事(最後の府知事。翌年東京都に改称)の謝辞が刻まれている。裏側には建設時の撰文がある。全文を紹介しよう。

 

川上君諱音次郎號灌水専蔵君之子筑前博多人也以元治元年正月元日生幼而穎悟始學於神袖學校後入福岡中學不卒業而退維時自由民權之論風動一世君慨然求交於天下志士痛論時事目無王侯為官所忌下獄前後経二十八次既而忽有所悟身入梨園創開新劇名聲嘖嘖君更欲研究海外之演劇先航于佛國繼遊歐米二次其演技佛國也大統領讃賞不置賜以文部金賞而在露國亦受皇帝皇后彫紋章金時計之優章英之皇帝亦與皇后共賜観?洵可謂光榮之極俟迺帰来技愈精妙俾我國梨園開一新面目以至于今日焉當世推君為新劇之鼻祖也宜哉君沒於明治四十四年十一月十一日享年四十八今諸同志胥謀鑄造建于高輪泉岳寺屬吾儕記其顛末誼不可辭乃書以志之
大正二年六月 従二位勲一等子爵金子堅太郎
    正三位勲一等子爵栗野慎一郎 同撰
大正三年九月高輪泉岳寺自移之  新派俳優総代
    建  藤沢浅二郎
       高田  實
    設  井伊 蓉峰
       松竹合名社
    者  白井松治郎
       大谷竹次郎
    設計監督
     清水建築工務所

 

福中は”臨時の中学”だった!?

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 「福岡中学」は、変則中学と『福岡県教育百年史』に載っている。臨時の中学ということか。わずかの間、開校されていて、修猷館ができて閉校した。音二郎は明治10年西南戦争の年に、13歳で家出をしたというので、福岡中学に入学したとしても、1年たたずに退学したことになる。もしかすると、撰文の金子・栗野が学歴を上乗せしてくれたのかもしれない。としても、ふたりの子爵が、俳優のために撰文を寄せたことを考えたい。音二郎の業績が大きかったということだ。修猷館の秀才二人が福岡中学中途退学者の撰文を書いたのは傑作だ。

 川上音二郎について興味の湧いた人は、ブログ「長谷川法世の川上音二郎発見伝」、「博多だ、川上音二郎だ!」を読んでほしい。

 また、毎年11月11日には、墓碑のある博多の承天寺で川上音二郎忌大法要を催行しているので、こちらもぜひ。(世話人代表は法世。参加自由、無料)

音二郎と二人の子爵

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 金子は帰国して自由民権運動をやったが、のちに伊藤博文の総理秘書官になった。明治憲法の草案づくりには、博文・井上毅・伊東巳代治・金子の4人のメンバーとして参加、国際法などを担当した。明治27年頃音二郎と貞奴の結婚では、金子が媒酌人をつとめたと伝わる。

 栗野慎一郎は、音二郎が1900年(明治33年)のパリ万博で成功したとき、駐仏日本公使だった。音二郎がいったん帰国して第二次欧州ツアーに出かけるまでの4か月は、音二郎と貞奴は栗野の家に寄宿していたという。栗野夫人が博多生まれという縁がある。川上一座ロシア公演のときには、駐ロ日本公使だった。ちなみに、日露戦争期、ロシアの革命軍に資金や武器援助をしていた明石元二郎も福岡出身。

大阪初の洋式劇場『帝国座』

 銅像建設者に三名の俳優と、松竹の創設者である双子の松・竹兄弟が名をつらねているが、大方の費用は貞奴のはずだ。松竹はあちこちの劇場を買い取って興行界に乗り出したとき、音二郎に近代的経営の方法などを相談したという。設計監督の清水建築工務所はいまの清水建設だろう。
 音二郎は生涯二棟の劇場%e3%81%af%e3%81%9b%e3%81%8c%e3%82%8f%e5%b8%9d%e5%9b%bd%e5%ba%a7%ef%bc%92を建てた。最初は神田三崎町の川上座、あとは大阪の帝国座で、大林組の建築なのだろうか、写真が大林組のHPで公開されている。大掛かりな照明設備を備えたので、電線のいっぱい張られた電信柱(5000Wだったか)が写っている。はじめ、無粋なカメラアングルだと思っていたが、何度も見ているうちに、最新最高の設備を示しているのだと気づいた。
 撰文の「高輪泉岳寺より之を移す」というのは、はじめ泉岳寺に建てたら檀徒がクレームをつけ、谷中に移設したから。なぜ、泉岳寺だったかというと、荒れ果てていた赤穂義士の墓所を、音二郎の寄進で整備したからだ。いまでも、吉良上野介の首洗い井戸の石囲いに「川上音二郎建之」と刻まれている。

 

【書き崩し】
■「入学したとしても」と書いたが、ほんとに入学したのかどうかちょっと疑っている。
■金子・栗野にしても、子爵が撰文を書くのに学歴の低いのは具合が悪かったのではないだろうか。それでも、俳優の銅像に撰文を寄せるとは、それだけ音二郎のやったことがおおきかったからだ。
■銅像を建てるのに、小学校出では体裁が悪い。衆議院に立候補したときも、「役者風情で」などと散々に悪口を書かれたようだし、シェークスピア劇をやっても、「学のないものが」などと劇評に書かれる。確かに、歐米での成功譚『川上音二郎貞奴世界漫遊記』なども語りで出版している。
■だから、博多の最初期の小学校に「袖湊小」と名づけられたのだけれど、多分、撰文原稿が行書体だったので、袖を神の字と見誤ったのだろう。袖の行書体は右側のタテ棒が下にあまり突き抜けないはずだ。

 

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