町屋からの眺め Vol.4 謎の[博多図並賛]

      2017/01/11

 

東の良寛さん 西の仙厓さん

  『博多図並賛』は、「博多図、ならびに賛」と読む。「賛は讃とも書き、画に題して余白に添え書かれた詩・歌・文のこと。画賛ともいう」(広辞苑)。ここでは、博多図に付けて作者が自分で賛を書いている。漢字だけで書かれているけれど、高1の1学期にガムちゃん(本名を忘れた)から習った、五言絶句・七言絶句という漢詩の定形にはなっていない。六言の不定型詩とは言えるだろう。

  『博多図並賛』は、あの仙厓さんの絵と賛だ。仙厓さんは聖福寺(しょうふくじ)の第123世と125世の住職をつとめた禅僧だ。聖福寺は、扶桑最初禅窟(ふそうさいしょのぜんくつ。寺所蔵の後鳥羽院の宸翰を山門の額としている)、つまり日本初の禅寺だ。また、大檀越(だいだんおつ。大スポンサー・施主)は源頼朝という。こういうことは、16回生でもあんまり知らないんだろうな。

難攻不落――福岡城の秘密

 その仙厓さんの作品の謎を書く前に、もうひとつ、みんながあんまり知らない、「」について語らなければならない。
 福岡城址に、下ノ橋御門と潮見櫓が復元されている。古い写真には、堀をわたる木橋が写っているけれど、いまは細い土手道だ。明治になって架け替えの手間を省くために、土手橋*にしたのだろうか。あるいは、木橋は明治5年の筑前竹槍騒動のとき、破壊されたのかもしれない。竹槍騒動は嘉麻郡から発生した米騒動だ。明治の農民一揆としては全国でも早く、規模が大きい。騒動の本は、一冊どこかに持っているのだけれど、なるべく明るいテーマを調べるようにしているから、10年過ぎても読んでいない。町家の取材で、大浜のもと質屋さんを訪ねたことがあるが、柱に竹槍騒動のときにつけられた傷が残っていた。
 傷といえば、梅本龍平君が西日本新聞の東京支社に在勤中、頼んで見学したもとの首相官邸で、2・26事件のときの弾痕や血の跡を見たこともある。

 今回のテーマは別だった。枡形門に話を戻そう。
 明治通りから下ノ橋という土手橋をとおって堀を渡りきると、石垣が四角形に深く凹んでいる。その形から「枡形門」と呼ばれている。そうして、その四角い枡形の突き当りは石垣なのだ。
 各地の城門は、石垣から多少引っ込んではいても、あの「東映城」のように正面を向いていると思うが、福岡城のこの城門は、枡形の左手につくられているのだ。

 だから、攻め寄せる敵は、橋から一直線に大木を突入させて門を突き破る、ということができない。攻めるどころか、三方向の石垣・櫓から矢や鉄砲で攻撃されるという、攻めるのにきわめて難しい構造だ。さすが、軍師官兵衛の築城だけはある。

知られざるもう一つの枡形門

 この枡形門は、いまは福岡城址の下ノ橋御門だけが復元保存されている。しかし、博多と福岡の接続点にも、実はもうひとつの枡形門があったのだ。これを知る人も極めて少ないに違いない。

 那珂川の川下、県立美術館(明治時代は監獄)あたりから明治通りの水上公園あたりまで、福岡側の河岸は、江戸時代には高さ10メートルの石垣が築かれていた。その中央に、博多-福岡の唯一の出入り口として、枡形門が築いてあったのだった。赤煉瓦文化館(もと日本生命九州支店*)のあたり、または、50メーター道路*の電通があったあたりといえば、16回生にはわかりやすいだろうか。そういえば、あのビルの地下には幽霊が出るという話があったな。…テーマに戻ろう。

西南戦争の仮本営がおかれた勝立寺

 あのビルの隣には勝立寺があって、西南戦争の時に、博多から上陸した政府軍は、有栖川宮熾仁親王を総督として仮本営をここにおいた。慶長8年に博多の妙典寺で耶蘇僧イルマンとの宗論で勝った日蓮僧日忠に、黒田長政がほうびとして、耶蘇がいた寺地を与え、宗論で勝って建てたので勝立寺と名づけられた。仮本営を置いたのは、勝利を願ってのことだろう。

勝立寺納骨堂に眠る上田正信君

 もし、そのことは知っていても、この寺が同期のカリ公こと上田正信君の檀那寺で、彼が納骨堂におさまっていることはみんな知るまい。そして誰でも知っている竹中駿介君のサン・ビルはその墓地に隣接しているのだった。故・カリ公は、むりやり安くサン・ビルに入居していたのだが、遊びに行くと、いつも窓の外を見下ろして、「あの墓は俺んがいじぇ。いっつもじいちゃんが見守ってくれとうけん、おれの会社は大丈夫」と誇らしげに話すのが常だった。死んだらじいちゃんの墓に入るのだとも話していたのだが、ご両親より先に他界した時には、お寺は墓地を売却していたため、納骨堂のちいさな所に納められたのだった。こんなことも、竹中君を除いて皆の知らないところだろう。

中島町に架かる二つの橋

 50メーター道路は、唐津街道がもとになっている。唐津街道は、秀吉の時代に小倉と肥前名護屋をむすんだものだが、那珂川に橋は架けられていなかった。以下は『博多郷土史事典』*の説明を下敷きにする。黒田長政が福岡城を築いてから、多々良川に架かっていた長さ120間の名島橋を解体して、那珂川に架け直した。そのとき、まだ完全に陸地化していなかった東中洲の川下を整地して中島町をつくり、その両側に名島橋をふたつに分けて架けた。それが、今の東中島橋と西中島橋のもとになっている。東橋は25間、西橋は45間、橋の幅は3間余りだったという。この橋が、福岡と博多を結ぶ、ただひとつの道だった。

 では、福岡城の南側から攻める敵にはどう対処するか。南側は大半が農地で標高が低い。いつでも水浸しにできるだろう。現在の博多駅が水に浸かったことは記憶に新しいはずだ。もとの博多駅は、博多でもっとも標高の高い地帯にあった。国体道路の祇園町付近の山笠は「岡流」(おかながれ)といったくらいだ。しかし、筑肥線のそば、管弦町(かんげんのちょう)あたりはすぐ水に浸かっていた。薬院、警固あたりも何度も水に浸かっている。糟屋郡の仲原あたりも国道まで水に浸かった。糸島の方も同じだ。福岡平野は平坦なデルタ地帯であり、すぐに水に浸かる豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)なのだった。

戦略上の重要拠点

 中島橋の話だ。橋を分けた理由をふたつ考えてみた。ひとつは、増水時の橋の流失被害の分散。いまひとつは、戦略上の理由だ。箱崎側からの敵をまず博多で防ぐ。石堂橋・西門橋を落としながら防戦し、こらえきれなくなれば博多を捨てて、東、西の中島橋を落としながら那珂川で防ぐ、という戦略だ。
 
 西橋が45間(当時の1間=1.9mで85.5m)と長いのも、福岡側で守るのに適しているだろう。敵が福岡へ攻め込むには、長い橋を渡るか、船を仕立てるかだが、干潮時に砂州であった東中洲は、満潮の限られた時間のほかは、博多側から船で一気に押し寄せることができない。

 そういう戦略上の重要拠点が、西中島橋を渡った那珂川の枡形門なのだった。という、長い前置きのあと、ようやく本題にはいることができる。ふう。

「博多図」に描かれてるのは博多じゃない!

 今回のテーマ、「博多図并びに賛」(原文は博多図並賛)は、聖福寺の仙厓さんの作品だ。それを陶板にして、西中島橋のまん中に設置してある。それも両側の歩道にまったく同じものが据えられている。

 その部分が円弧状に張り出して、モニュメントとして設置してあるのだ。白い御影石でつくった三個の立方体が、50センチくらいのすき間を開けて並べてある(すき間を開けないとホームレスが寝るからかな)。
説明では、かつての石垣のイメージだという。それなら、石垣の石をもってくるのがいいのではと思うのだが。

 橋の改修工事の記念に、西中島橋と枡形門を描いた「博多図并びに賛」を陶板にしたという説明がある。おいおい、待てよ、「博多図並びに賛」とはいうが、博多の絵はないじゃないか。写真を見ればわかるように、描かれているのは枡形門と石垣だ。これは博多図じゃない、福岡図だろう、といってみても、仙厓本人が題名も書いているんだからしかたがない。

 絵の石垣の上には、白壁が築かれている。最初に書いた、下ノ橋の白壁には何故か銃眼がついていないが、この絵には銃眼がしっかり描かれている。そうでなければ、城にならない。銃眼のない城なんて考えられない。

 さて、白壁の他に、櫓門(やぐらもん)も描かれている。これは、不思議な櫓門で、枡の中に造られているように見える。仙厓さんが下書きなしで描いて、門が構図からはみ出したので、仕方なくリアリズムを度外視して、あり得ない場所に書き込んだのかもしれない。うまへた絵の元祖だけはある。それもこの絵の「謎」のひとつだが、「博多図」という画題の謎に比べれば、謎の度合いは小さい小さい。
枡形門は、博多と福岡を分断するもので、何より福岡に造られている。なのに、画題が「博多図」とはどういうことだろうか。絵の中の西中島橋を絵をはみ出して渡っていって中島町に入り、それをてくてく歩いていって、もうひとつの東中島橋を渡ったところに、博多はある。とても「博多図」とよべる絵ではない。これは驚きだ。

博多をディスる?「博奕小人」の文字

 そうして、「賛」を読むと、また、びっくり仰天してしまう。

   博多図並びに賛

  博愛君子もとより多し

  博物豪傑また多し

  故にいう博多と

  あにここに博奕小人の多からんや

     竺洪厓 画並びに題す

 これはほんとに謎としかいいようがない。「博多」の語源としては、土地が広「博」*で物や人が「多」いからだといわれるのが一般的だ。この賛は、ほかでは聞きも読みもしないことが書かれているのだ。署名の「竺洪厓」は仙厓さんの号のひとつで問題はない。しかし、署名の下の「画並題」というのは、表題の「博多図並賛」と重複で、くどいくどいくどい。これはくどい。

 だいたい博多を題材にして、「あにここに博奕小人の多からんや」とはなにごとか。「博奕小人」とはいったいどういうつもりだろうか。博奕は、ばくち・ばくえきと読む。賭博のことだ。褒め言葉ではありえない。小人も「しょうじん」で、博多人をけなしている。

 何年もこの意味を考えていた。そして、あることに思い至った。「小人」を、もし、「しょうにん」と読んだらどうだろう。「しょうにん」は「商人」か。そうすると、ここは「博奕商人」となる。博奕商人とは、一攫千金ばかりを狙って、まともな商売をしない商人、ということか。博多商人は地道な仕事をせずに、いつか運がめぐってくるかもしれないと、あてもない夢を見ている小者か。そういえば、太閤の天下のころは、海外貿易で巨万の富を得ていたのだ。船一隻出してうまく戻ってこられたら、いまでいう百億円の利益*だったんだ。時代さえ変われば、いま一度、と願う博多商人が多かったのではないだろうか。

博多に遺した仙厓の「遺書」?

 それに対して、仙厓さんは「博多図」といいながら、那珂川べりの枡形門を描いた。過ぎてしまった夢を追い求める博多商人たちよ、この枡形門を見よ、これが現実だ。今は太閤の天下ではないぞ。黒田家の世の中だ。いや、鎖国策を強いる徳川将軍家のご時勢なのだ。この門が今の博多を示しているではないか。海外へ雄飛していた博多商人も、いまや驕れる者久しからず、橋ひとつへだてた福岡へ行くにも門番に頭を下げて通らねばならないではないか。この門は、博多を守っているのではない、博多を締め出している門なのだ。敵が責めてきたら博多を見捨てるための門なのだ。

 これは仙厓の博多に対する痛烈な激ではなかろうか。宣言といってもいい。これが書かれたのは仙厓何歳の頃だろう。仙厓は寛政元年(1789)39歳で聖福寺123世の住職となり、文化8年(1811)、60歳で引退して、詩、書画三昧にふけって、奇行逸話で大衆を教化したと、前掲『博多郷土史事典』に書かれている。そして、法灯を譲った弟子が亡くなってしまったので、87歳でもう一度125世住職となり、天保8年(1837)88歳で遷化した。博多にも、福岡にも厳しい眼差しの『博多図並賛』は、125世となってすぐ他界する直前の作ではないだろうか。仙厓の博多への遺書のように思えてならない。

 にしても、博多をけなしているこの作品を、何の目的で中島橋に陶板として設置しているのだろうか。これも大いなる謎だ。実は、10年ほど前に、新宮松比古先輩に頼んで、陶板を別のものに変えてもらえないかと、所管部署に問い合わせてもらった。陶板はまだある。

 今になって、思いついたのだが、九州大学所蔵の三奈木黒田家の『福岡城下町・博多・近隣古図*』というのがあり、ちゃんと石垣と枡形門が描かれている。こちらを使うのはどうだろうか。

 

【脚注】
*土手橋・・・土手橋は辞書にない。土橋は木橋に土をかぶせたものだし、名前を知らないので土手橋と仮称する。
* 赤煉瓦文化館(もと日本生命九州支店)…枡形門のそば、博多に向いて建つ。背景に福岡城という権威を背負い、顧客は博多商人という、経営戦略上の立地。建物の裏側の素っ気なさは、福岡部の対象顧客を全く考慮していなかったことを示している。これが、町家からの眺めだな。明治42年竣工。設計は東京駅と同じ肥前出身辰野金吾博士。
*50メーター道路・・・現・昭和通りは、唐津街道(小倉-肥前名護屋)を移動拡幅したもの。街道は、カイドウと読むのが正しい。博多では、ガイドウと言うが辞書にはない。
*『博多郷土史事典』・・・井上精三著:葦書房S62刊。
*土地広博・・・天正15年(1587)の太閤町割りで、博多は十町四方(一町=109mと秀吉が決めた)に定められた。そのどこが広いのかも謎だ。博多の地名の初見は、『続日本記』の天平宝字3年(759年ナコク)の記事に、「博多大津」としてでている。博多とは博多湾の沿岸全域を示す、と考えておかしくはない。
つまみ読みしかしていないが、服部英雄著『蒙古襲来』山川出版社H26刊は、古文書に「博多の鳥飼」という記述があると記す。
*百億円の利益・・・前掲『蒙古襲来』
*『福岡城下町・博多・近隣古図』・・・学術上の仮称。地図の実物に名称は書かれていない。文化9年(1812)に家老職の三奈木黒田家が藩公用の地図をもとにしてつくったもの。

 

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