佐藤光男:君がバーティカル人生 new

   

住田章夫

【はじめに】

■2022年10月26日朝、佐藤君から電話があった。が、彼からではなく、彼の携帯からであった。「昨日、父が亡くなりまして・・・」。思いも掛けない内容に、一瞬、言葉を失った。次女良子さんの話では、昨夕、台所に倒れている処を発見されたが、既に息絶えていたとか。診断の結果「動脈破裂」だったらしい。
大阪は豊能郡。東京からは手が出ない。すぐさま大阪在住の同期生、白水秀俊君に連絡した。彼は彼女より事情を聴き、同じ同期の井上孝雄・宮本義海両君に連絡を取って、豊能の自宅に駆け付けた。

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 佐藤君とは、福岡高校同期16回生である。彼とはクラスは2年の時のみ、一緒だったのに何か気が合い、社会に出ても進む道が全く違っていたのに、後年、偶然にも仕事上で出会う。それについては後で触れる。
■或る日、東京寿禄会幹事竹田範弘君から唐突な依頼が来た。彼は同窓会幹事として、ホームページに新企画“その時、君は?”を打ち出し、その皮切りに書かされた私の『青春と原潜』が幸いにも好評を博していたことで、「実は佐藤光男君に、是非今度は住田君のあとを受けて何か書いてくれないか、と頼んだのだが、とんでもない!と断られちゃった。何とか親しい君から上手く説得してくれないか」。そこで、どうかな?と思いながらも、ダイヤルした。
「編集なら手伝ってやるから、少しでも書いてみろよ。誰もやったことのない折角の人生体験を、黙って墓場に持って行くこたぁないだろう。考えてもみろよ。1200mも地下掘った奴なんて、同窓生にゃ居らんぜ」。

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■不承不承、同意した彼に先ず「経歴書」を送らせ、二人でストーリーの展開を打ち合わせた。
彼は福岡教育大学で「地質学」を専攻し、「岩石採掘鉱業」に進み、私は九州大学卒業後、三菱電機に入社して、当時はまだ知られていない新型空調機を担当。つまり私は「ヒートポンプ」で«大気の熱»を拾い、彼は«地中の熱»を拾う「温泉掘り」の道を選んだ。私は世界に広く«商脈»を探り、彼は地中深く«水脈»を探った。

恰好よく言うと、私は地球上を«ホリゾンタル(水平)»に、彼は«バーチカル(垂直)»に突き進んだのである。

『佐藤光男:職務経歴書』
*昭和39年(1964)~43年。福岡教育大学 地質学科。
*昭和43年(1968)~46年。福岡教育大学 文部教官。助手として勤務。
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*昭和46年(1971)~49年。住友石炭鉱業(株)。技術部 技師補佐。
*昭和49年(1974)~平成15年。特殊プラント工業(株)技術課長。・・・小西酒造 汚水処理プラント設計監理。
 昭和62年(1987)取締役 技術部長・・・北大阪ネオポリス下水処理場。岸和田HP給湯冷房システム設計監理。
 平成元年(1989) 取締役 常務。・・・中期経営計画。大阪大学・島根大学との共同研究。
 平成3年(1991) 取締役 専務。・・・温泉工事監理。阪神大震災被害調査。ネパール研究員論文指導。
 平成13年(2001)相談役。・・・データ編纂。
 平成15年(2003) 倒産。
*平成15年(2003)~16年。常石造船グループ(株)TRD社・・・環境技術センター長。
*平成17年(2005)~22年。(有)眞英。室長・・・温泉開発、汚水処理。

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*平成22年(2010) 退職。豊能にて野草採取。

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■【第1章:潟洲からの巣立ち】・・・昭和36(1961)~39年(3年間)福岡高校

■さて我々は憧れの福岡高校へ入学した。前身福岡中学は、大正6年修猷館中学の寄宿舎を校舎としてスタート。
その生い立ちのしこりか、今や全国高校ラグビーの最多出場校として勇名を馳せている福高としては、いつまでも兄貴分修猷館の風下に立つのを嫌った。その気分は生徒より「教師陣」の方に滓のように溜まっていたようだ。
「よかか!お前らちゃ、修猷に負けたらちゃ~らんぞ」。入学したその日からかまされた。最初は何のことやろ? とポカンとしていたら、何の事はない。“九大の合格者数”らしい。
「負けたら、負け校が一升瓶ばぶら下げて挨拶に行かにゃならんとぞ!」。どうも去年は負けてか、荒れていた。
「なんも!俺たちのせいじゃなかとに・・・」と聞き流していたが、その翌年、修猷館が一升瓶をぶら下げて石門を潜ってきた。何の事はない。浪人の数が多い方が勝ったのである。このルールなら連敗することぁなかろうに。

佐藤君と私、二人ともバスケットボールが大好きで、部活に入らずして、それこそ3年間毎日、昼休みには体育館で汗を流した。そういう仲間が平井君はじめ5~6人居た。唯一の腕試しが「クラスマッチ」。それこそ部員そこのけの獅子奮迅シュート。今のスマホがあれば、その勇姿を孫たちに見せて上げられるのだが。

■【第2章:石部金吉との出会い】・・・昭和39(1964)~43~46年(7年間) 福岡教育大学

■どうして福教大を選び、そしてまた助手として更に3年間残ってまで“石部金吉”になろうとしたのか・・・ それを知りたく、ずっと原稿を待っていたのに・・・。
■私の自伝『青春と原潜』の中で「九大物理学研究室に米軍ジェット機墜落」の思い出がある。墜落後の数週間、九大では法学部長自らが大学封鎖でピケを張り、立て籠ったのだが、福教大でも学生たちは呼応し、激しく市街デモを掛けた。そこで目を付けたのが何と「地質学研究室」の保存標本。ゲバ学生たちが深夜、忍び込んでは石を持ち去るのである。「叩き売って活動資金にでもするんか?」「違う。機動隊に投げよっとたい!」。それを佐藤 君らは必死で食い止めた。“大学の自治を守る闘争”に対し、彼らは身体を張って“学問の自治を守った”。当時 はいろんな処で、いろんな攻防戦が展開されたのである。

■【第3章:輝く黒ダイヤ】・・・昭和46(1971)~49年(3年間) 住友石炭鉱業

■【第4章:石部金吉から水島清兵衛へ】・・・昭和49(1974)~平成15年(39年間)特殊プラント工業

■或る時、水処理を扱う駿河進氏と出会った。それを機に、これまでの鉱石を探る”石部金吉”から、彼は温泉掘りの”水島清兵衛”へと変身したのである。
写真は「温泉掘削現場」そして「駿河社長と女子社員たち」。

■【第5章:温泉水脈の発見】・・・同上 技術部長/常務時代

■大阪平野の下は、何処でも1000m掘れば温泉が噴き出す。しかし、温泉は25℃以上と言うが、70℃は欲しい。
25℃未満の鉱泉も含め、それを「ヒートポンプで昇温する」とで温浴施設の需要を一挙に立ち上げることが出 来る。それが私の仕事であった。そこで技術パートナーの「Q研技術士事務所」の杉村先生を佐藤君に紹介した。

 杉村允生氏。87歳。高知生まれ。三菱電機冷熱の草分けとして永く貢献されていたが、ヒートポンプチラーと の出会いから「大気から、また水からも熱を取る」ビジネスに目覚め、設計事務所を興した。その普及活動を共 にしていた私は活動母体「関西HP給湯研究会」の略称『Q研』を事務所名としてプレゼントした。
 先生の最大の功績は、HP給湯を「業務用蓄熱調整契約」に適用させたこと。これは電力需要拡大と共に全国的 に電力供給量が夏場ピークすれすれまで圧迫されたことで、夜間10時間の電気料金を関電では6割も値引きし て「電力負荷平準化」を目指した大胆な制度であったが、当初は「蓄熱空調」だけを対象としたものを「HP給湯」 「HP床暖」の用途にも適用拡大すべく関電を巻き込んで、通産省の認可を取得した。画期的な出来事であった。 それから30年。杉村先生の設計提案はチラ-20HP相当で累計4000台を超す。我が国においてこれ程の「業蓄 によるHP給湯」実績を有する個人事務所はない。佐藤君は多くの物件に先生の力を借りて売上を伸ばした。

港区「龍宮温泉」

■佐藤君の「地質学」はまさに仕事で開花した。大阪情報誌によると、大阪市が俄かに「湯の町」に変身した。
ブームの火付けは東住吉区「ふれあい温泉」の掘削成功。45℃出湯の「Na/Ca泉」で入湯客が3倍増。平成3年までの温泉源35本の内、「特殊プラント工業」が28本と、何と9割もの圧倒的なシェアを占めた。

■恒例の特プラ社員旅行は、この年は張り込んでタイのプーッケット島。バンコク駐在中の私を訪ねてくれた。
300℃をキープした花崗岩天然温泉が100ヵ所ある話に花を咲かせ、夜はタイ古式マッサージで身体を解した。

■【第6章:地層の歪み大地震】・・・平成7年(1995)1月17日5:46 同上 専務時代

■【第7章:落日に思う】・・・平成15年(2003)3月倒産 同上 相談役時代

■【第8章:村上水軍のロマン】・・・平成15~16年(2年間) 常石造船TRD社センター長

■【第9章:六甲・生駒を結ぶ湯の華】・・・平成17~22年(5年間) (株)眞英 室長

■【終章:豊能の野草と共に】・・・平成22年(2010)~令和4年(2022)      現在に至る。

石ばかりでなく、野の草花の名前を君は即座に答えてくれた。

住田・白水・佐藤・宮本

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«編集後記-1»

訃報を聞いた時、一瞬茫然とした。単元割りも打ち合わせ、挿入写真も揃え、後は君の原稿を待つだけだったのに完成見ずに他界した君の無念さを想う。ゆっくりでいいから彼岸から原稿を送ってくれ。通夜前日、在阪代表の白水・井上・宮本君が弔問し、君の前で起立して「福高校歌」を斉唱したと聞き、思わず涙した。合掌。住田拝。

 

«編集後記-2»:住田君の「故佐藤光男君追悼の記」について 

「その時、君は?」企画発起人代表 竹田範弘

 令和元年7月コラムの広場に「その時、君は?」と題したシリーズを企画し、応募を呼び掛けました。今まで多くの方々が寄稿して下さっていますが、故佐藤光男君にも親しい住田君から応募を勧めてもらっていました。
 お二人の連携により、故佐藤君の青春時代の内容までは纏まっていたのですが、急逝されました。悲しむと同時に残念に思う住田君はこれを追悼の記「君がバーティカル人生」として整理・記述されました。
 そこで、私は想い出と友情を共有したいと思い、故佐藤君の「その時、君は?」として寄稿していただくようお願いしました。佐藤君。安らかにお休みください。

  合掌。

 

 

 

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