《メナムに吹く風》アナザーストーリー 君はクン・チャナイを知っているか? 《下》new

   

 

 
プミポン国王在位50年記念式典

 タイでは外国資本の投資を奨励する『投資委員会(BOI:Boad Of Investment)』があり、入関税の減免、外国人労働許可証枠の授与という特典が用意されている。だから現地販社は輸入品を購入する場合、BOI物件は何としてでも獲りたい。なぜならば高関税のタイで、香港並み価格でもって市場販売できるからである。

 1996年2月中旬、パタヤビーチで10日間の『BOIフェア』が開催された。いわば《タイ産業博》である。この年は国王在位50周年を記念しており、いっそうの賑わいをみせた。プミポン国王は213年続くチャクリー王朝のラマ9世として、‘46年に王位に就き、以来在位50年は世界で最も永く、タイ国民の絶大なる尊敬を一身に集めている。

左:プミポン国王在位50年記念切手、右:映画「王様と私」はシャム(タイ王国の以前の国名)王と英国から来た家庭教師の物語である。

 その栄えある開会式。ロケットの打ち上げが見られるということで会場中央広場には山のような人だかり。ましてや今日は"天覧打ち上げ"である。まだ内之浦さえ行ったことのない石田は、まさかタイでロケット打ち上げを見ようとは思ってもみなかった。

 「こんな群集の間近でやって、大丈夫なんやろか?」

 広場の中央には、それほど大きくないロケットらしきものが白いシーツに覆われて、そしてロケットに沿うように立ち上げられた大型クレーン車が配置され、発射を待っている。

 さて刻限となり、おもむろに国王は立ち上がり、リボンに飾られたボタン台の前で居ずまいを正して、大きなスイッチを手の平で押した。途端、白いシーツがサーッと落ちたと同時に、白煙がドーッと噴射した。が、TVでみるような火花が出ない。「レレレッ!」なんとロケットの先端に白い象のぬいぐるみがしがみ付いているではないか。と、ロケットは静かに音も無く、クレーンで垂直に吊り上げられて行った。何とまあこんな子供じみた、ディズニーランドでももっと迫力ある演出しようものを、それを国王の前で、いや陛下その人にやらせるなんて…。観衆は拍手と歓声だが、招待席の外国企業代表者は声も無く、ただ呆然と見上げた。

 考えれば、軍拡競争も、宇宙開発競争も無く、当然、余計な疑心暗鬼に駆られることもなく、国王中心にこのように平和に式典を楽しむことが出来る国があっても良いのではと、素直に感動する石田であった。

 この式典出席者の人選で菱美電機はひと月程、右往左往した。というのは代表者資格が現役社長もしくは経験者と通達されていたからである。現役の北岡社長は病み上がりの状態、生き残りの経験者は老齢のヨボヨボで人選は揉めに揉めた。結局、タイ国政府には「適任者不在につき伊原専務でご認許頂きたい」と丁重に申し出た。

 打ち上げ式が無事終了すると、招待企業が1社ずつ読み上げられ、各社長が前に進み出て、紙包みを乗せた「三宝」をうやうやしく捧げて国王に差し出す。一包み500万円のご祝儀である。陛下は礼を言うではなく、頷くでもなく、只、ひょいと摘まんではテーブルの上に置いた篭の中に放り込んだ。たったこれだけの所作のために、あれだけ人選について日本側と適不適論争を戦わしたのかと、駐アジア事務所富永所長はひとり天を仰いだ。

 「これだったら、俺が出たって判りゃしない」。

「謁見の間」に放置された社長たち

 しかし事件はこの後、起こった。夕刻になり18:00から30分間、日本企業の社長一人ひとりと謁見が許され、500万円で1分間、国王とのお話が出来るというのである。実はそういう予定であったのだが、だだっ広い謁見の間に通された約20社の日本を代表する企業の社長さん達は、何と起立したまま1時間、待たされたのである。それも19:00過ぎて、たまたま外務大臣が部屋の前を通りかかったことで知ることとなった。

 「(何をされているのですか?)」と声を掛けたから、大騒ぎ。エエーッと、外務大臣は飛び上がって晩餐会場に駆け込んだ。宴も酣、国王陛下は爪楊枝でチッチッとやっていたかどうかは知らないが、要するに、進行役の産業大臣は1億円を頂いたら、後のことはコロッと忘れたらしい。陛下には何の罪もない。畏れ多くもご自身、走って謁見の間に駆けつけられた。

 大臣たちも晩餐会場の主賓席に20名もの空席があれば気が付きそうなものであるが、そこがタイらしいと言えば言えるのだが、でも日本の社長連中も連中で、政府関係者に訊ねてみる御仁は誰も居なかったのか? 会社じゃこんな時は直ぐに「一体、どうなっとるんだね、君~い」と、怒鳴り捲くるご老人たちも《王様と私》で観た煌びやかな貴賓室に入れば、借りた猫のようになるのか。

 因みに、喰いっぱくれた晩餐代は一人8万円の先払いであった。

スリン象祭り

 象使いを乗せた巨象がバンコクの目抜き通りをノッシノッシと練り歩く姿は、タイ風物詩のひとつである。

 「〈クン・チャナイ。ありゃ何だい?〉」街角で市民が小銭を払って、象の腹の下をくぐっている。

 「〈あれは 「サド・クロ」 と言って厄除けなんですよ。一回くぐって20TB(¥80)〉」
「〈へ~ぇ〉」 石田は人垣の前に出て、カメラを構えた。と、象使いの青年が手の平を出した。
 「〈クン・イシダ。写真撮るのも20TBですよ〉」
 「〈あっ、そう〉」

 これは 農業に行き詰まったスリン県などの農民が家畜の象を連れてバンコクに出稼ぎに出てきた風景なのであるが、最近、象の乗り入れには当該区役所への届け出が必要となり、違反者に対しては500TB(\2000)の罰金が通達された。その背景にはどうも渋滞問題、動物虐待問題が絡んでいるらしい。特に海外の動物保護団体が炎天下、熱く灼けたコンクリート道路を象が歩かされる姿に虐待であると告発してきたことがきっかけとなったようである。

 「ハトを食う奴等に口出しする資格があるものか。農民の生活保証も考えずに告発するなんて無責任な話だよ」 象使いに同情しながら、石田は一度はスリンに在るという「象の村」に行ってみたいと思った。

 そして11月。明日からは年に一度の「象祭り」。バスツァーのちらしを見ると、1泊2日コースで 7100TB(\28000)。11月18日(土)、19日(日)の2日間,いずれも8:00~12:00華やかなショーが繰り広げられるという。1泊で行きたいところであったが、石田としては日曜日はお客との約束で、ゴルフに付き合わねばならず、日帰りで行くしかない。

 「〈クン・チャナイ。スリンまで日帰り出来るかい?〉」                   「〈マイペンライ(心配ありません)。片道5時間ですが、私は北はチェンマイ、南はプーケットまで日帰りしたことがありますので、お伴は大丈夫ですよ〉」

 朝5:00出発して丁度9:30現地に到着した。既に祭典は始まっていた。大きな原っぱの両サイドにはスタンドが組まれ、群集も1万人以上集まっていた。この日だけは国中に出稼ぎに出ていた象使いたちが全員戻ってくる。当日の広場には100頭以上の象が揃っていた。

 まずはスワイ族が象狩りの時に行なう“バカム”の儀式。黄色い袈裟の坊さんたちを乗せた得度行列〝ヘ・ナーク”などの伝統習俗が続いた後、1頭の象vs100人の綱引き大会。人間の方は入れ替わり立ち替わり挑戦するも、僅か1頭の老象に敵わない。

 次に、「象の100m走」。号砲とともに一斉に走り出すその迫力たるや凄まじい。地響きもろとも砂塵を蹴立てて走り抜ける様は、これがあのゆったり身体を揺らしている同じ生き物なのかと思わせる。

 そしてクライマックスはビッグ・イベント、今や語り草となっているアユタヤ王朝ソンタム大王軍 8000人と2万人のビルマ軍の騎象合戦絵巻の再現である。行列の先頭には赤、青、黄色の色彩鮮やかな旗指物や飾り物の軍勢の後、頭に飾り布を纏い、体にも衣装を被せられた巨象が、背中の籠状の座椅子に4人の高官を乗せている。

 兵士たちは各隊ごとに尖った甲冑を被り、色とりどりの詰襟の軍服を纏い、細い帯を締め、膝までの股引きを穿いている。背中に戦士を乗せた象の周囲には8人の兵士を従え、4本の足に2名ずつ付いている。象の皮膚は固く、弓矢や銃弾は撥ね返すが、付け根や下腹部は弱点なので、そこを守るためらしい。象使いは背中の籠の中ではなく、頭の上に跨って乗り、左右の足で耳朶の付け根を叩き、前進後退・右折左折を自在に操縦する。

 『銅鑼が打ち鳴らされ、笛や太鼓の音で象の群れは木柵を目がけて走り出した。木柵の向こうの草原に散開したビルマの軍勢が地面に膝をつき、肩に担いだ鉄砲を乱射して迎える。驚いたのは象の走る速さである。のっしのっしと悠揚せまらぬ足取りで歩く象が、頭を前に傾け、鼻を高く空に掲げて馬のように疾走する。ど、どどど・・・と大地が鳴る。百頭の象は苦もなく木柵を踏み潰して、ビルマの軍勢の中に躍り込んだ。ビルマ勢は象の走る道を避け、四散して周辺から襲撃してくる。草原に両軍が散開して合戦が始まった。象の背中の篭に乗った兵士達は、長い槍を振りかざして地上の敵と渡りあっている。

 四本の足の周りを守る八人の兵が、襲ってくる敵を刀、槍で追い払う。象は足をとめると、ゆったりと鼻を上下させ、小さな人間達の争いに無関心に草を食んだりしている。ちょこまかと動き回っているのは人間ばかりであった。

 よく観察するとビルマ兵とシャム兵は戦っているというより、一方が攻め込んでくると、一方はさっと逃げる。逃げた方が人数を増やして態勢を立て直し、攻撃に転じる。追いつ追われつで激突することが無いのである。

「ビルマもシャムも熱心な仏教の国じゃ。兵士らは皆、信心深いので殺生を好まぬ。だからできるだけ血を流すまいとする。見ろ、ビルマ勢はもう退きはじめたぞ」

 白石一郎著『風雲児』の一節である。なんとも山田長政はこの異国の地で、日本人傭兵隊長としてかくの如き戦いの中を生き抜いて来たのか,石田はたった一人で来た日本人観客として、暫し往時を偲ぶのであった。

大洪水で養殖池のワニが逃げ出した!

 漁業局の調べでは現在、タイ国内にはナコンサワン、アントーン、パトンタニ、アユタヤ各県を中心に約110箇所のワニ養殖場がある。タイにおける最大のワニ園は「ファーム・チョラケー」と言って、バンコク市内から僅か40分の場所に在り、なんと3万頭のワニが年齢別に大小の池に分けられ、養殖されている。全土における飼育数は推定100万頭と言われている。

 そういうタイに、95年10月中旬、12年振りとも言われる大洪水が襲った。毎年6~9月はモンスーン期に入り、雨の多い日が続くが、この年の8月、9月の降雨量は日本の比ではなく、死者440名、被害総額4億ドル(400億円)となった。

 この国は上流と下流の水位差が小さく、一旦溢れた水は流れ下る場所が無い為、何か月も滞留してしまう。遂にチャオプラヤ河の水位が過去200年の観測史上、最高の「海抜2.3m」を記録した。バンコク平均標高が1.8mなのでそれを50cmも超える大洪水となったわけである。街は当然、水浸し。中華街など旧市街地は膝まで浸かり、車が浮き出した。折角のワット・プラケオ(エメラルド寺院)をはじめとする古寺巡りも、海外のツアー客には遠くの高台から眺めるだけとなった。しかし被害は川下に留まらなかった。市内に至る水門が全て閉鎖されてしまったことにより、郊外の水位が更に増した。

 最も深刻な話は、この騒ぎの中で養殖池のワニが逃げ出したというから堪らない。それも100頭や200頭ではない。新聞では1000頭以上と書かれているが、多分2万~3万頭は逃げたと言われている。なぜならば「ファーム・チョラケー」のように頑丈堅牢なるワニ園ならばフェンスも池囲いもしっかりしているだろうが、郊外の零細な養殖池ではそうはいかない。ついに、路地を数匹這っていたとか、川で洗濯や行水をしていた人たちが川底に引き込まれたとかの記事が現れ始め、10月末、冠水状態にあるナコンサワン市内のホテルで事件が起きた。

 或る朝、チェックアウトに降りてきた二階の外国女性客が、ロビーが水浸しであることに驚き、階段の途中で立ち止まり、水面を見下ろした。その途端、水面から体長2m のワニがガバッと口を開いて現れたから大仰天。後ろに卒倒したから良かったものの、前に倒れていたら、その金髪女性はワニの朝食となっていたのである。

 何とか水も引いた11月半ば。2ヶ月振りに、さあ久し振りにやるかと、ムズムズしていた腕を擦りながら、ホームコースのロイヤルジェムスでプレーを始めた富永所長は3番ホール、池の脇の深いラフに入れてしまった。

 「身体も鈍ったか。はなっからアンプレイヤブルじゃ仕方ねえや」と呟きながら葦を搔き分けた。奥の方に、泥に半分埋まったボールが見える。そして手を伸ばしたそのとき、草むらから何かがこちらを見ている。長い顔に一瞬、「黒犬か?」と思った。そこでグッと睨み返すとバッと、後ろを向いたその途端、鼻の先を長い尻尾の先端が横切ったのである。所長は腰を抜かし、這って出てきた。

「よく喰いつかれなかったですね」
「俺の眼力に怖れをなしたんだろ」
「いや、富さんと睨めっこじゃ、さしもの人喰いワニも吹き出したんじゃない?」

 高杉副所長が割って入ってきたが、顔は笑っておらず、誰からともなく皆、短いアイアンに持ち替えて素振りもせず、あたふた刻んでは、池を離れ始めたのである。とにかく無事故で何よりであった。

 そして時は経ち、石田の帰国が迫ってきた或る日、石田はチャナイ運転手に聞いた。
「〈クン・チャナイ。君にもいろんな処に連れてって貰ったけど、タイでまだ食ってないご馳走って何だっけ?〉」
「〈そうですね。コブラ料理とワニ料理ですかね。〉」

 聞けばコブラの店は国道沿いに数軒ある。とぐろを巻き、鎌首を持ち上げている看板が目印らしい。石田はそれを聞くまであれは「スネーク・ショー」かと思っていた。

 「〈気持ち悪いから、ワニのステーキにしよう〉」

 郊外のワニ園内にあるレストランに車を走らせて、ワニ見物も兼ね200バーツ(¥800)払い、入園した。見ると1000、いや2000頭は群れて居る。が、ジッとして動かない。木の実をぶつけてみると,眼がピクッと開く。石田は怖いもの見たさに20バーツ(¥80)で餌の鶏肉を放り込んでみると、バタバタバタッと数匹のワニたちが奪い合うその光景に、慌てて後ずさりした。

そしてレストランに入り、やおらメニューを取り上げると、ワニ料理には「品切れ」のシールが貼られていた。つまり大洪水の為、ワニが一挙に少なくなり、値がつり上がったことで、高値の香港、台湾への輸出用に回され、自国内では当分、有り付けないことが判明し、最後の試食チャンスを逃した。

 「〈シアダイ(残念!)〉」

最大ワニ園 「ファーム・チョラケー」 30,000頭

 

 1995年8月10日(木)。待ちに待った「空調ギャラリー」のオープンである。トラキット紙の記者を迎えたのが2月であったから、約束通り「僅か半年後」である。石田はその晴れの舞台では《W社の事業指針とそれを支援する菱美電機の施策》をはっきりと具体的に、業界に、そして銀行筋に示そうと期していたので、病気療養中のパイサン社長にも「元気なお姿で、ご一緒に記者会見を」と申し出ていた。(図らずも、これが彼の最後の公式行事ともなったのだが)

 そして菱美本社に対しても、これからタイでやろうとすることに日本サイドからも積極的に支援して頂くべく、式典には冷熱事業部長半田文男の参列を要請した。

 W社本社ロビー。9:30には業界関係者、マスメディアも続々と集まり、100名を越した。そして「9:59」、厳かにテープカットが執り行われた。パイサン社長、半田事業部長を挟むように、両脇に副社長の石田、高杉駐アジア副所長が立ち、ジャスミンが束ねられた花輪テープに4人は鋏を入れた。何故、テープカットが「10:00」ではなく「9:59」なのか? それは西洋では『7』、中国そして日本では『8』、に対し、タイでは『9』がラッキーナンバーなのである。

 「10:59」、お坊さんも縁起上『9』人が祭壇上に並び、読経が始まった。来場の日本人たちは好奇の目でじっと見詰めている。そして「お布施」が始まると皆、真剣に一番手のパイサン社長が袈裟の反物を献納する所作を見逃すまいと固唾を呑み、そして皆、続けてぎこちなく真似た。それが終わるとお坊さんの一人が手水鉢を脇に抱え、献納者の一人一人にいきなり水を掛け始めたので、日本人は皆、吃驚。

(そうだ、タイに来たんだよな) 石田には改めてそういう感慨が湧いた。そして昼食。2階の社員レストランが仕切られて、パーティー会場に早変わりしている。

 「石やん、いいとこに来たね」

 事業部長の半田は国内販売の責任者であったが入社以来、ともに冷熱ビジネス一本で来た仲で、石田には何くれと目を掛けていた。バブルが崩壊した後の日本の冷熱事業は海外との絡み抜きには立ち行かないという日頃の思いもあって、石田への支援は自分の職責でもあるとの決意でもあった。

「ミスター半田。石田君をよく派遣してくれました。早い、やることがとにかく早い。このショールームも彼が来なかったら出来ていなかったし、私じゃ思いもつきませんでした」

 記者会見を前に、パイサン社長は感慨深くこれまでを振り返り、半田に言った。

「W社は父の代に出来ましたが、菱美電機との関係は私からです。当初エレベータからと思っていたのですが、空調との連携の成功例を香港に見たものですから、御社の浜田氏の力をお借りし、同時にスタートさせました。それが今では躯体以外はビル丸ごと請け負う《ワンストップ・コントラクター》となり、それは正解でした。しかし、パートナーの菱美さんはタテ割の事業部制で動いているので、自部門に関係ない事業にはなかなか理解が得られず、いまだに苦労しています」」

 この最後の台詞が、銀行筋が《菱美電機の支援する姿が見えない》と指摘する部分である。つまり、W社事業の構成比30%を持つトップの昇降機事業部は全てが菱美製品なので、「菱美電機昇降機事業部」としてもその事業支援は惜しまない。しかし残りの60%の他事業分野、それも訳の判らない工事を伴う事業責任など、とんでもない!と、現地生産会社のテコ入れ多忙を理由に社長代行の派遣を拒否。

 結局、構成比二番手20%の空調事業に関与する「菱美電機冷熱事業部」にお鉢が回ったものの、現実には菱美エアコンの売上比はその3割弱。つまりW社全体からすると僅か5%の事業部から社長代行が送り込まれたのであった。菱美の石田からすると、「5%の事業関与」が「100%の事業責任」の立場をとらされているのである。

 しかし設備工事あっての〝冷熱事業”との認識を持つ二人には《ワンストップ・コントラクター》はよく理解できる概念であった。

「半田さん。今、W社にとっての急務は日本からの投資に伴う日系施主物件受注なんですが、この会社には日本人エンジニアが居ないため、日系ゼネコンからは引き合いさえ貰えていない現状です。私の在任中にその基盤を作っておきたいのですが」

石田は古巣の冷熱事業部長に訴えた。(この翌春、半田は助っ人細野博之を派遣した)。二人のやりとりを聞きながら、パイサン社長としては漸く設備ビジネスを真正面に見据える仲間に出会えた、という満足げな顔をしていた。

 13:00 記者会見が始まった。W社、菱美それぞれの社旗をバックに、パイサン社長と石田が座り、それを結ぶキャンペーン・ロゴマーク「新たなるW社の躍進」の《New W-ing》を最上段に掲げた。

 「W社は総合設備ゼネコンとして《ワンストップ・コントラクター》を目指してきましたが、これからは更に菱美と組んで強固な地歩を築きたい」。パイサン社長は罹病の噂を吹き飛ばすかのように、力強い口調で宣言した。

 それを受けて、「そのために菱美電機は全面的に経営支援すべく〝New W-ing゛の名の下に販売・技術・購買・財務等、九項目の体質改善を図るとともに、本日ご紹介した新しいビル空調システム《ビル用マルチエアコン》の市場導入をW社のエンジニアリング力で果たす所存です」

 石田はそう言い切ると、フラッシュの下、立ち上がってパイサン社長と固い握手をした。

高杉駐アジア副室長/半田事業部長/パイサン社長/石田副社長

石田副社長/パイサン社長

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