君はシリーズ第四弾 君は原爆をどう語り継ぐか。
核兵器の非人道性を語り継ぎ、核廃絶の必要性を唱えてきた日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が、12月10日ノーベル平和賞を受賞した。フリドネス委員長「被爆者の目撃証言に耳を傾け、心を開いて欲しい」の挨拶の後、代表者、田中熙巳氏はこう演説した。
「私たちは1956年協議会結成以降、①戦争の被害は国民が受忍すべしとの政府見解には真っ向反対 ②核兵器は非人道的殺戮兵器であり、人類とは共存できない、廃絶すべきと主張してきました。(中略)
私は13歳の時、爆心地から3キロの自宅で被爆。爆撃機の爆音が聞こえるや否や、突然、真っ白な光とともに強烈な衝撃波を受け、気が付いた時は大きなガラス戸の下敷きになっていました。3日後、丘に登り、街を見下ろすと見渡す限り、焼き尽くされた廃墟で、東洋一を誇った浦上天主堂も崩壊。道筋は遺体だらけ、生き残っている人も救援もなく放置され、自分自身も茫然自失でした。(中略)
1発の原子爆弾で広島約14万人、長崎約7万人、合計21万人もの命があっと言う間に奪われ、今年3月時点で原爆手帳を持つ生き残り被爆者も僅か10万6千人。その平均年齢も85歳。存命中に核の廃絶を見届けることが出来るか、実体験者として語り継ぐ人も居なくなるかもしれません…
◆左:スピーチをする田中熙巳さん 右上:「日本被団協」が2024年度ノーベル平和賞を受賞
右下:ノルウェーの首都オスロで行われた授賞式で…左から田中熙巳さん、箕牧智之さん、田中重光さん
《被団協『あの日の証言』より》:一瞬にして倒壊した家屋の下敷になって焼死した母の姿が、今でも眼底に焼きついている。大きな梁の隙間から覗き見た母は顔中血だらけで 「柱をのけてくれ」と言った。 直ぐに火が回ってきたため、別れの言葉も交わせず私は逃げてしまったが、後の方で「般若心経」を唱える母の声が今でもはっきり聞こえる。(当時16歳男子)
昭和20年8月9日11:02。私住田章夫は長崎市内中川の親戚、川原金作宅に居た。正確に言うと「胎内」に居た。母芳栄はその前の年、中支戦線から5年の応召満期で帰国した父と結婚し、父の新しい任務先大村連隊の近くに住むべく長崎は中川町の母方実家、川原家に居候していた。その日は穏やかに差し込む陽射しの中で、初めて生まれくる赤子の重みを感じながら、静かに肌着を縫っていた。
突如、「ピカッ!」。 閃光を見上げるその眼にビビビツと振動するガラス戸が映る。不気味な響きに思わず我が身を壁側に寄せたその途端、「ドーン」という大音響と共に、全てのガラスが吹き飛んだ。当初、米軍は目標地を「横浜・京都・広島・小倉」を候補に挙げていたが、新型爆弾の威力を確認すべく、今まで空襲の少ない、そして唯一、連合国捕虜収容所の無い広島を第1目標とした。そして第2目標と定めた小倉は当日上空に雲が掛っていたと言われているが、前日の製鉄所所在地、八幡大空襲の火災煙が視界を遮っていたらしい。
それだけの事情で、次の目標である三菱造船所を擁する長崎に切換え、澄み切った青空から悪魔「ファットマン」を投下した。市内松山町上空500mで爆弾炸裂。死者74,000名。一瞬の殺戮であった。中川町は爆心地から僅か3.7km。平地ならば焼け爛れる距離。だが爆心地と中川町の間にある「金毘羅山」が盾となってくれたお蔭で、母とお腹の児は生き延びた。私は白地部分「西山地区」の枠外下部「下西山」にあった川原別宅にて胎内被爆した。
◆1945年8月9日11:02 生まれ故郷「長崎 香焼島」より撮影された原爆投下写真
母の弟博は当時、長崎港内川南工業「香焼造船所」で働いていた。チャッカと呼ばれる焼玉エンジン船で港から20分。その島での光景を自著『思い出の記』に纏め、「原爆投下図」とともに残した。
それから1週間。近在の男たちは不眠不休で焼け焦げた死体の山に挑み、焼却を繰り返す。叔父は後年、山の頂から見た光景を水彩画に仕上げ、被災の無残さを子供たちに言って聞かせるのであった。叔父は言った。「ものすご大きな風船玉の正体が最初、解らんやったけど、よう観たら膨れあがった馬やったとよ」。そして小さく呟く。「でも、どげんしても人間の死体だけは描けんかった」。
長崎市内に「ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission原爆傷害調査委員会)」という大きな建物があり、原爆病院と呼ばれていた。それが単なる「放射線影響の検査機関」であったことをつい最近知った。
原爆投下後、1週間ほど死体運びに従事していた叔父は、或る日、米軍からの呼び出しを受け、治療も何もなく、「人体被爆データの検体」にされた。
「NHKスペシャル:原爆初動調査 隠された真実」を観て吃驚した。自然界の100倍以上の放射線が計測されたにも拘わらず、「《人体への影響は微小》と報告せよ」との指示がなされたらしい。国際世論に対する虚飾であったのである。
10Km以内の被爆者には2名以上の証人が居れば「原爆手帳」が交付される。当初広島・長崎で37万人の交付者も、75年後の2020年では僅か14万人(内、長崎は4万人)。今や平均年齢84歳。既に6割の23万人がこの世を去り、あの日、即死した21万人(広島14万人、長崎7万人)を加えると、「44万人の尊い命」を爆撃機「エノラ・ゲイ」はボタン一つで奪ったのである。エノラ・ゲイとは機長の母親名らしいが、彼女はどう思ったであろうか。
「皆さん方、いつの日か被害者になるかも。いや加害者になっても不思議ではないのです」。と、田中熙巳さんのスピーチは締め括られた。
これは遠くで起きた昔の出来事ではない。世界には今尚、1万2千発以上の核弾頭があり、4千発がスタンバイしているという危機的な状況下、ウクライナやガザでの戦争は続き、後ろに居る大国は平和への責任を頬被りしている。
プーチンは核兵器を脅しに使い,核使用の基準を緩和する大統領令に署名。米国では核の効用拡大に前向きであった、トランプが来年1月には再び大統領に就く。
2017年に122か国の賛同を得て制定された「核兵器禁止条約」に、米国・ロシア・中国・英国・仏国・インド・パキスタン・北朝鮮・イスラエルの9か国は離脱、そしてこの日本は、自国の安全を米国の核兵器の傘に入る道を取っている。ましてや、この禁止条約会議へオブザーバー参加することさえ避ける姿勢には何をか言わんやである。本来ならば唯一の被爆国の我が日本が議長になるべきであろう。被爆者平均年齢も85歳、私もあと残すところ「7年の命」。〈最年少の生き残り被爆者〉として、死ぬまで唱えたい。《核兵器は人類と共存できない》と。
- 完 -
左:ノーベル平和賞受賞に合わせて渡欧した「高校生平和大使」 バトンを次世代に託そう。右:原爆で死んだ弟を背に焼き場に並ぶ少年
■資料編

















