JALパイロット回顧録 いつからか銀翼に恋してnew

   

 

 

Prologue――初の国産ジェット旅客機、空へ。

 昨2015年の11月11日、国産初の小型ジェット旅客機MRJ(Mitsubishi Regional Jet)が名古屋飛行場から飛び立ちました。戦後の長い空白を乗り越えてYS-11が初飛行して以来、国産旅客機としては実に53年ぶりの出来事でした。

 1962年当時、国際航空ではDC8、B707、CV880といったジェット旅客機がすでに就航していましたが、短距離離着陸性能に優れたターボプロップ旅客機の誕生は日本の空に希望の火を灯しました。

目に焼き付けた「銀翼に日の丸」

 東京オリンピック前夜、私たちが高校時代の出来事です。そのころ、稀に福岡空港に進入する飛行機が福高上空を飛ぶことがあったのを覚えていますか。
 現在では、福岡空港滑走路の南北両端に計器進入着陸装置が設置されていますからこのようなことは殆どありませんが、ある日、体育の授業中に昭和天皇ご搭乗の日本航空CV880ジェット機が福高の真上を飛行したことがあります。物心ついたころから見る飛行機といえば板付基地に飛来する星のマークの米軍機ばかりでしたから、銀翼に描かれた日の丸の赤さは強烈で、今でも鮮明に覚えています。

 子供のころから、パイロットになり空をと飛びたい夢を持っていましたが、それもいつしか薄れ、剣道にのめり込んだ高校、学生時代でした。大学4年の夏、剣道の親善試合で台湾を訪れることになり、那覇から台北まで乗った飛行機が日本航空のCV880ジェット機。初めての飛行経験は、ふんわりとした感じでしたがすっかり空の魅力にはまってしまいました。

運命の糸に導かれてパイロットの道へ

 学生時代も残すところ数か月となった1967年暮れ、新聞に掲載された「日本航空操縦士訓練生募集」の広報が目に留まりました。全くの偶然です。応募要項を熟読すると、身体要件を含め自分も資格を満たしていることがわかり受験を決意し応募。当時は裸眼視力1.0以上(現在は矯正視力1.0以上)が必須条件で試験場に眼鏡の学生は皆無、珍しい光景でした。

 試験項目は多岐に亘り、小型訓練機での飛行試験結果も適正ありと判定され合格。1968年5月、操縦士訓練生として日本航空に入社、パイロット人生が始まりました。

 

 

東日本大震災で失われた思い出の地

 1968年5月5日、仙台空港近くの「日本航空乗員基礎訓練生宿舎」に移動。訓練生宿舎は岩沼町相の釜集落の近くにあり、広い松林の中にぽつんと立っていました。(この地域は哀しいことに、東日本大震災の大津波で跡形もなくなっています。)

 宿舎は2名1室、簡易ベッドと作りつけの机と本棚、洋服箪笥が備え付けられた8畳ほどの広さで、A大学航空部出身のT君が同室。彼とは生涯の友となりましたが、残念ながら59歳の若さで病死。奥様は元KBCのアナウンサーでした。

日航の日本人パイロット第一期生として

 5月6日の朝、郭公の鳴く松林を通り抜け、牛ガエルがブーブー鳴く田圃のあぜ道を15分ほど歩き、簡素なバラック建ての「日本航空乗員基礎訓練所」に出頭。

 旧陸士出身で太平洋戦争中は隼戦闘機を操縦、南方で活躍した経歴の猛者である所長の訓示を受ける。いわく「まもなく太平洋はアメリカのパンナム、ノースウエストが大型ジェットを就航させ大量輸送が始まるが日航もこれに対抗していかなければならない。喫緊の課題は日本人パイロットの早期養成であり、自社で養成を始めることになった。君たちはその第一期生となる。君たちの双肩に日航の未来がかかっている。全国から集めた優秀な君たちに頑張って貰いたい。」と檄を飛ばされ、気を引き締めたのを覚えています。

◆隼戦闘機  

2カ月間で航空学の基礎を学ぶ

  同期生は19名、仙台での訓練目的は操縦士として必要な基礎学科(航空工学、空中航法及び通信、航空気象、航空法規、英語、航空管制方式、航空機操縦法)を2カ月で履修しアメリカでの飛行訓練に備えることで、ぎっしりと詰まった中身の濃いスケジュールでした。

 とりわけ、文系出身の身には英語など一部を除き馴染みのないものばかり。航空工学は流体力学(空気力学)、機械工学、電気工学等からなり、高校時代の物理を思い出しながらの学習。

  空中航法は全く新しい分野で、自分の現在位置を把握し目的地点に行く進路を決定し、到着予想時刻を算出する作業で興味深いものでした。飛行機は風の全量を受け影響される(流される)ので幾何学の素養が役に立ちます。また航空は多くの点で船をベースとしており距離はマイル、速度はノットを用います。(ちなみに、1マイル(海里)は緯度1分で1,852メートル、1ノットは1時間に1マイル進む速度)。

 国際電信信号モールス符号の傍受訓練もありました。これは航空無線標識を識別するために必須で予科練出身の航法教官に鍛えられたものです。

 蛇足ながら遭難信号SOSは・・・ --- ・・・ 、無線電話ではMAYDAY、 MAYDAY 、MAYDAYと音声発信することとなっています。

 仙台での初期訓練は2カ月続き修了、7月からは東京へ移動、羽田での英語特訓が始まり、毎日がアメリカ人教官による英会話漬けの2カ月で、英語で寝言を言う者も現れました。

 

 

アメリカでの飛行訓練がスタート

  1968年9月2日、同期生19名と日航DC8型機でアメリカへ。経由地のホノルルで入国審査を受けたのち再び太平洋を越えて、西海岸のロサンゼルスに着陸、北米大陸に第一歩を記しました。そこからは、PSAのB727型機に乗り換えカリフォルニア南部のサンディエゴに移動、空港からフリーウエイを50分ほど南下し、メキシコ国境からほど近い目的地のブラウンフィールド飛行場へ。広漠とした荒野のなかに2400mの滑走路を持つ元海軍の飛行場は訓練には好条件の場所でした。PSA エアライン訓練センターでの飛行訓練生活の始まりです。

 私たちは飛行場内にある2階建てバラックで荷をほどきました。そこにはドイツ、ルフトハンザ航空の訓練所も隣接しており、食事はその施設を利用するということで献立はもっぱらドイツ料理。ジュース、ミルク、コーヒーは飲み放題、一週間ほどすると汗の匂いもミルク臭くなって来ました。

無我夢中のFirst flight

  訓練は到着した次の日から、いきなり180馬力の単発機パイパーチェロキーに乗せられ始まりました。パイパー社の飛行機にはアメリカインディアン部族の名がついていて、アパッチ、アズテック、コマンチなども有りました。

 教官は私より少し年上のボルテッツ氏。言われる通りにエンジンをかけタクシング(地上走行)、滑走路に入るやいきなりテークオフロール(離陸滑走)、単発機なので機はプロペラのジャイロ効果で左斜めに走りだす。

 教官の「ライトラダ―!ライトラダ―!」の声で右ラダ―ペダル(方向舵)を踏み込むと少しずつ滑走路の中心に戻りはじめたので、そのまま中心線上を保って加速、ローテーション速度(引き起こし速度)に達した時にゆっくりと操縦輪を引くと機は地上を離れ舞い上がりました。

 自分自身の操縦による人生初の浮揚です。そして引き続き指示されるまま訓練空域に飛んで空中操作の慣熟飛行、1時間の初飛行は無我夢中で終わりました。

三つの舵を操って

 さて、ここでちょっと飛行機操縦のお話しです。
 飛行機には昇降舵(エレベーター)、補助翼(エルロン)、方向舵(ラダー)の基本三舵がついており、その舵面を動かすことによって機体をコントロールしています。

 操縦輪(コントロールホイール)を前後に動かすと尾翼にある昇降舵が上下し機体は上下に姿勢が変化、車のように左右に回すと主翼左右に取付けられた補助翼が動き機体が左右に傾き旋回を始めます。左右の足でペダルを前後に踏むと垂直尾翼後方の方向舵が動き、横方向に機首を変化させたり、機体の横滑りを制御することができます。

 またラダーペダルは地上では前輪を動かし地上滑走中の方向制御にも使用します。あとはエンジンの出力を調整し水平線や地平線を参考にして姿勢を制御するだけです。単純で簡単、「自転車に乗れれば誰でも飛ばせる。」と言う人もいましたが、現実はそうでもありませんでした。

軍港都市サンディエゴ

 渡米して訓練を開始後はじめての土曜日、訓練所のマイクロバスでサンディエゴの街に繰り出しました。サンディエゴは気候温暖な大都会で、今では多くのアメリカ人が老後を過ごしたい人気の地になっています。
 当時は海軍太平洋艦隊の軍港都市として知られていました。産業はコンベヤー航空機会社、その他軍事産業があるくらいの地方都市で、日本の横浜市が姉妹都市でした。

 時はベトナム戦争が泥沼化し始めたころ、ダウンタウンは徴兵された水兵さんがやたらと多く早々に退散、観光スポットの一つ、バルボアパークに移動しました。ここは広大な森の公園で、多くの美術館、博物館そして世界有数の動物園もあり、東京の上野公園の大型版といったところです。

翼よ!あれが巴里の灯だ

 私たちは公園の森をしばらく散策、お目当てのサンディエゴ航空博物館にたどり着きました。館内には数多くの飛行機が展示されていましたが、その中心に1927年5月、25歳の若き飛行士、チャールズ・リンドバーグが大西洋単独無着陸横断飛行に使用した単発単葉機「スピリット オブ セントルイス号」が吊り下げられていました。

◆リンドバーグと「スピリット オブ セントルイス号」

 もっとも、これは映画の撮影に使用された3機のレプリカのうちの1機で、実物はワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館に展示されています。では、どうしてレプリカがこの博物館の主展示になったのか・・・答えは実物がサンディエゴにあった「ライアン飛行機会社」で製作されていたからでした。

 小学校6年生の夏(1957年)、ジェームス・スチュワート扮するリンドバーグの映画『翼よ、あれが巴里の灯だ』を家庭教師の西南大生と中洲の映画館で鑑賞、ニューヨーク・ロングアイランドを飛び立ち、幾多の困難を乗り越え大西洋を横断、たった一人で33時間29分飛行してパリのル・ブルジェ飛行場に着陸、大群衆に迎えられた感動のラストシーンをよく覚えています。

 大空へのあこがれを膨らませた思い出の飛行機、『The Spirit of St. Louis』に出会えた喜びに浸りました。

 

 

ニクソンVSハンフリーの大統領選挙

 アメリカの大統領選挙は予想を覆しトランプが選出されましたが、私がアメリカのサンディエゴで飛行訓練をスタートした1968年も大統領選挙の年で、共和党のニクソンだ、民主党のハンフリーだと大騒ぎしていたのが思い出されます。

米国連邦航空局(FAA)ライセンス取得のために

 サンディエゴでの訓練目的は、約8ヶ月で航空会社の副操縦士として必要なFAA(米国連邦航空局)の国家試験を受け事業用操縦士陸上単発、双発飛行機免許(自動車の2種免許に相当)と雲中飛行が可能となる計器飛行証明の資格を取得することでした。※勿論、日本の免許も必要ですが。

◆訓練センター(ブラウン飛行場)周辺地図 

◆現在のブラウン空港

 国家試験はまず筆記試験に合格し、所定の飛行訓練を受けたのち実技試験に合格することでライセンスが発給されます。筆記試験は70点を取ればよいのですが、概して日本人は高得点を得るべく頑張るようで100点を取った人もいました。アメリカ人には余分な努力をしているようにみえ、理解できないようでした。

◆FAAのパイロットライセンス/TAKASHI SHIMOEDA

不測の事態を見すえた訓練

 訓練は平日の毎日、土日は原則休みでクラスを午前飛行訓練、午後座学、午前座学、午後飛行訓練の二組に分け実施されました。座学は自習が基本で当時はレコードプレーヤーの音声とスクリーンに映し出されるスライドを見ての自習で、疑問点や質問があれば座学教官に教えを乞う方式でした。科目の大よそは仙台の地上教育で習得済みであったので質問はもっぱらFAR(連邦航空規則)の英文解釈、アメリカ大陸の航空気象についてであったと思います。

 飛行訓練の内容は失速(Stall)からの回復操作、急旋回(Steep turn)、低速飛行(Slow flight)等の空中操作(Air work)、エンジン停止に伴う模擬不時着訓練(Forced landing)、離着陸訓練(Touch & Go Training)などで、12時間ほど飛行した時点で単独飛行(Solo flight)の能力が身についているか見極めのチェックがあり、合格すれば晴れて単独飛行が許されます。

生涯忘れない、ふわり!初の単独飛行

 飛行訓練を始めてから20日目、初めての単独飛行はカリフォルニアの青い空のもと、エンジン音も軽やかに滑走路から舞い上がり、飛行場の場周経路を飛行して無事着陸。空中でただ一人、誰にも頼れない緊張と興奮の中にも解放感に浸った、パイロットとして生涯忘れることのない出来事でした。

 

 飛行課程は、引き続きひと月ほど教官同乗での空中操作訓練、単独での飛行、サンディエゴ近郊の小型機用飛行場に出向いての離着陸訓練をも積み重ねて、次のステップである野外飛行訓練 (Cross country flight)に進みます。

 

 

いよいよ野外飛行訓練(Cross country flight)がスタート

 飛行訓練を重ね、どうにか安全に飛行機を飛ばすことができるようになると、次のステップである野外飛行訓練(Cross country flight)が始まります。目的地を定め、二地点間を局地飛行訓練で身に付けた操縦技術を駆使して飛行する航空輸送の基となる飛行で、自動車でドライブするようなものです。
 初めての野外飛行は教官同乗で実施されますが、最初の寄港地はロスアンゼルス東部、砂漠の中にある避寒地で有名なパームスプリングスでした。

飛行計画書を作成

 目的地が決まると、まず気象情報を集めて雲の影響を受けない有視界飛行が実施可能かを判断したのち、有視界航空地図を広げて基地から目的地の間に数個の変針点となる地点を選び、各々を直線で結んでコース方位、区間距離を測るとともに、コース周辺の山や障害物の高さをチェックして安全で無理のない飛行高度を選定、飛行計画書を作成してゆきます。

◆有視界航空地図

 巡航高度は衝突予防の観点から、1000ft.(300m)毎に南北の線を境に東行きは奇数、西行きは偶数高度とし、有視界飛行方式(Visual flight rule )の場合は更に+500ft.の高度を飛行するようになっています。
 この飛行では、山や障害物の高さなどを総合的に考慮して、東行区間を7500ft.西行区間を6500ft.として上空の予想風、温度をもとに保持すべき磁針路(機首方位)、区間飛行時間、消費燃料を求め飛行計画書を完成させました。小型機は通常、主翼の中にある燃料タンクを満タンにしますので飛行可能時間はおおよそ5時間となります。

 

◆航法計算盤とプロッター  

飛行場の視認が遅れドキッ!

 機体の飛行前点検を終えるといざ出発、離陸時間をメモし、目視で航法発動点に定めた物標である飛行場そばの貯水池に向かい、そこから予定の磁針路、高度、速度(概ね1分で3.5㎞飛行、ジェット旅客機の場合は約15㎞)を保持して次の変針点を目指します。
 飛行中は空中衝突を避けるよう常に外部見張りを行いながら、地図上の飛行経路と地上物標(道、線路、川など)を比べて予定通り飛行しているのか、はたまた風に流されコースを外れていないかチェックし自分の位置を見失わないように気を配りながら、変針点上空を正しく通過して目的飛行場を目指します。

 目的地が近づくと、予め計画した地点から降下を開始し飛行場を探しますが、生憎、山の陰になって視認が遅れ、予定より高い高度で飛行場の上空に来てしまい、少々慌ててしまいましたが、飛行場管制塔の許可を得て進入経路を調整し、目的地に無事到着しました。

パームスプリングスでコーヒーブレイク

 パームスプリングスは砂漠の中のオアシス、駐機場で燃料を補給中、コーヒーショップでひと休み。トロイドナフューの歌が聞こえてきそうな、華やかな雰囲気漂うパラダイスのようなところでした。
 束の間のひと時が過ぎ、燃料が満タンになると次の寄港地に向けて離陸、今度は荒漠とした大地を東に飛び、ブライスという小さな町に向かいます。

「ロストポジション」を想定した訓練も

 途中、雲に覆われて自分の位置を見失った(Lost position)という想定で、外部を見えなくするフードをかぶり計器のみでしばらく飛行したのちに、それまで飛んできた磁針路と飛行時間、航空地図から位置を割り出す作業や、エンジントラブルで不時着する訓練、舗装のない不整地で離着陸する課目をこなしブライス飛行場に着陸。FAAのサービスステーションでサンディエゴまでの気象情報をチェック、問題ないことを確認して出発、飛行計画通りコロラド川に沿って南下したのちアリゾナ州ユマで西に変針、メキシコ国境沿いに飛行を続け基地出発から約4時間後にブラウンフィールド飛行場に帰投、単独での野外飛行も問題なしとの認定を得ることが出来ました。

初飛行から114時間で単発機免許を取得

 単発機課程中、単独での野外飛行を、北はスタインベックの小説「エデンの東」の舞台になったサリナス、モントレー、東はアリゾナ州西部までの範囲で計画し、カリフォルニアの空を飛びまわる楽しさを味わうとともに、引き続き高難度の空中操作訓練、夜間の離着陸訓練も積み重ね、初飛行から114時間で第一段階の単発飛行機免許を取得、後半の双発機課程、計器飛行課程へと進みます。

 

 

パイパー・アズテックで片肺飛行訓練

 前回は単発飛行機免許を取得したところまででしたが、続いて双発以上のエンジンを装着した飛行機を操縦するための多発飛行機課程に進み、双発250馬力のパイパー・アズテックで、主に片方のエンジンが故障しても安全、的確に飛行できる技術を身に着ける訓練をしました。

 双発機は離陸直後のエンジントラブルが一番クリティカルで、故障したエンジンを誤認したり、対応操作を誤ったりすると機体がひっくり返って墜落に至る事もあるため、それはもう真剣に演練を重ねました。
 ちなみに、すべてのエンジンが故障してしまった場合は、もはやこれまで。飛び続けることが不可能なので、最適滑空速度を保ちグライディングしながら不時着を試みることになります。

雲の中を計器のみで航行

 多発飛行機課程に合格すると、基礎訓練最後の計器飛行課程に進みます。この課程は、外部の物標、目視による機外の情報に頼ることなく飛行機の姿勢、高度、および針路の測定を計器のみに依存して行い雲の中でも安全に飛行できる能力を身に着けるためのもの。航空交通管制の承認を受けて管制官と交信しながら、地上の無線電波(現在はGPSと機上の航法コンピューターの組み合わせで飛行する航空路が主流となってきている。)を受信し、定められた航空路を計器のみによって航行したのちに目的地空港の滑走路ごとに定められた高度まで計器進入、滑走路を視認して着陸する技能を証明する計器飛行免許を得ることが目的で、全天候下で飛行する航空輸送のパイロットには必須の資格です。

グランドキャニオンを眼下に卒業飛行

 1969年4月、多発飛行機課程、計器飛行課程を修了、副操縦士として最低限必要なアメリカでの飛行機操縦免許をすべて取得。卒業飛行ではアリゾナ州北部に広がる峡谷、世界遺産のグランドキャニオン国立公園にある飛行場を往復しました。

◆グランドキャニオンは、隆起と浸食のドラマが生み出した大自然の奇跡。

 グランドキャニオンは今から7000万年前のカイバブ・アップリフトと呼ばれる地殻変動により隆起し、約4000万年前頃からコロラド川による浸食が始まり、約200万年前に現在のような峡谷になったと言われており、壮大な景色は想像を絶するものでした。

◆高度1万メートル上空の旅客機から見たグランドキャニオン

 公園入口から3km程に位置する標高2014mのグランドキャニオン飛行場は当時、田舎のひっそりとした飛行場で、立ち寄った売店の女の子からは

「生まれて初めて、日本人に会った!」「香港から来たの?」

 などと言われる始末。なんとか日本と香港の違いを説明するも、解ってくれたのか定かでありません。

 アメリカでの飛行訓練から帰国後の5月6日、丸の内の本社で松尾静磨社長から本採用の辞令を受け、再び仙台の基礎訓練所に移動しました。

 

 

夢のジェット機――ボーイング727

 1969年10月14日、ビーチクラフト機での大型旅客機対応飛行訓練、地上訓練をすべて完了し仙台乗員基礎訓練所を卒業、東京に移動し大型実用機の訓練に進みました。

 我がクラスに与えられた機種はボーイング727型機、日本の国内線ジェット機として航空三社(日本航空、全日空、日本国内航空)で統一導入した3つのエンジンを後部に配する短距離路線用の高性能機種で、橋幸夫、吉永小百合のデュエットで歌謡曲「そこは青い空だった」でも歌われていた傑作機でした。

 私たちは3人目のパイロット(Second Officer)として航空機関士の資格を取る訓練に入り、座学、整備工場での整備実習、シミュレーター訓練、アメリカワシントン州モーゼスレーク(現在はMRJの試験飛行基地でもある)での実機訓練を受けたのち国内線で教官同乗の路線訓練に入りました。

訓練中に聞いた「よど号」ハイジャック事件

 訓練生として国内路線を飛行中の1970年3月31日、羽田発福岡行きの愛称「よど号」(B727)が日本赤軍にハイジャックされる事件が起きました。

◆ハイジャックされた「よど号」

 これは日本で初めてのハイジャックで、福岡空港では一部始終がテレビ放映され皆さんもご覧になったことでしょう。犯人と交渉ののち、乗客の身代わりとして運輸次官の山村新次郎代議士を乗せ北朝鮮の平壌に向け飛び立ちました。

 ちなみに、この便のE副操縦士は筑紫丘高校の出身で、親しくさせていただいた先輩機長のお一人です。途中、韓国金浦空港に誘導されるなどミステリアスな経過をたどりましたが、何とか平壌の飛行場に着陸。赤軍派の犯人たちは北朝鮮に保護され48年後の今も解決していません。

平均年齢20歳代の若いクルー

◆1971年にセカンドオフィサーとしてB727に乗務していた頃で、場所は板付です。制服の袖章が金2本線です。

 約半年の路線訓練、シミュレーター訓練を経て、運輸省航空局の国家試験に合格し「航空機関士技能証明」を取得、8月4日、晴れてエアラインクルーの仲間入りをしました。

 当時B727は新しい機長の養成機種で、20歳後半から30歳代の若い機長が大半で、3人のパイロットの平均年齢が20歳代というのが大半でした。その上、スチュワーデスも20歳そこそこの若い人ばかりの時もあり、明るい生き生きとした職場でした。

 国内線は羽田から千歳往復、福岡または大阪往復など日帰り4区間乗務、3区間飛んだあと宿泊し連続勤務するパターンなどで月間60飛行時間程でした。沖縄の那覇にも飛んでいましたが、当時は国際線でパスポート所持、ドル持参でした。

 航空機関士の仕事は、出発前の外部点検、機体作動確認、そして運航中はエンジン、電気系統、燃料、油圧、機内の空調及び与圧の調整管理を担当。離着陸の諸データ算出や、推力調整等運航全般にわたります。この経験で航空機のシステム全般に精通することができ、その後のパイロット人生に貴重な経験を得ることとなりました。

●パイロットの階級と制服制帽

 パイロットの身分は、試験を受け、セカンドオフィサー(航空機関士)→ファーストオフィサー(副操縦士)→キャプテン(機長)と昇進していきます。

 制服・制帽によって身分が分かり、機長は上着の袖口に金色の線が4本、副操縦士は3本、航空機関士には2本入ります。また機長の制帽にはつばのところに金色の月桂冠?の刺繍がされています。

※今の旅客機はコンピュータなど機材装置の進化により、機長・副操縦士二人で運航が可能となり、航空機関士は職を失いました。

犠牲者ご家族を千歳に運んだ思い出

 B727グループに所属中の1970年7月2日、東亜国内航空のYS-11が函館で横津岳に激突し68名の犠牲者が出たときは、当日の深夜、犠牲者ご家族を海霧に覆われた千歳までお運びしました。また、同30日には全日空機と航空自衛隊のF86戦闘機が岩手県雫石上空で空中衝突し162名が犠牲になる事故が起こりました。

 日本の空はまだまだ不安全要素が多く、これを機に航空路と訓練空域の分離、航空管制レーダーの配備が促進されることになります。

 

 

空の貴婦人、ダグラスDC-8

 1971年11月、B727での乗務を終え、副操縦士(ファーストオフィサー)昇格訓練に投入されました。機種は空の貴婦人と呼ばれたダグラスDC8型機、ボーイング707型機と並ぶ、当時の主流国際線用旅客機です。

 ボーイング機は軍用機生産が多く、経験に乏しい乗員にも易しい最新の設計思想を取り入れ、操縦舵面は油圧を介しての作動、バルブ類は電気による制御を積極的に取り入れていましたが、ダグラス機は戦前より旅客機を主に生産してきた歴史があり、保守的で手動式装置を多用した頑丈な機体でした。操縦系統も一部を除き油圧を介さずケーブルを介して手動で操縦舵面を作動させる設計で結構腕力を必要とするものでした。

 大型飛行機は機種ごとに国家試験に合格する必要があり、副操縦士昇格訓練は座学、シミュレーター訓練、実機飛行訓練などで約六か月を要します。機種限定変更国家試験に合格し、約1か月の路線訓練を終了すると、晴れてDC型機副操縦士に発令され、国内線乗務から東南アジア路線へと飛行地域が広がってゆきます。

副操縦士として国際線デビュー

 当時、東南アジアの最長ルートは羽田-香港-バンコク-シンガポール-ジャカルタ便でした。乗員は羽田を出発して香港に寄港。引き続き、南シナ海を南下し珊瑚礁で出来た西沙諸島から西に変針、ベトナムのダナンを経由してバンコクまで飛行し第一日目の勤務を終えます。

 次の日の夕刻、バンコクからマレー半島を南下、シンガポール着陸後、南スマトラのパレンバン上空を飛びインドネシアのジャカルタに深夜到着。市内のホテルでショートステイ後、次の日の早朝、シンガポールまで飛行、シンガポールで1~2泊休養しシンガポールから香港経由羽田に戻るパターン。もしくは、ジャカルタ-シンガポール-バンコクと飛び、次の日に香港、大阪を経由して羽田に戻るかの5~6日の乗務パターンでした。

ビル群すれすれを降下する香港アプローチ

 各ルート、フライトはそれぞれ特徴がありますが、中でも当時の香港啓徳空港の着陸は圧巻、痺れました。通常、南風が吹く空港には香港島の西側から島伝いに九龍に向かい住宅街のビルすれすれに降下進入、滑走路間近で急旋回し着陸となります。
 世界でも難易度の高い空港でしたが事故は余りありませんでした。パイロットがいつもより少し緊張して操縦していたからでしょうか。

◆世界一着陸が難しいと言われた香港啓徳空港  

 またベトナムでは、米軍機からの爆撃で燃え盛る密林を目の当たりにするなど、地上ではまさに戦闘中の上空を飛行したことも幾度となくありました。北ベトナムの攻勢が強まるとダナン上空が飛行できなくなり、南のニャチャン、サイゴン経由と迂回せざるを得なくなりました。

感謝!福高先輩機長にしごかれる

 通常、パイロットは東京基地を出発して帰着するまでのワンパターンを同一機長、航空機関士とクルーを組んで運航に携わります。毎パターン異なる機長と飛ぶのが普通で、戦前派の怖いベテラン機長から兄貴分みたいな若い機長、時には外人機長と飛ぶこともあり、同乗機長の人となり、情報を集めるのも副操縦士にとって大事なことでした。

 福高先輩で、テニスのデビスカップ代表選手であった岡留恒健機長と同乗し香港、バンコクを飛ぶ機会を得たのもこのころ、先輩にはのちに機長昇格シミュレーター訓練でしごかれるなど、大変お世話になりました。

いよいよ長距離!モスクワ経由欧州路線へ

 近距離国際線に慣熟したころ、長距離路線のモスクワ経由欧州路線室に移動、当時、本邦欧州間のルートはアンカレッジ経由、北極廻り路線とバンコク、インド、中東経由の南廻り欧州線がメインでした。時間、距離的に最も近いシベリア経由はソビエト連邦が軍事上の理由で、アエロフロート、日航、フランス航空、英国航空など、限られた一部の航空会社にのみ上空通過を認めていました。
 ソ連は乗員の入国ビザも運航に必要な最小人員に制限し、モスクワ滞在中も我々を厳しく監視していました。

 東京ーモスクワ間は約10時間の飛行で、モスクワが悪天候などで着陸できない場合に備え代替飛行場をレニングラード(サンクトペテルブルク)に選定するとDC8型機の航続距離ギリギリ、気象条件によっては途中ハバロフスクに寄って燃料補給することもありました。

 乗員編成も、長い飛行時間であり機長2名、副操縦士1名、2名の航空機関士で編成され飛行中交代で短い休養を取っての運航。また、ビザ発給人数が限定されていたので同じメンバーと飛ぶことが多くなりました。

剣道部ライバルとコペンハーゲンで巡り合う

 モスクワ以遠は通常の3名編成でロンドン、パリ、コペンハーゲンの何れかに一泊で往復、共産圏特有の窮屈な滞在から僅か一夜でしたが、つかの間の自由を満喫したものです。

 コペンハーゲン便では思いがけない再会もありました。高校時代、筑紫丘高校剣道部の主将であった山田三雄君がモスクワに出発前の操縦室を訪れ、声をかけてきたのにはびっくり。北欧女性と結婚しカストラップ空港の日航支店で勤務していたのです。彼も、まさか私がパイロットになったとは思ってなかったようでした。

 副操縦士に昇格した1972年は6月14日に南廻り欧州線のDC8型機がインド、ニューデリー近郊に墜落、11月28日にはモスクワ離陸後に同じくDC8型機が墜落するなど、世界に路線を拡張していた日航は「伸びすぎた翼」とマスコミに非難されましたが、モスクワ経由ローマ線が就航するなど新路線を飛ぶ喜びもありました。

 ローマ・フミチノ空港からテルミニ駅そばのホテルに向かう途中、車中から見た夕闇迫るサンタマリアマッジョーレ寺院の階段にたたずむ多くの若い男女が印象的でした。

◆クアラルンプール空港にて 1972.11.15

 結局、2年ほどシベリア横断欧州線を飛びましたが、その間モスクワでの墜落事故もあり重苦しい雰囲気が漂い、特に冬場のモスクワはホテルの外観とは程遠く暖房も十分でない部屋で過ごし、日本からトイレットペーパーを持参しなければなりませんでした。洗面所に置いてあるのは、使用をためらう硬い藁半紙でしたから。

 

 

大量輸送を可能にしたジャンボジェット機

 1970年代は日本国内の航空需要が急速に高まってきた時期でした。羽田空港をはじめ国内主要空港の離着陸容量は満杯となり不足、空港周辺の騒音規制もあり増便も儘ならず。そこで旺盛な需要に対応するために国内線機材を大型化し大量輸送することでこの問題を克服することとしました。

 日本航空はボーイング社に国内路線での単距離多頻度離着陸に適した機材の開発を依頼、ボーイング社は機体構造、降着装置(足回り)の強化、ブレーキ冷却効果を高める装備等を付加したB747-SR(Short range)の生産を開始、1973年10月客席数498席の単距離路線用機材が国内線に就航しました。のちに二階部分が延長されたSUD(Stretched Upper Deck)が就航すると客席は最大573席まで増加します。

 また、同時に国際線仕様のB747-LR(Long range)の導入も相次ぎ、B747乗員の増加配置が必要となり、私もDC8型機からB747型機への機種移行訓練に投入されることになりました。

◆B747就航時のポスター

 1974年9月5日、モスクワ・シェレメチボ空港から羽田空港まで9時間31分の乗務を終了、DC8型機での総飛行時間は1189時間37分でした。

 10月に入ると、B747型機の座学訓練が始まり、暫しの地上勤務となりました。B747型機は人間工学をもとにした多重装備による安全性を高めた設計と、アポロ宇宙計画で使用された慣性航法装置を搭載し航法精度に優れた最新の機材でした。

 一方で、油圧装置が4系統装備されたことから全油圧が失われた場合の操縦が想定されておらず疑問を抱くも、確率上有り得ないとされていました。このことはのちに御巣鷹山の大事故で垂直尾翼損傷による全油圧パイプが切断された結果、操縦不能に陥ることとなった痛恨の設計ミスと言えるかもしれません。

B747型機副操縦士として南廻り欧州路線配属

 1975年2月2日、大雪で一面銀世界であったアメリカ・ワシントン州モーゼスレークでの局地飛行国家試験に合格、B747型機副操縦士に発令されました。当初は憧れのハワイ、太平洋路線に配属される予定になっていましたが、増便著しい国内及び近距離国際路線要員となり暫く国内線主体の勤務となってしまいます。

 そうこうするうち、その年の10月より南廻り欧州線の一部(バンコク→ニューデリー→テヘラン→ベイルート→ロ-マ→ロンドン、またはパリ便)がDC8からB747に変更されることになり南廻り欧州路線に配属されました。

 当時、日本からヨーロッパへは、B747でのアラスカ・アンカレッジ経由北極回り、シベリア経由(ソ連との協定でB747は就航不可)、そして南廻り欧州線の3ルートを運航していました。

 客層も北極回りは観光客主体、飛行時間はシベリア経由が一番短く、その日の夕刻にヨーロッパ各地に到着するのでビジネス客に好評でしたが運航頻度と機材がDC8のため輸送量に限りがありました。南回りはヨーロッパまで延々丸一日を要したので日本からの乗客は南西アジア、中近東地域までがほとんどでヨーロッパ諸国への利用客は僅かでした。

 途中寄港地のインドからは旧宗主国イギリスで成功した親族を頼ってロンドンまで大挙して出稼ぎに行くインド人が数多く利用、彼らのほとんどは飛行機が初めてでマナーも最悪、客室乗務員には不興を買っていました。

高さ13,000m超の積乱雲を避けながら

 バンコクからの運航は夜間飛行となるうえ、ベンガル湾上はいつも積乱雲が林立、その高さは優に一万三千メートルを超え、しかも発雷で電球のように不気味に光るなかを回避しながらの飛行、そのうえ地上無線施設の信頼性も低く、短波による通信は混信と雑音に悩まされる日本航空の路線としては最悪の運航環境でした。

 途中インドのニューデリーまたはボンベイ(ムンバイ)に寄港、給油と乗客の乗降を済ませイランのテヘランまで飛行し現地時間の深夜に乗務を終了、テヘランは標高1,200mの高地にあり空気も薄く乾燥気味でした。

 次の日は人々で溢れ、ごった返す街中に出てチェロカバブなどのペルシャ料理で少し早めの夕食をとり仮眠。帰路は真夜中のテヘランを発ち、3時間半程の飛行でニューデリーまたはボンベイに寄港。再び離陸すると程なく夜が明け、強烈な睡魔が襲うなか林立する積乱雲を回避しつつベンガル湾を東進、ビルマ・ラングーン(ミャンマー・ヤンゴン)上空を経て約3時間半の飛行でバンコク・ドンムアン空港に着陸すると自国に戻ったかのように安堵したものです。

 この南回り欧州線、客室乗務員は延々とヨーロッパまで行き約2週間かけて東京に戻ってくる過酷な勤務でしたが、途中のローマで2~3泊出来るのが救いであったようです。かたや運航乗務員は勤務効率と運航環境慣熟を考慮し、イタリアのローマにステーションクルー(駐在乗員)を配置。中東以西ヨーロッパ各地の便の運航を担当、東京のクルーはテヘランで折り返す約1週間の乗務パターンとなっていました。

家族3人でローマ赴任

 1977年(昭和52年)5月、所属長から「DC10型機に移行して機長昇格コースに入るか、機長昇格は少し遅れるがローマ駐在を希望するか」との打診を受けました。

 ちょうど息子が1歳になるころで学校の心配もなく、かねてから憧れていたローマへの赴任を希望、その年の8月から1979年(昭和54年)8月までの2年間、妻子と共にローマ市郊外のEUR(新ローマ)地区で過ごしました。現地では大根とこんにゃく(粉末を持参)以外は何でも手に入り食生活の心配もなく、イタリア料理も堪能しました。

 ローマには機長、副操縦士、航空機関士がそれぞれ4名配置され、テヘラン以西、(ベイルートはレバノン内戦で寄港中止)、アテネ経由またはローマ直行便とモンブランとマッターホーン間のアルプスを越えレマン湖上空を飛行するパリ、ロンドン便を日帰り往復で担当しました。中東便はのちにエジプトのカイロにも寄港するようになります。

◆アルプス上空を飛行

 所属したローマ支店には給料日に小切手を取りに行くくらいで、勤務日以外は全くのフリー。妻と物心ついたばかりの幼い息子の3人で長い旅行をしているような感じで、愛車アルファロメオでのイタリア国内はもとより提携航空会社の割引を活用しヨーロッパ各地を観光して廻りました。たまに有償旅客優先で搭乗後に降ろされることもありましたが・・・。マッターホーンを見てジェラート(イタリア語でアイスクリーム)みたいと息子が言ったのを覚えています。

◆ローマ・ナボマ広場で息子と

 ローマに着任して、そこ此処にある遺跡、聖ペトロとキリストが出会った場所とされるアッピア街道のクオバディス教会などのアッピア街道のクオバディス教会などの旧跡に出会うにつけ、福高のときに世界史を選択しなかったこと、聖書の知識がゼロであることを後悔せざるを得ませんでした。

◆キリストと聖ペトロの出会いを
描いたクオバディス教会の壁画 

歴史的事件にも数々遭遇

 ローマ教皇が短期間で二人誕生したのもこの頃、1978年(昭和53年)の夏の出来事で、ヨハネパウロ2世が選ばれた10月のコンクラーベのときはミケランジェロの天井画が描かれた「シスチーナ礼拝堂」の煙突から立ち昇る白い煙をバチカンのサンピエトロ広場で目撃することが出来ました。

◆ヨハネパウロ2世

◆サンピエトロ広場

 1979年(昭和54年)1月16日、パーレビ国王が国外亡命し王政が倒れたイランイスラム革命に遭遇。街中の銃撃戦に命の危険を感じる経験をしたのもこのころで、その後の混乱によりイラン領空の飛行ができなくなり、イラク領空経由パキスタンのカラチやアラブ首長国連邦のアブダビに寄港することになりました。

◆イラン・イスラム革命

◆パーレビ国王亡命

 また、駐在員の子弟に剣道を教えていたこともあり、現地テレビ局の日本紹介番組に出演し、心得のある日本人留学生と演武したのも思い出の一つです。

 2年間の海外生活はときに厳しくも、楽しい思い出でいっぱいですが、日本の良さをしみじみと感じたときでも有ります。‘アリベデルチ・ローマ’任期を終え、帰国するモスクワ線の機内で見た「寅さん」映画は感無量でした。 

 

 

‘70年代、空の花形はジャンボジェット機へ

 イタリアのローマを基地にヨーロッパ、中東を飛んでいた2年の間に、日本の航空事情も大きく変わりました。

 1978年(昭和53年)5月20日、反対運動に揺れた成田新東京国際空港が開港、その年の6月7日には日本航空の有償旅客が創業以来、国内国際合わせて1億人を突破しました。

 国内の航空は大量輸送の時代となり日本航空では主力であったDC8からDC10 、B747へと置き換わってゆきました。国内幹線ライバルの全日空もL1011(トライスター)に加え、1979年(昭和54年)早々、B747SR(スーパージャンボ)を国内線に導入、日本の主要空港は大型ジェット機の時代となります。

【日本航空】

◆DC-8

◆DC-10

◆B747SR

◆B747-100 巡航速度905km/h、航続距離9,130km、座席432~462席。翼の全幅は約60メートル、航続距離は9,000kmを超えた。

【全日空】

◆L-1011 トライスター

◆B747SR

機長養成トライアルメンバーに選ばれる

 一方で、パイロットは不足した状態が続き、路便拡大も儘ならず事業計画は頭打ち、とりわけ時間を要する機長の養成は会社の成長を左右する喫緊の課題でした。

 戦後の民間航空再開に際し、半官半民会社であった日本航空は国策で国際線と国内幹線のみの運航とされていたので、副操縦士は担当する路線により多少の違いはあるものの、操縦できる機会が月間4~6回程度と十分な離着陸経験を積むことができません。離着陸機会の多い国内線の運航は、ほとんどが機長養成昇格訓練、副操縦士昇格路線訓練に充てられていましたのでレギュラー副操縦士が国内線を飛ぶ機会は限られていました。

 機長養成訓練にはB727、DC8、そしてDC10が充てられていましたが、国内線でB747の運航比率が増すにつれ訓練に使用できる便数が減少、これまでの養成数を維持するためにはB747でも機長養成を開始することが必要になってきました。

 社内の一部には超大型機で大量のお客様の命を預かる機長に、小型機などの機種で機長を経験していない副操縦士をいきなりB747 の機長として発令することに抵抗があったのも事実、当時、このようなプロモ-ションチャンネルを持つ航空会社は世界に皆無だったので無理もないことでした。

 とはいえ、事業の維持拡大のネックとなる機長養成数の確保は至上命題であったので、B747での養成開始にむけて40歳代の自衛隊出身の副操縦士4名、30歳代のセカンドオフィサーを経験した副操縦士4名の2グループ、合計8名の要員を選定しトライアルを開始することとなりました。幸いなことに、私はローマに駐在していたおかげで機長養成機種のDC10への移行が遅れていたこともあり、トライアルメンバーの一人に指名されます。

機長免許取得までの遠い道

 航空会社の機長として飛行するには、これまでの「事業用操縦士技能証明」免許では不足で、またまた国家試験を受験し「定期運送用操縦士技能証明」免許を取得しなければなりません。
 申請に必要な飛行時間、その他の要件を満たし、学科試験に合格すると実地試験を受審する資格が得られます。私はローマ在勤中に学科試験を済ませていたので、1979年(昭和54年)7月に帰国後、荷をほどく間もなくシミュレーター訓練、アメリカ・ワシントン州モーゼスレークでの局地飛行訓練に投入され実地国家試験を受審、「定期運送用操縦士技能証明」免許を取得しました。ちなみに免許番号は2434、日本で2434人目の免許保持者となった次第です。

◆日本で2434人目、「定期運送用操縦士技能証明」免許を取得

日本航空の機長養成課程

 日本航空の機長養成課程は1972年(昭和47年)に発生した連続事故の反省から他航空会社と比較しても手厚く厳しいものでした。

 路線訓練は国内線と韓国線などの近距離で月間25区間程度が組まれ、左側の機長席に機長昇格候補者、右側の副操縦士席に教官機長と、通常の運航とは逆の着席位置で運航します。
 期間は最低限一年、これは世界で起こりうる気象状態、霧による低視程や低雲高での進入、強風横風や豪雨、雪氷滑走路での離着陸、台風、積乱雲、ジェット気流などによる気流の擾乱への対処など、日本の四季を過ごすことにより一層の対応能力向上、運航品質の底上げを図る意図もありました。

3段階プログラムの路線訓練

 かくして今から40年前の10月、路線訓練に入ります。航空を取り巻く環境、機材の進化などで現在の運用とは多少異なりますが、当時の路線訓練は3段階にプログラムされそれぞれの達成基準を満たすと次の段階に進みます。

 第1段階は離着陸など操縦技術の向上が主な目標で、巡航以外は原則手動操縦となっていました。
 飛行機は高度が上がるにつれ空気密度も薄くなるので、ほんの少しの操舵で機体が敏感に反応します。同時に航空路の中心線上を飛行するために、上空の風を読み機首方位の修正も必要で一時も気が抜けません。通常の運航が離着陸以外のほとんどを自動操縦、慣性航法装置を活用しているのとは大きな違いで古い初期の機材で運航するようなものでした。もっとも国際線ばかりで操縦の機会が少なかった副操縦士にとって経験を補うに十分なものでした。

 第2段階に入ると高度1万フィート(約三千メートル)以上の自動操縦、慣性航法装置を利用しての飛行が解禁され、機長としてのマネージメント能力の向上を主眼とした訓練へとステップアップしてゆきます。

パイロットの仕事(羽田-福岡便の場合) 

 では、ここで少しパイロットの仕事について羽田―福岡便を例にお話ししたいと思います。
 乗務当日、国内線の場合は便出発の1時間20分前までにオペレーションセンターに出頭、同乗クルーをチェックしディスパッチルーム(運航管理室)で運航に係る気象状況、航空情報、使用機材の整備状況など必要事項を確認し巡航高度、搭載燃料を決定、飛行計画書にディスパッチャー(運航管理者)と機長がサインし使用機に向かいます。

 駐機場につくと機体をひと回りして外部点検、異状ないことを確認後、機内に入り客室乗務員と打ち合わせ、おおよそ出発30分前にコックピット(操縦室)に入り出発準備を開始、機外の出発作業が順調であれば国内線では出発15分~20分前にお客様の搭乗が始まります。

 その間コックピットでは搭載燃料、離陸重量と重心位置の確認を行い航空機関士が離陸データ(離陸推力、速度、離陸引き上げ角度など)を作成。出発準備完了5分前になると地上の整備士から連絡が来るので管制塔に出発5分前を告げ、到着地までの管制承認を発出してもらいます。

 すべてのドアが閉じられるとエンジンを4,3,2,1と始動し離陸滑走路(通常は向かい風の)に向かい管制官の離陸許可{Cleared for Take-off}を得て滑走を始めます。約40秒で離陸すると東京湾上で反転し神奈川県座間から名古屋に向かいますが、東京の西部はいまだに米軍が管理する空域が広がっており、しばし横田基地の管制指示に従うことになります。

 福岡行きは1万~1万2千メートルが常用巡航高度で、上昇飛行は離陸後30分ほど、雲がなければ左側に富士山がご覧になれます。

◆富士山

◆南アルプス

 続いて南アルプスを越えると右側遠方には北アルプスの山々、右眼下の木曾駒ケ岳を過ぎると名古屋、そして琵琶湖南の大津、岡山(現在の経路は彦根、高梁)山口県の豊田町へと飛行します。巡航中、左席からは淡路島、小豆島、しまなみ海道など、右席からは日本海、伯耆大山、萩の町などをご覧いただけます。

◆しまなみ海道

◆響灘

 到着の30分程前から着陸のための降下を始め、響灘に出るころ、福岡空港の進入管制に引き継がれレーダー誘導が始まります。福岡空港は海陸風の影響が強く日中は北西風が卓越し南側から北に向かっての着陸となることが多く、その場合は玄界灘上を降下しながら志賀島の方向に誘導され、パイロットが空港の視認を通報すると、それからは目視飛行となり滑走路から平行に2.5マイル(約4.6㎞)西の場周経路に高度1800ft(550m)で進入します。場周経路上には当時高宮にあったテレビ西日本のアンテナが良い目標になりました。

 

◆高宮にあったテレビ西日本の電波塔 
 

 滑走路と平行に南に飛び続け滑走路端真横地点から40秒ほど飛行したのち、雑餉隈のNHKラジオアンテナを巻くように左旋回、滑走路34(磁方位337度)に着陸となります。

 逆に南寄りの風の時は、雁ノ巣から滑走路16(磁方位157度)に直線進入し着陸します。通常は、この滑走路16がより効率的な運用ができることから主滑走路となっており、追い風5m/秒までなら離着陸に使用されています。

 駐機場に到着後、お客様の降機が完了すると休む間もなく折り返し便の出発準備に取り掛かるか、福岡で乗務終了となる場合は市内のホテルに宿泊、つぎのフライトに備えます。博多はうまいものが沢山でクルー達に人気の宿泊地でした。

35歳、世界で最も若いジャンボ機機長に!

 機長昇格路線訓練は順調に進み1年で終了、引き続き局地飛行訓練を受け運輸省航空局審査官の技能審査、路線審査に合格、1980年(昭和55年)12月11日、社長から機長の辞令を拝受、日本航空で初めての副操縦士からB747機長に昇格、世界でも最も若いジャンボ機機長になることができました。

◆機長として出発準備中(航空情報誌に掲載されたもの)

 ジャンボ機機長としての初飛行は12月15日、羽田―千歳を往復して福岡迄の予定でした。ところが千歳の天候不良(新米機長に適用される着陸条件を満たさない)により機長交代となり、結局、福岡行き最終の377便で初飛行、午後21時54分、滑走路16に着陸、その日は同乗クルーと中洲の屋台で祝杯をあげました。

 二日目は午後の366便で滑走路34から羽田に向けて離陸、たまたま仕事で空港の近くに居たという親父が、滑走路端の市道に車を止めて我が便の離陸を見守っていたとのこと、嬉しくも有難いことでした。

 

 

 機長として飛び始めて実感したこと。それは、副操縦士としての経験がどんなに長くても得られない何かがある。運航のすべてにおいて最終判断を委ねられている責務の重さ、そして充実感、まさに一線を越えたということでした。エアラインパイロットとしての運航能力は飛躍的に向上したと思います。

高度33,000フィートでエンジン停止!

 一年ほど国内線に従事しましたが、昇格して4か月たったころのことでした。那覇空港を離陸して飛行高度33,000ft(10,000m)で羽田に向かう途上、一番エンジンのオイルが急激に漏れだしエンジンを停止せざるを得なくなりました。

◆沖永良部島上空

 場所は沖永良部島北東120nm (222km)の太平洋上、その時の残燃料はエンジン一基不作動でも羽田まで飛行続行が充分可能な位置でしたが、更なるリスクに備えて飛行時間、距離的にも近い那覇に引き返すことにしました。那覇は雲が低く垂れこめた生憎の天気、十分に訓練を積んだエンジン一基不作動での進入着陸も、実際にエンジンを停止しての操作は初めて、無事着陸して安堵したのを覚えています。

 双発機の場合はエンジンが一基不作動になると、直ちにエマージェンシーを宣言して最も近い着陸可能な空港に向かうことになりますが、ジャンボ機は四発機ですから一基だけの停止は安全上もまだ余裕がありました。

 当時は長距離洋上を飛行する旅客機には三基以上のエンジンを装備する必要がありましたが、現在ではエンジンの信頼性も飛躍的に向上したこと、ジャンボ機に比べ消費燃料も少ないことからボーイング777や787、エアバス330,350といった双発機が旅客機の主流になっています。

機長になっても厳しい審査はつづく

 機長になっても、資格を維持するには副操縦士時代より厳しいハードルを越え続けなければなりません。6か月ごとのシミュレーターと実機による技倆審査、一年に一度の路線審査と新規路線拡張審査、そして航空身体検査に合格し続ける必要があります。

 昇格して半年、初めての技倆審査は運航経験を重ね自信をもって臨みました。ところが、1日目のシミュレーターは、科目の一つであるエンジン2基不作動での周回進入の出来が今一つ、冷や汗ものでした。翌2日目は実機での審査、羽田空港がオープンする午前6時に出発、離陸時のエンジン故障、1基不作動での計器進入からの着陸復航、高度600ft(約180m)で低空周回進入しタッチアンドゴー、最後に低視程を模擬した計器進入着陸を実施し合格すると、次の6か月審査まで機長として運航に従事する資格が維持されます。そしてこれらの関門は、ラストフライトで翼をたたむまで続くこととなります。

 離陸時のエンジン故障操作など、実機を使用しての技倆審査はシミュレーターの性能向上により、今では審査科目すべてがシミュレーターに置き換えられ、審査飛行の安全性向上が図られています。

"あこがれのハワイ空路"で国際線デビュー

 1982年(昭和57年)1月、米州路線室に所属が変わり国際線デビュー。まず初めの路線は、「あこがれのハワイ空路」ホノルルでした。入社以来、国内、東南アジア、シベリア、中東、ヨーロッパと、もっぱら西行きを飛んでいましたので、アメリカにDビザ(乗員業務査証)で入国するのは初めての経験でした。

 日本とハワイの間、太平洋上は決められた空路がなく、当時はコースを自由に選定できたので、東行きは追い風となるゼットストリーム(強いときは大型台風並みの風速80m以上)に乗って飛行し、冬場はホノルルまで6時間ほど。日本への復路はゼットストリームを避けて南のコースを採るものの、飛行距離も増えてしまう結果、8時間以上かかってしまいます。

◆レイを掛けられたB747 ホノルル国際空港ロビー

夜明けとともにホノルル到着

 ハワイ空路は、夜間飛行で夜明けとともにホノルルに到着する便がほとんど。冬はオリオン座、夏はさそり座を中心に満天の星空を眺めながらの飛行、月明かりが無い夜などは、ちっぽけな自分が宇宙のかなたに引き込まれるような感じになることがあります。

 国際日付変更線を越え西半球に入ると、やがて少し丸みを帯びた水平線が青白く輝き始め、東の空が真紅に染まり日の出を迎えると、夜を徹してのフライトで睡魔が襲ってきます。客室では丁度、朝の軽食サービスが始まるころ、到着準備で忙しくなる前に機長としてのご挨拶とホノルルの天候、着陸予定時刻などを手短かにアナウンスします。

◆夜明け前、水平線が青白く輝き始め、やがて東の空が深紅に染まり荘厳な夜明けの時を迎える。

◆朝日を浴びて機長からホノルル到着のご挨拶

 カウアイ島が近づくころ、ホノルルの管制レーダーに捕捉され着陸に向けての降下を開始。オアフ島のダイヤモンドヘッドを右遠方に見つつ、進入を続けパールハーバーチャンネルを横切るとホノルル国際空港に着陸となります。

◆ホノルル国際空港到着

◆ホノルル国際空港への進入 右遠方にダイヤモンドヘッドが見える。

 国際線に移行当初は、本邦とハワイの間を月に4往復することもありました。ホノルル線は一泊三日の勤務パターン、時差と闘いながらの勤務でしたが、ダイヤモンドヘッド、太平洋に沈む夕日を見ながらの食事はフライトの疲れを癒す楽しいひとときでした。

懐かしい南カリフォルニアの空に還ってきた!

 2月になるとロサンゼルス、サンフランシスコへとアメリカ西海岸、カリフォルニアの各地に路線拡張が始まります。中でも、ロサンゼルスへはモンテレー、サリーナス、サンタバーバラ、サンタモニカを経由して着陸する飛行ルート。そこは14年前に単発機のクロスカントリーで低空を飛び廻った、懐かしい南カリフォルニアの空でした。

■ミッドウェー島 日本への帰路で

●下枝堯さんおすすめの本

 グッド・フライト、グッド・ナイト
/マーク・ヴァンホーナッカー著 2017年

 ブリティッシュ・エアウェイズの現役パイロットが書いた珠玉の航空エッセイ。
 「私にとってパイロットに勝る職業などない。地上に、空の時間と交換してもいいような時間があるとは思えない」と言い切る著者の、瑞々しく詩的な文章からは、空と飛行機と自身の職業に対する愛情がほとばしる。

 飛行機の仕組みなど専門的な内容から、世界の空と海の信じられないほどの絶景、そしてフライトを共にするクルー間に生まれる友情の話まで、コックピットに座らないと見えないエピソードと感動の体験が満載…。(BOOK評より)

 

 

 長いパイロット生活の中で最もつらく悲しかった出来事、それは1985年(昭和60年)8月12日、真夏の夕暮れに起こりました。

 子供たちは夏休みで博多の実家、妻と二人で友人夫妻とバーベキューを楽しんでいたとき、ラジオから「日航ジャンボ機が消息を絶った」とのニュース速報が飛び込んできました。管制レーダーから消えたのは、羽田発大阪空港ゆきの日航123便。当時、私は運航企画部調査役としてパイロットの立場から運航本部の諸問題に取り組む任にあったので、急ぎ羽田のオペレーションセンターに向かいました。

 羽田では事故対策本部が立ち上げられ、社内捜索調査班を組織、燃料残時間も過ぎ騒然としたなかにも重苦しい雰囲気に包まれていました。

 日航123便は社用通信で後方扉破損、急減圧、全油圧喪失、羽田引き返しを決断も操縦不能を伝えて交信を絶っていました。乗員名を見ると、機長はローマ在勤時家族ぐるみでお世話になったTさん、副操縦士はローマで同じアパートに住んだこともあるS君(遺児は日航のパイロットになった)、航空機関士はつい最近一緒に飛行したばかりの温厚なFさん、驚きと悲しみで動転したのを覚えています。

 事故機は伊豆半島東の相模湾上空を飛行中、ドーンと大きな音とともに異常事態が発生。その後、約30分間飛行したのち午後6時56分ごろ、群馬県多野郡上野村山中(御巣鷹の尾根)に墜落。大破し火災が発生、乗客509名及び乗員15名の計524名が搭乗していましたが、520名(乗客505名、乗員15名)が死亡、乗客4名(すべて女性)が重傷を負い救助されました。

 単独の航空事故としては史上空前の大惨事、生存者がいたのはせめてもの救いでした。社会の第一線で活躍されていた方々、無限の未来があった子供たち、そして生還を期し、最後まで懸命に対処した乗員の皆さんの御冥福をお祈り続けます。

 事故翌日の朝、捜索中の事故機が発見され、悲惨な状況がテレビ画面を覆い、生存者の救出、事故処理が始まる中、私は後ろ髪をひかれる思いでホノルルに飛びたちました。運航の現場では、空港従事者、乗員、そしてすべての社員が沈む気持ちを抑え懸命に業務に励んでいたのを、今でもはっきり覚えています。

 事故原因は、7年前に起きた大阪空港着陸時の機体尾部接触に伴う、ボーイング社による損傷修理が不適切に行われた結果、金属疲労が進展し後部圧力隔壁が損壊、尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の損壊(4系統ある油圧装置すべてを喪失)が生じ操縦不能に陥ったために生じたものと推定(ほぼ断定)されています。

 この年8月の手帳に私は、「今回の事故は今までのものと原因において根本的な違いがある。確率の無に近いものが現れただけに、乗員、航空関係者としては深刻である。また、何故日航に起こったかを考える必要がある。天は日航に罰を与えたのか?」と記しています。

 当時の社内は、諸般の事情により事業計画が想定ほど伸ばせず、大量採用したパイロットの余剰を抱えておりセカンドオフィサーの副操縦士昇格も大幅に遅れていました。そのうえ、 日本航空では創業以来初めてとなる航空機関士を必要としない、パイロット2人だけで運航する新機種B767 型機導入が始まっており労使関係は最悪の状況となっていました。

 このような中、私は月2回ほどのフライトスケジュールをこなしつつ、事故後の組織対応や、導入が決まっていたB767型機以上にコンピュータライズされたB747-400型機を、航空機関士を含めた3名編成とすることに拘る組合と、パイロット2名で安全は十分確保されるとする会社、技術陣との編成を討議する検討会の取り纏め役を務めるなど、地上での業務が主体となり精神的にも辛い日々を過ごしました 。

 ジャンボ機安全神話の崩壊、険しい道のりである信頼の回復、航空輸送の原点である安全の確保をいかに推進するか、これまで以上に必要な施策は何か、どのように実行してゆくのか、運航を担う組織の運営は如何にすべきか等々、大事故を契機に改めて突き付けられた課題に取り組みましたが、この時の経験は航空人生での掛け替えのない財産となったと思っています。

 

 

カリフォルニア州「ナパ運航乗員訓練所」教頭に就任

 もう四半世紀以上前のことになりますが、私は1993年8月から1996年10月の3年間、息子を日本に残し妻娘、2匹の犬とナパで暮らしました。

 ナパはアメリカ西海岸のサンフランシスコから、北に高速道路で40分ほど走ったところにあるワイン醸造、牧畜、そして観光が産業の葡萄畑と牧場が広がるのどかな田舎町です。

◆アメリカ一のワイン生産量を誇るカリフォルニア州の中でも、ナパは最高品質のワインを生産することで知られるエリア。

 私達、自社養成一期生は初期飛行訓練をサンディエゴの飛行学校で受けました。日本航空はその後、養成数の拡大に伴い基礎訓練を自営とし、日本の操縦免許を取得させる方式に変更。1971年11月「ナパ運航乗員訓練所」を開設します。

 機長養成教官、国内路線室主席操縦士として約6年間、主に国内線を飛び、後輩の育成に携わっていた流れで、今度は基礎訓練を担当すべくナパでの訓練を総括する教頭に指名されました。

 「ナパ運航乗員訓練所」は単発機と双発ターボプロップ機で自社養成課程の訓練生に操縦免許を取得させる基礎訓練と、旅客機運航につなげる複数パイロットでの運航訓練を担う組織です。
 航空大学校卒の訓練生も入所しますが、すでに操縦免許を取得しており、複数パイロット運航の訓練課程を修了すると卒業となり、日本で旅客機の副操縦士昇格訓練に進みます。

日本初の社内パイロット養成施設

 一般大学卒の自社養成訓練生は操縦免許取得訓練から始まりますので、指導に当たる教官は航空法により操縦教育の技能証明保持者でなければなりません。よって、私もまた国家試験(筆記と飛行教育技能試験)に挑戦することとなり、当時、長崎県大村市にあった日航子会社が運営していた飛行学校で4月から4か月間、飛行教育訓練を受けました。

 訓練機はビーチクラフト社のボナンザで、小型単発機の飛行はサンディエゴでの初期訓練以来 24年ぶり、計画では単独飛行も有り、旅客機とは異次元の空に戻り心躍るものでしたが、戸惑いと不安もありました。訓練は、2年前(平成3年)に大火砕流で多くの犠牲を出した雲仙岳の煙がまだ見える有明海上空で空中飛行課目、今は佐賀空港となった埋め立て地での低空飛行課目、離着陸訓練を長崎空港の長短二つの滑走路で、そして野外航法訓練を南は種子島まで、九州のほぼ全域で行われました。

 生憎、梅雨の時季であり訓練に適さない日も多く、予定より遅れた8月11日に操縦教育技能証明を取得、「ナパ運航乗員訓練所」に赴任しました。

 ナパは定期便の就航地サンフランシスコに近く、気候も秋から冬は太平洋からの海霧が西風に乗って街を覆う日が多いものの、午後には雲一つない青い空となるのがほとんどで、年間を通じて安定しており、訓練基地であるナパカウンティ飛行場も滑走路が長短3本あり、小型機の訓練に申し分ないところでした。

◆30機が配置された単発訓練機

 訓練所開設にあたり、ナパ市は誘致に積極的でしたが、当時はメキシコからの季節労働者(葡萄農場)以外は白人の町で市議会の一部に反対もあったようです。

 もちろん、アメリカで訓練を実施するわけですから制約がありました。飛行教官にはアメリカ人を雇用しなければなりませんし、すべて連邦航空法に従って運営することになります。

 訓練の主体は大型機の経験のないアメリカ人に委ね、日本人は大型旅客機操縦ノウハウ、会社の教育方針を指導し管理すること、訓練生の私生活を含めたカウンセリング業務、そして日本の操縦免許を取得させるために日本の航空局の認定を受けたチェッカー(技能審査員)による実地試験、社内認定試験の実施などを担うために現役の機長、副操縦士が数多く配置されていました。

 教頭の職務は、訓練全般の掌握管理、駐在機長、副操縦士の管理、アメリカ人チーフ教官を介してのアメリカ人教官の管理、訓練生の管理など多岐にわたりました。

試験不合格で夢をあきらめる者も

 訓練生総数は、受託していた日本エアシステム(JAS),南西航空(現JTA)の訓練生も含め200名以上の大所帯でした。自社養成の訓練生は2年、航空大出身訓練生は8か月、和食も提供する専用の食堂、プール、テニスコートを備えた寮で起居、厳しいながらも恵まれた環境で訓練に励み巣立ってゆきます。

 ただし、このような中にあっても採用の過程では見極めきれなかった、エアラインパイロットに向いていない訓練生がどうしても出てきてしまいます。訓練課程中、自社養成では修了認定を含め10回の審査を突破しなければなりません。社員としては優秀で申し分ない若者たちでしたが、努力の甲斐なく再試験に不合格となると訓練中止、約4%の訓練生がエアラインパイロットへの道を絶たれました。

 幸い、社員の身分は保証されていた(私達の時代はクビ)ので希望する職種への進路変更が可能で、総合職として力を発揮し活躍していますし、退社してのちに衆議院議員、地方の市長になった人もいます。残念ながら、エアラインパイロットには向いていなかったというだけでした。

 1996年10月に離任するまでの3年2か月、入所から卒業までを見た訓練生は216名(内1名女性、第一号女性エアラインパイロット)、在籍していた訓練生は317名にのぼり、今では日本航空の運航を支えるベテランパイロットに育っています。

伊藤博彦君とゴールデンゲートブリッジを遊覧飛行

 訓練所には、各界要人や多くの航空関係者が訪れましたが、日本航空ニューヨーク駐在員であった福高同期の伊藤博彦さんも業務で立ち寄ってくれ、私の操縦でゴールデンゲートブリッジの周辺を遊覧飛行したことは痛快な思い出です。その後、彼は重要ポストを歴任しJALカードの副社長を最後にリタイアしました。

◆福高同期の伊藤博彦君と

家族とふれあう時間がふえた訓練所勤務

 仕事を離れた、ナパのプライベート生活は快適でした。朝夕の冷え込みがあるものの、年間を通して昼間は半袖で過ごせるドライな気候。自然豊かな環境に恵まれ毎日の激務を癒すには良いところでした。

 しかしながら、中学2年生半ばであった娘は、いきなり外国人(邦人から見た)ばかりの英語の世界に放り込まれ、心細い辛い日々だったと思います。放課後は日本人に慣れた家庭教師に英会話の特訓をお願いしました。カリフォルニアは中学が2年、高校4年制でしたから、渡米後10か月余りで地元の高校進学となりました。

 週末はサンフランシスコや、近郊のショッピングモールでの買い出し、ワイナリー巡り、名所めぐりのドライブなど家庭サービスに努めました。
 大リーグ観戦でキャンドルスティック球場にも行きました。ドジャースの野茂投手がジャイアンツ相手にノーヒットノーランを達成したゲームです。

 また、近郊にはゴルフ場も多く、地元住民、教官や訓練生とのラウンドを数多く楽しめました。訓練所のゴルフコンペでホールインワンを達成したのも懐かしい思い出の一つです。

 平日は早朝から夜まで仕事に追われ、息つく暇もありませんでしたが、毎日自宅に戻る生活は結婚以来初めてでしたし、週末には出張者や訓練生を招いて食事会など妻には負担をかけました。/span>

◆左:ゴールデンゲートブリッジとサンフランシスコ市街 右上:マスタードフラワー 右下:葡萄畑

大空をめざす青年たちの夢とともに

 自然豊かな田舎町、春には桜に似た真っ白なアーモンドの花、マスタードフラワーの黄色い花が咲き乱れ、秋になると葡萄がたわわに実りワイナリーではワインの仕込みが始まります。
 日本と違い冬は山が緑に、夏は草が枯れて茶褐色に、澄んで乾いた大気、夜空に満天の星を仰ぐ日々、3年と2か月、空にあこがれた青年たちの真っ白なキャンバスに色を付けることができた仕事、イタリアとはまた違ったアメリカでの生活は忘れられない思い出となりました。

 

 

国産ジェット旅客機開発凍結に想いを残して

 この回顧録、最初に投稿したのが2016年(平成28年)5月、6年半前のこと、そろそろエピローグにしたいと思います。

 当時は三菱のリジョナルゼットMRJ(のち、三菱スペースゼットに改名)が飛行に成功し、2020年開催の東京オリンピックに花を添えると期待されました。しかしながら、設計上の不具合もあり米国連邦航空局の型式証明審査に合格できず、ついには開発そのものの凍結に至ってしまいました。型式証明は製造国日本が発行するものですが、米国当局の認可が得られなければ世界での飛行が不可能でビジネスになりません。

 米国で認可されない理由は、旅客機製造ノウハウの蓄積がない日本の航空機産業が自前に拘るあまり、航空機製造先進国の助言協力を求めなかったことも一因と言われています。

NHK朝ドラ「舞い上がれ」を楽しく視聴

 今、NHKの朝ドラで「舞いあがれ」が放送されています。空に魅せられた女性主人公が航空大学校に入校し宮崎での基礎座学訓練を終え帯広分校での初期飛行訓練、厳しい教官のもと同期生と助け合いながら目標に向かって逞しく生きるストーリーのようです。

 私は初期飛行訓練を米国の飛行学校に委託され、カリフォルニアの空でおおらかに育ったので、このドラマと環境、教育技法も少し違いますが、飛び始めたころに思いをはせ毎朝楽しく視聴しています。

役員昇任か現役続行か――悩んだ末の決断は

 さて、私の回顧に戻りますが2001年(平成13年)2月、社長から呼び出しがあり天王洲の本社ビル最上階の社長室に行きました。面と向かって話すのは初めてのこと、そこで運航担当の執行役員就任を促されます。しかしながら、日本航空は役員が機長業務をしないことが慣例でした。私は即答を避け退席しました。

 当時のパイロット定年は60歳、家族は役員昇任よりも機長であり続けることを望んでいましたし、私も飛ぶのが天職と感じていたので、予定より5年も早い段階での現役終了に迷いもありました。悩みましたが、潔くパイロット現役を諦めることにしました。

ラストフライトはハワイ空路

 現役機長としてのラストフライトはハワイ空路をお願いし、2001年(平成13年)3月30日、ハワイ大学在学中の娘や空港スタッフにレイを架けてもらいJAL73便(B747-300、登録番号JA8186)に乗り込みました。お客様は443人、ホノルル国際空港サンゴ礁滑走路をダイアモンドヘッド方向に向け現役最後の離陸でした。

◆JA8186(B747-300)

 巡航中は季節の変わり目で所々揺れがあったものの、針路を千葉県の犬吠埼に向け、太平洋上で日付変更線を跨ぎ何事もなく飛行。お客様への機内アナウンスは60歳でのハッピイリタイアではなかったので通常の挨拶に留めました。

 機長として最後の到着地、成田は3月も晦日なのに雲が低く垂れ込め小雪が舞う天候でした。このような気象状態では自動操縦での進入が無難ですが、最後の進入は手動での操縦を選択、高度200ft(60m)でアプローチライト(進入灯火)を視認、滑走路34に着陸、ホノルルから成田まで9時間9分のラストフライトでした。

今も心は世界の空に

 パイロット飛行時間約1万5千時間、カリフォルニア州サンディエゴでの初飛行以来33年、機長としては20年間の現役生活を終えて翼をたたみました。

 現役中は南極を除くすべての大陸を飛行、と言っても南米は1997年(平成9年)4月にペルー・リマの日本大使公邸占拠事件で人質が解放された際に救援機で飛んだ一回だけですが、JALの定期便就航地の殆どを飛びまわりました。

 リタイア後は、急に世界が遠くなってしまったという感じです。現役中は自分の操縦で、遠くでも15時間ほどで行き来していたものですから。

飛ぶことは天職――素晴らしいパイロット人生でした

 我が思い出の空港、それは何といっても福岡板付空港、そしてローマ・レオナルドダヴィンチ空港、最後のホノルル国際空港でしょう。
 私は、素晴らしいパイロット人生を送ることができました。

◆福岡板付空港

◆レオナルドダヴィンチ空港

◆ホノルル国際空港

 

 

 

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