鬼ノ城 OKAYAMAそぞろ歩き

      2022/10/02

 8月3日、暑かった。コロナ禍よりも熱中症が怖いこの日に、岡山県は総社市にある鬼ノ城を訪れた。

 鬼ノ城のことはずっと気になっていた。なにせ岡山県である。きびだんごと桃太郎の国なのだ。マンホールの蓋にも桃太郎が描かれている。 
 夏には若者たちが「うらじゃおどり」で盛り上がる。岡山では桃太郎=吉備津彦、うら=温羅=鬼なのだから、「うらじゃおどり」とは「鬼だよ踊り」なのだ。その岡山県に鬼ノ城がある。気にならないはずがない。

◆2年続けて中止となった夏の「おかやま桃太郎まつり」がこの夏復活。8月20日・21日の2日間、顔に鬼のようなメークをして踊る「うらじゃ」の演舞が華やかに行われた。

 実のところ鬼ノ城は「キノジョウ」と読む。「オニノシロ」とは呼ばない。そして岡山県民は別だが他県の人々は、後楽園や吉備津神社は知っていても鬼ノ城なんて聞いたことがない、という人の方が多いのではないだろうか。
 しかし、今増えているらしい「お城ファン」なら多分知っているだろう。なぜなら鬼ノ城は日本城郭協会選定の日本百名城に選ばれているのである。岡山県からは岡山城、津山城、備中松山城、鬼ノ城の4つが百名城に選ばれているのだが、そのうちでもっとも古くから存在し、今なお様々な謎に包まれているのが総社市の鬼ノ城なのである。

 その鬼ノ城に、岡山に来て40年以上になるのに、実のところ私は一度も行ったことがなかった。というわけで、今回市丸さんにホームページへの寄稿を要請されたのを好機として、鬼ノ城行きを決心した。

◆写真01

 さて鬼ノ城は、標高約400メートルの鬼城山(キノジョウザン)に築かれた古代山城である。城壁は平均幅約7メートル、推定高約6メートルで全長2.8キロメートルに及び、それに囲まれた場内の面積は約30ヘクタールと広大である。

 それではこの鬼ノ城はいつ頃、誰によって築城されたのであろうか。
 鬼ノ城の名は、写真01に示されているように、備中国一宮である吉備津神社に古くから伝わる伝承の中で、吉備津彦に討伐される温羅の拠点として登場している。とすると、大和朝廷によって征服される前の古代吉備王国の統治者によって築城され、大和朝廷の進出に対する彼等の抵抗の拠点となったのではないか、という推測が可能になる。

◆写真02 鬼城山ビジターセンター

 なお、写真02は鬼ノ城登り口の近くにある鬼城山ビジターセンターの写真である。このビジターセンターには鬼ノ城関係の模型や資料が展示されており、写真01もその一つである。

 しかしながら、数回の学術調査の結果現在では鬼ノ城の築城は7世紀後半とする説が有力となっている。とすると福岡県の大野城と同様に、白村江の戦いの後に外敵の侵入に備えて大和朝廷によって各地に作られた防御施設の一つということになる。
 ところが、大野城などは朝廷の官選史書にその築城についての記録が残されているのに、鬼ノ城については、これだけ広大な施設なのに記載がない。それゆえ、温羅の拠点だったという推測が可能だったのである。

 さて、ビジターセンターを経て山道を登り、ちょっと横に入ると学習広場に出る。広場にしてはやや狭いが、そこから鬼ノ城の西門が遠望できる。写真03がその写真である。

◆写真03

 

 鬼ノ城には東西南北の4つの門がある。そのうち西門だけが復元され、今では鬼ノ城のシンボルのようになっている。岡山城の天守閣のような威容はないが、山城らしい趣があってこれはこれで良い。以下、

◆写真04

◆写真05

 写真04:直前の崖下から見た西門
 写真05:城壁に上って見た西門の全景
 写真06:西門を城内から外へ抜ける通路。なお階上は立ち入り禁止となっていた。おそらく観光客の安全のためだろう。柵や欄を着ければ安全だろうが、それでは復元の趣旨に反する。
 写真07は、写真06とは逆方向、城外から見た西門の入り口

◆写真06

◆写真07

 

 西門から少し北へ歩いたところに角楼が存在する。写真08・09はその角楼の写真である。西門同様に調査を踏まえて復元されている。おそらく見張り台であろう。このように角楼を備えている古代山城は珍しいそうである。

◆写真08

◆写真09

◆写真10

 写真10:鬼ノ城の岩畳。ここから攻めるのは大変だろう、と思った。

◆写真11

◆写真12

 写真11・12・・・鬼ノ城からの見晴らしはすばらしかった。特に南は、古代吉備王国の中心地であったと言われている吉備路を超えて、瀬戸内海、さらには讃岐富士など四国の山々まで望むことができる。白村江の戦いで日本・百済を破った唐・新羅の船が、もしも北九州の防衛ラインを突破して瀬戸内海に侵入したとしても、鬼ノ城の兵士に発見されずに吉備国に上陸する、あるいは大和に向かうことは不可能だったであろう、と思った。

 

 訪れる観光客の数は後楽園の10分の1以下かも知れない。しかし、鬼ノ城から徒歩で2時間強、車なら20分で仁徳、応神、履中天皇陵に次ぐ日本で4番目の大きさを誇る前方後円墳である造山古墳、同じく10番目の大きさの作山古墳に達する。また雪舟が幼い頃に修行していたことで有名な宝福寺も近くにある(写真13)。歴史、特に古代史に関心がある人ならば、これらを組み込んで鬼ノ城観光の旅程を作成すれば失望することはないであろう。

◆岡山市・造山古墳(つくりやまこふん)。5世紀初めの建造と推定される前方後円墳で、全長350m、高さ24m。日本で4番目の規模を誇り、立ち入り出来る古墳では日本で最大のもの。

 それにしても、 古代の古墳ビッグ10の中で畿内以外に存在するのはこの吉備の二大古墳だけである。古代の吉備王国は強かったのだ。

 

◆写真13 雪舟禅師が少年時代に修行をしていた宝福寺。お勤めをさぼって柱に縛られた雪舟少年が涙で描いたネズミの絵が生きているように見えたという逸話が有名。

 

◆鬼ノ城夕景

 

 

 

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