聞き書き[満州国]の思い出

      2021/08/19

◆博多中央ふ頭に立つ博多港引揚のモニュメント「那の津往環」

 

はじめに

昭和20年(~21年)生まれの私たち寿禄会生も、後期高齢者と呼ばれる年齢になりました。エリートの道を進み、順風満帆の人生を歩んでこられた方がほとんどだと思いますが、それでも他の世代とは違う多彩な出来事が人生の節目節目で起こったように感じるのは、私たちが「終戦っ子」として、敗戦からの復興という希望を託された子供たちだったからではないでしょうか。

それはさておき、一昨年の夏、寿禄会メンバーの中で満州からの引き揚げを体験した方々で「満州国帰国子女の会」を結成。ご両親や年長のごきょうだいから聞いておられた体験をまとめた「聞き書き 満州国の思い出」シリーズを発表して話題となりましたが、今回またお一人中村(旧姓安藤)陽子さんを仲間にお迎えすることとなりました。嬉しい新入りさん(?)を教えて下さったのは山本智子さん。新聞に紹介された中村さんのニュースを知り、「えっ? あなたも引き揚げ者だったの?」と二人で盛り上がったのだそうです。 ლ(╹◡╹ლ)やったね♬ 

山本さん、素敵な新メンバーを連れてきて下さって、ありがとうございます! 中村さん、ようこそ寿禄会ホームページへ、原稿の掲載許可をありがとうございます!! 

※掲載の写真は、一部を除き中村さんのお父上・安藤清さんが在満中に撮りためられたものです。
※読売新聞に紹介された中村さんの記事はこちらをご覧ください。
※「満州国帰国子女の会」の他メンバーの投稿ページは山本藤本市丸馬渡冬至、をご覧ください。

 

父が残した70枚の写真

お父様が満州に渡られたのはいつですか? 満州ではどんな仕事をしておられたのですか?

中村 父が満州に渡ったのは大正末期だと思います。養成所に入り、満鉄に入社しました。

住んでおられたのはどこですか?

中村 沙河口、大連、奉天と聞いています。

◆(左)北京駅、(中)駅のホームです、向かって左に母と母の弟、九大の医学生でした(右)同好会の写真展

ご両親の結婚はいつですか? 陽子さんは一人っ子なんですね。

中村 両親の結婚は昭和5年です。それから15年たってようやく生まれたのが私で、兄弟姉妹はなく一人っ子で大切に育てられました。

◆(左)両親の結婚写真(昭和5年頃)、(中)夜間寫す自画像 新光倶楽部にて、父・清さん、(右)5月27日 中央公園で散策する 母・秋子さん 後方右:観測所? 左:本願寺

お父様はカメラがご趣味だったそうですね。

中村 父はドイツ製のカメラを愛用し、自宅の一室に暗室を作って、現像・焼き付け・引き伸ばしなど、母を助手にして楽しんでいました。

満州からの引き揚げ家族が現地で撮影した写真を日本に持ち帰れたことは、大変に珍しいことだと新聞に書かれていましたね・・・

中村 現地の風景が写っている写真は持ち帰れないなど、中国側の厳しいルールにより、引き揚げ時に没収あるいは紛失してしまうケースがほとんどで、大量の写真が残っているのは珍しいのだそうです。そんな思いをして両親が持ち帰ったものですが、75年という年月が経ち、ボロボロになっているのを発見し、最近になって保護しなければと思うようになりました。

◆(左)父・清さん(昭和6年2月21日)自宅にて、竹の調(尺八)、趣味はカメラと尺八でした。(中)三味線を手に母・秋子さん、(右)三味線を弾く母・秋子さんの影(父の会心の写真か?)

1945年8月9日、ソ連が突然満州に侵攻した時のようすを教えて下さい。

中村 8月9日の夜、革靴を履いたソ連兵が土足のまま部屋に入ってきて、愛用のドイツ製カメラやお金になりそうなものをことごとく持ち去ったそうです。私はその時母のお腹の中にいて、8月28日に生まれました。

 

母が語らなかったこと、聞けなかったこと

敗戦の日から引き揚げまで、危険な目に遭われたことなど、ご両親から聞いておられませんか?

中村 父は技術者でもあることから、比較的優遇されていたそうです。また当時満州に残された同胞の女性はみなそうですが、母は頭を丸坊主に顔には泥を塗り、男のような恰好をしてソ連兵に目を付けられないようにしていたそうです。

「収容所」という言葉も聞きましたが、その辺の詳しいことは話してくれませんでした。ただ母は常々万感の思いを込めて、「陽子、あんたを苦労して連れて帰ってきたんだよ!」と言っていましたが、このひと言に、筆舌に尽くせない辛い記憶が秘められている気がして、私の方もそれ以上問い質すことができませんでした。

陽子さんのお名前にまつわるエピソードがあるそうですね。

中村 父はもしも夫婦が別れ別れになったときのために、生まれてくる子供の名前について、母にこんな風に伝えていたそうです。生まれた子が男だったら、工場建設に尽力して受けた「功績章」の「功」あるいは「章」の字を! 女の子だったら瀋陽(旧奉天市)の「陽」の字をと!

現地中国人夫婦から、陽子さんを譲ってほしいという申し出があったそうですね。

中村 親しい中国人夫婦から「子連れで引き揚げるのは大変でしょう、大切に育てるので陽子ちゃんを私たちに譲って」と頼まれたが断ったという話も聞きました。

親子三人無事に故国の地を踏めたこと、想像を絶する苦労の果てに、私を守り日本に帰ってきた両親に、感謝の気持ちでいっぱいです。

◆(左)大日本国防婦人会?、最前列真中の三人のうち左側が母です。(中)母・秋子さん(34歳)昭和19年2月20日 北京街道にて、シュラバーにモンペーに防寒靴 物凄い姿でせう。(右)道教の寺・娘娘廟のお祭(娘娘(にゃんにゃん)祭人形)

引き揚げはいつ、どのように行われたのですか?

中村 引き揚げは昭和22年9月で、佐世保の浦頭に着きました。私はこの船中で二歳の誕生日を迎えました。浦頭には叔父が迎えに来てくれていて、近くの農家で卵やトマトを分けていただいたのですが、母はあまりにも疲労がひどく、食べることができなかったそうです。

◆日満連絡船:うすりい丸

◆詳細不明

後年、中村さんご一家4人でご両親を連れ、佐世保港の"引揚第一歩の地"を訪ねられたそうですね。

中村 はい、子供たちが大学生の頃、年老いた両親を連れて"引揚第一歩の地"の碑があるこの地を訪れました。
また後年、その場所からハウステンボス(かつて引き揚げ援護局があった場所)の近くを通り、JR九州大村線の南風埼(はえのさき)駅にたどり着きました。
駅前は寂れ、今は無人駅になっていて、ホームに上がるとぺんぺん草が生い茂っていました。記憶は全くありませんが、往時を偲び、いつまでも涙が止まりませんでした。 

◆左: 佐世保市浦頭埠頭にたつ"引揚第一歩の地"の碑   右:JR九州大村線・南風埼(はえのさき)駅

今年初めて、博多港への引き揚げ者たちでつくる市民グループ「引き揚げ港・博多を考える集い」の世話人会に参加されたそうですが、今後の活動のご予定は?

中村 戦争を体験した方々はもちろん、その話を語り継ぐ世代も年々少なくなりつつあります。私たちが最後の世代かも知れません。穏やかに暮らしていた無辜の人々が、戦争に巻き込まれた歴史を風化させないよう、両親が生きた証を語り継いでいきたい。また父が残した写真を多くの方に見ていただける機会も設けられたらと考えています。

(追伸)平成25年になって、引き揚げ時の没収物が返還されました。

中村 引き揚げた時国から経済が乱れるからとの理由でとり上げられた、満鉄の社員通帳、郵便局の積立通帳、生命保険証券が 博多税関、門司税関に照会して、横浜税関より返還されました。

平成二十五年テレビニュースで、多くの預かりものが毎年虫干しされていることを知り、もしやと思って、照会したところ、遺っていました。横浜から電話があった時、胸にこみ上げてくるものがあり、しばし、声が出ませんでした。母が亡くなった翌年でした。

 

 

 

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