潟洲町青春記◎福高数学研究部と私 住田章夫new

      2025/07/28

面白きかな「和算」の迷宮ー福高数学研究部と私 住田 章夫

■ 私のスポーツ遍歴

 高校時代の私は、「故佐藤光男君に捧ぐ“君がバーチカル人生”」に記したように、仲間たちと毎日昼休みのバスケットボールに夢中であった。それもバスケット部でもないのにである。その方がやれインカレや県大会と部活動に縛られず、ただひたすら「クラスマッチ」のみを目指して走るので、実に楽しかった。

 ところが大学に入るや否や、今度は「弓道部」に入り、毎日、正門をくぐると道場へ真っしぐら。そして稽古の途中、単位に必要な授業のみに出席。皆が興ずる麻雀・パチンコには「亡国遊戯」と蔑んで近寄らなかった。
 御陰で学生弓道10万人の中で、日大の久田、九大の住田、僅か二人の「学生五段」を取得できたものの、バチが当り「留年」を喰らってしまい、親を泣かせた。そして思い出すのは、全九州大会を目指す夜間稽古の最中(1968年6月2日午後10時48分頃)、米空軍F4ファントム偵察機が、丁度建設中であった九州大学大型電算機センターに墜落し、炎上のさまを茫然と見上げたのも青春時代であった。

■「和算」との出会い

 話を戻そう。福高校友誌に載った文化祭のポスターを見て思い出した。「あっ、これは俺が描いた絵じゃないか。文字も俺の字だ」。息子に出会った気がした。「数学研究部」での思い出は今や霧の彼方へと消えつつあるが、所属していたことに間違いはない。

 高校時代は部活動に拘束されて、受験勉強に支障が出てはと思いながらも何かを探求したい。そこで文化部を眺めて、マイペースでやれるものは何か?を探すと数学研究部が「君は和算を知っているか」のポスターを貼り出している。微分積分は苦手だが、歴史は好きだ。そこに聞いたこともない「和算」の響き。

 「和算」は中国から多大な影響を受けた。唐の時代、「九章算術」と呼ばれる数学書では既に比例、反比例、ピタゴラス定義が紹介されていたらしい。我が国では大宝律令で「算師」なる官職が定められ、万葉集でも「八十一不在国(くくあらなくに)」との読み句に、既に「九九」が当て嵌められているのも面白い史実である。
 本格的に普及するのはやはり江戸時代。初期に吉田光由の「塵劫記」がベストセラーになり、「ネズミ算」の遊びも流行った。
 和算を確立したのは中期、甲府藩勘定方の関孝和である。代表的なのが「円理」。玉の体積や、表面積を孝和は円に接する正多角形の辺の長さを使って、円周率を「11桁」まで正確に割り出した。これが和算の真骨頂といえる。
 そして幕末に至っては、技術官僚は「咸臨丸」の航路計算に和算を用い、建築作図においても規矩術は和算で整備され、明治以降でも銀行、商店など商業全般に「珠算」が国の発展を支えた。

 当時の数学研究部の部員は10名足らず。活動はサインコサインの正統派とネズミ算に興じた奔放派であったが、文化祭はきっちりスクラムを組んだ

 

◆左:住田章夫制作の「数学研究部」ポスター、右:小学校で習った鶴亀算も「和算」の一種

 

 

 

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