潟洲町青春記◎福高「帰宅部」と私 関 忠
2025/08/14
つめ襟・制帽・坊主アタマ—福高「帰宅部」と私 関 忠
はじめに
クラブ活動には一年生の時に音楽部に入部したのですが、イメージしていたものと違ったためか、だんだんと離れてしまい、いわゆる「帰宅部」にお世話になることになってしまいました。
ここに紹介するのは、そんな私が未だ「関 忠」として立つ前の、フワフワした日々を思いつくままに綴ったものです。他の皆さんのように、「スゴイ!」とか、「サスガ!」とか称賛を受けるような記録はありませんが、笑ってお読みいただければ幸いです。 関 忠
■ 初めての授業でカツ!
「いいか君たち、大学入試でS館高校には絶対まけたらあかんぞ!」
英語のM先生は、教壇に上がるなり教室中に響きわたる大きな声で言った。福高に入学した、最初の英語の授業のことである。
「なにがなんでも九大の合格者数でS館に負けたら、先輩として承知せんからな! これから3年間、肝に銘じて勉強しなさい! いいか負けたらあかんぞ!」
M先生の話によると、S館高校との競争は、昨年は「負け」で今春は「勝ち」だったらしい。つい数か月前まで中学生で、ようやく高校入試が終わってホッとしている新入生にはショックであった。入学直後からいきなりの大学入試の話…。
■ 早弁、テスト、三群縦走…
しかし5月が過ぎ、3時限後の早飯・早弁当に慣れる頃には、この叱咤激励の話は忘れてしまっていた。まだまだ2年以上先の大学入試より、毎日の授業、目の前の課題をいかにラクしてやり過ごすか、学期ごとの試験をいかにラクしてやり過ごせるか、それだけに注力するナマケ番長の高校生になっていた。
宿題が出されるとその1問目だけ解いて授業に出席した。1問目の解答を他の生徒が指名されると、その生徒が答えている間に、次の2問目を慌てて解いて指名に備えるという綱渡りの毎日。他生徒の解答を吟味する余裕などありはしない、その場しのぎの自転車操業的やりくりの毎日であった。
こんないい加減な勉強の結果、学期末試験中は前夜に半徹夜で次の日の試験科目に目を通すという毎日が続いた。さすがに最終日の前夜には疲れている。この次の学期試験の時には半徹夜の連続をしなくても済むように、日頃から予習復習をキッチリして余裕をもって試験に臨もうと強く思う最終試験日の前夜であった。
しかし学期試験が終わったら、前夜のアノ強い決心はどこかに忘れてしまっていた。再びいい加減な自転車操業的勉強に戻っていった。
そんなお気楽な高校生活だったが、クラスメイトとの付き合いは楽しく、1年生の秋には若杉山、三群山、宝満山を踏破する三群縦走を敢行、そして3学期には冬の背振山に登った。。
■ 受験生のテーマ曲「大学祝典序曲」
同じ福高生で当時受験生だった兄が、トランジスタラジオで「旺文社の大学受験ラジオ講座」を聴いていた。そこで流れていたテーマ曲を、懐かしく感じる方も多いことと思う。
♪~スチャチャチャチャ・チャ~ スチャチャチャチャ・チャ~で始まる、快活なメロディー。ブラームスの「大学祝典序曲」の一節である。
クラシック音楽好きの私には心地よく耳に響いていたこの曲だが、全国の受験生には"祝典"どころか地獄への行進曲に聞こえていたかもしれない。
■ 衝撃のブラームス
昭和37年4月、いつもの詰襟学生服、坊主頭に制帽姿の高校生は、一人で福岡スポーツセンターへ、「アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団」の演奏を聴きに行った。2年生に進級したばかりで6組であった。
6組は講堂横の教室で、窓からは校門の向こうに潟洲町の電車停留所が芽吹き始めた銀杏の大木を通して見えていた。校門両脇には造り酒屋の木造蔵とテニスコートがあった。クラス編成替えがあったばかりでクラス全員の名前はまだ憶えていない。
「アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団」は、もちろん初めて耳にする名前である。何の予備知識もない。今思えば、新聞で演奏会があるのを知りチケットを手に入れたのであろう。自由席800円であった。
演奏会場の福岡スポーツセンターは、屋内型の複合スポーツ施設で天神にあった。毎年11月には大相撲九州場所が開催されていたのでよく知っている所である。
スケートリンクになったりプロレスの興行があったり、収容観客数が多いのが特徴だが、音響効果など全く考慮なしの建物である。800円の自由席はスポーツセンターの鉄骨の半円天井に近い2階にあった。そこは仮設の舞台を斜め上から観る位置であった。
当日のプログラムはナントかというオランダの現代作曲家の作品と、モーツアルトの交響曲、メインはブラームスの交響曲であった。前半の2曲についてはあまり記憶がない。
休憩を挟んでメインのブラームスが始まった。衝撃だった。ブラームスの交響曲第4番、冒頭の弦楽器群の美しい調べは、まるで天から美しい音が降ってくるようであった。
詰襟学生服に制帽の高校生にとって、会場が体育館であることなど問題ではなかった。世の中にはとんでもない曲があるものだと素直に感動した。
※筆者注
「アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(Concertgebouw)」は、Concertgebouwの綴りから想像できるように、オランダ・アムステルダムに本拠を置くオーケストラ。ヨーロッパ有数の歴史があり、近年はロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団と呼ばれている。
遥か東洋の地方都市福岡の体育館で、よくぞ演奏会をやってくれたと今では思う。当時「電気ホール」というコンサート会場が渡辺通一丁目の交差点前にあったが、収容人数が1000人ちょっとで、採算が取れなかったのだろう。
■ フッコーセーカ?
ある夏の日の昼さがり、堅粕東光院近くの細い道でのこと。あと二つばかり角を曲がると目的の姉が住む銀行社宅である。伝える用事があり、一人急ぎ足で歩いていた。
向こうから来る同年輩らしい二人とすれ違った。しばらくすると急に二人はわざわざ引き返してきて行く手を遮った。そして曰く
「チョット、マッチャアランヤ」
「ドコニ、イキヨウトヤ」
黙っていると
「ドコニ、ナンシニ、イキヨウトヤ」と、二人は、左右から何やかやと言いがかりをつけてくる。
どう対応したらいいのかわからず、私はこの先の家に用があって行くのやと言うのがやっとで、あとはオロオロするばかりであった。
そのうち一人が言った。
「オマエフッコーセーカ」私は意味が解らずに黙っていると
再び「オマエフッコーセーカ」と聞いてきた。
それでも判らずに怯えて押し黙っていると
「オマエ、フッコウセイとチガウンカ?」
やっと判った。「オマエ、福高生か?」と聞いてたんや。それで、そうやと答えた。
すると、二人は離れて何やら相談し始めた。
そして「もう、行って良か」と言って、そこを離れていった。
私は???? 何が何だか解らんかった。
おとなしい福高生にたかったりしたら恥になると、彼らのプライドが許さなかったのか。それとも福高生は優等生なので恐れ多くて、ケガなどさせてはいけないと思ったのか??
不可解??? ではあったがとりあえずセーフだった。
■ 修学旅行 ①映写会で予習
3学期も終了間近のある日、2年生全員が講堂に集められ、修学旅行先の京都、奈良、飛鳥などの事前情報を得るための映写会が開かれた。
「あおによし‥‥」で始まった春の奈良の紹介シーン。小川の流れと可憐な草花、奈良・斑鳩の里の長閑な映像のバックに流れる緩やかなメロディー、それはベートーベンの交響曲「田園」の2楽章の冒頭のクラリネットのソロ部分だった。
しかし映写機の回転速度の震えで、クラリネットの音が尺八の様に震えに震え、無残な調べが講堂に響いていた。今でも修学旅行を思うと、講堂でのこの残念なシーンが蘇ってくる。
■ 修学旅行 ②坊主アタマ集団九州を出る
3月20日、修学旅行の団体夜行列車は移転前の旧博多駅を発車した。
それまで九州から一度も出たことが無い私は、関門海底トンネルを抜け、初めて本州の地に足を踏みいれた。明け方の神戸を列車が通る時、車窓から見えた神戸港のクレーンの大きさが忘れられない。大阪駅の長距離列車到着ホームのズラッと並んだ水道栓で顔を洗った。その日は貸切バスで大阪・奈良を移動したらしいが、眠たくてバスの中では寝てばかりいた。
「あおによし‥」の奈良の都のどこをどう観たのかサッパリ記憶が無い。
■ 修学旅行 ③京都の夜の冒険
その日の夜は自由行動の日だった。チームを組んだT君とM君と私の3人は、宿泊先の本能寺会館からどこに行こうかと迷っていた。
誰かが言った。「京都には地下の中を走る電車があるらしい、乗ってみらんや?」
九州を出たのは初めてのウブな3人は、地下を走る電車に乗りに行った。今思うと、河原町から阪急電車に乗って、西京極の地上駅まで往復したようだ。狭い地下トンネルの中を電車はギシガシャと音をたてて、垂直壁の狭い中を走っただけであった。修学旅行にふさわしくない体験であったが記憶は今でも消えない。
地下鉄(?)初体験をして、河原町駅から宿舎の本能寺会館まで歩いていると、後ろから若い男のグループが何やら大声で話しながら追い抜いて行った。妙になよなよした話し方だと思った。生の京都弁だったのだろう。
しかし九州博多で育った3人は、「なんか"オナゴ"が話ばしようごたあね」と正直思った。これが、ウブな九州男児が精いっぱい羽をのばした冒険の一夜のすべてである。
修学旅行の記録を改めてみてみると、車中泊を含めて6泊の、大阪、奈良(飛鳥橿原)、京都市内、嵐山、嵯峨、比叡山、滋賀石山寺をめぐる旅だった。しかしあまりの内容の多さに、どこがどこだったかよく憶えていない。
■ 衝撃のブラームス その2
ある時、姉(福高5回生)の嫁ぎ先に何かの用事で行ったときのこと。そこにはステレオがあり、LPレコード1枚と何枚かのEPレコードがあった。
LPのジャケットにはブラームス交響曲第1番ハ短調、演奏はボストン交響楽団で初来日記念盤と書いてあった。
聴いたことが無い曲だったので、ステレオをオンにし針を載せた。そしていきなり圧倒されてしまった!! 出だしのその響きとハーモニーに、坊主頭の高校生は釘付けになってしまった。どうしたらこんな曲が生み出せるのかと思った。曲は50分前後であったが、2回連続して聴いてしまった。こんなすごい音楽をやれたらいいなあと素直に思った。
■ 小林先生のガリ版刷り問題集
3年になり大学受験対策として模擬試験が行われるようになった。試験の出題範囲は限定なしの実力試験だ。これまでの自転車操業的その場しのぎの勉強なんか全く通用するはずがなかった。
秋の体育祭が終わると、いよいよ間近に翌年3月の大学入試が迫ってきた。これからは入試めがけて本格的に受験勉強をしなければとさすがの私も思った。
化学の小林先生から渡された、ガリ版刷りの分厚い藁半紙の問題集、それには教科書には載っていない化学の公式と問題が手書きで多数記載されていた。
「いいか君たち、この状態方程式は重要だぞ。ホラ、みんな赤鉛筆で五重丸、五重丸で大きな印をつけとけよ」
「いいか、この計算はモル数で計算するんやぞ! 気体定数は言わんでも、わかっとるな!!」
晩秋の化学の受験向けの補習は、熱血に溢れついていくのがやっとだった。今思えばあの分厚いガリ版刷りの問題集は、先生がガリガリと鉄筆で毎年刻まれたものだろう。
教科書には記載されていない公式や計算式を、このガリ版刷りで理解するにつれ、それまでの各大学の過去問題も解答を導きだせるようになってきた。化学の入試問題を突破できたのは、まさに小林先生のこのガリ版刷り問題集のおかげであったことは間違いない。
■ ジョン・F・ケネディの葬送曲
大学受験のための補習と模擬試験に追われていた3年の秋、アメリカから初の太平洋をまたぐ衛星生中継を行うとのニュースが、テレビや新聞で大きく報道されていた。その最初の衛星生放送で送られてきたのは、なんとテキサス州ダラスで発生した第35代アメリカ大統領ケネディ暗殺の悲報であった。
後日衛星放送で、ケネディ大統領を送る葬儀セレモニーのようすが放映された。葬儀の馬車行列が進むワシントンの街中や見送る人々の姿を、白黒テレビが映し出していた。その映像を包み込むように、馬車を牽く馬の蹄の音と少しばかりの解説、後は忘れる事が出来ない静かで美しい音楽が、放映中途切れることなく流れていた。
その厳粛な音楽は、テレビ放送後も耳から消える事はなく、忘れられない一曲となった。その曲が、アメリカの近現代の作曲家サミエル・バーバーの「弦楽のためのアダージョ」と判明したのは、放送から数年後の事であった。
■ 定時制の同朋たち
受験が迫り、夕方遅くまで図書館の自習机でノートや問題集に取り組み、暗くなってから帰宅する毎日になった。下校のため校門を出る時、沢山の登校生徒とすれ違った。定時制で通学される人たちであった。昼は職場で働き勤務後の夜に勉学されている人たちである。私とほぼ年齢的には変わらない人たちであった。
すれ違うたびに、私はなんだか定時制の生徒さんに申し訳ないというような、不思議な気持ちを持つようになった。そして入試のためではあったが、手抜きをせずに心を込めて勉強に集中するようになった。







