最終章 王子製紙グループ 協栄木材(株)回顧録

      2019/09/16

◆鹿児島の透明な海

 

創業50周年節目の子会社社長に就任

 2003年(平成15年)6月26日、私は東京から鹿児島に到着、協栄木材について、事務所で現社長から引継ぎを受けた。会社は、鹿児島市の中心部にあって、自社ビル3階建で、1、2階はテナントに貸しており、3階が事務所になっていた。

 引継内容は、明日、城山観光ホテルで、定時株主総会が開催され、新社長に指名されること。総会と同時に協栄木材が創立50周年を迎える、今回は社員全員を招集して記念パーティーを開催すること。新社長としての就任挨拶をお願いすること。等であった。また、50周年を記念した社史「翔」が出版されており、寄贈頂いた。

 翌日、総会では、50年と言う節目の社長として、社業の発展拡大に微力ながら努力すると言うようなことをスピーチしたと思うが余り記憶にない。ただ、翌朝、城山観光ホテルの温泉から桜島の雄大な景色に感激したため、借り上げ社宅を、鹿児島中央駅から歩いて10分弱、桜島の雄姿が目の前に見える甲突川(こうつき)沿いのマンションの11階に決めて、7月8日正式に赴任した。

◆マンション11階からの眺望 朝夕眺めて癒された桜島の雄姿

 協栄木材と王子製紙の関係は、王子製紙の持ち分法適用子会社であり、王子製紙が出資している会社であり、役員の人事、年度ごとの経営計画、営業成果(決算報告)等は王子製紙日南工場長への説明了解が必要である。一方王子製紙からは、公認会計士を派遣して、会計上の指導助言を受けたり、コンプライアンス経営のための就業規則の改定、社長の業務内容のチェック等大企業でなければ分からない事を丁寧に教えてくれる。

 協栄木材についての業務内容は、緑資源公団からの造林請負、民間立木購入による素材生産、王子日南工場へのチップの供給、フローリング生産事業、製材生産、不動産収入等である。

◆協栄木材の主な業務:HPより抜粋

 鹿児島には本社のほかに、鹿児島出張所、フローリング工場、宮崎には綾出張所、日南出張所、日向出張所、熊本には球磨出張所がある。役員、社員は25名程度であるが、この中には実際の作業は現業員として別にカウントされており、さらに造林、素材生産は地元の作業班を雇用していることから、業務に関係する人員は60名程度である。年間の売上高は13~15億円程度である。

◆社長室

社のリストラクチャリングに着手

 記念史の資料の業績推移をみると、売上高、営業利益、税引前利益は過去3年間明らかに減少傾向にある。その原因を調べてみると、チップ生産、フローリング事業がピーク時に比べて半減していることがわかった。このうちチップ生産は、回顧録で繰り返し述べている安い輸入チップにとって代わられて、国産材は必要最低限の調達に押さえられたことにより、対策の打ちようがなかった。

 そこで、フローリング事業を調べてみると、ピーク時は、四国、南九州、沖縄を主産地とする原木イスノキからのフローリング材が人気で、協栄木材と言えばイスノキのフローリングと言うくらいだったが、イスノキは成長が遅く徐々に資源不足となり、私が来た頃はカバ、ナラ、シナ等の一般品になって、売上が伸び悩んでいた。

 一般品であっても、生産性と品質(不良率の削減)の向上を図るために、操業当時の工場長を顧問として招聘したりして、対応をとったが、中国産のカバフローリングの値段が当社の半値だったことから、30年続いた事業の閉鎖を決断した。     
2005年3月、鹿児島市東開町にある工場を訪問し、15名ほどの現業員に工場を閉鎖し、残念ながら全員を解雇することを告げた。現業員達も、うすうす気が付いており、特段の反論もなく受け入れて頂いた。

 その後、工場を撤去し更地にして、売却もしくは賃貸借の情報を期待したが、帯に短かし襷に長しで、暫く経過したが、2007年5月東開町に新たに進出してくるイオングループと駐車場用地として月額200万円の賃貸借契約を締結した。フローリング事業の赤字は年間2千万円ほどだったものが、逆に2.4千万円の収入になる。会社の収益が大幅に好転することになり、この土地を確保した先人に感謝した。

グループ全社のネットワークが完成

 話は少し遡るが、2004年6月、全社ネットワークシステムが完成し、工場、出張所とのパソコンがつながり、遠く離れていても、色々な情報を瞬時に共有でき、より効率的な運用が可能になる事を期待し、各所から主な業務(トピックス等)を週間報告形式で毎週月曜日に本社担当までメールで報告することにした。これを見ると、先週の業務内容、今週の計画が、所長、所員別に毎日の行動がわかった。時々出張所に出張しても業務の内容がメールで届いており現場と照合して理解できた。また協栄木材のHPも更新した。

 鹿児島は、桜島の降灰と台風の上陸で有名であるが、噴火は結構発生していたが降灰については、全く珍しい事に、在職中の4年間市内中心部には、ほとんど降らなかった。台風は2004年16、18、21号が来襲して素材生産現場、工場に被害が発生したが、保険をかけていたため、請求金額に対して、92%の回答があり、充分に満足した。

半生を過ごした王子製紙グループを去る日

 私の社長の任期は「関係会社規定集」により、社長就任の時から、2007年6月末の総会で退任することが決まっていた。退任1年ほど前から、休日を利用して、母親のお見舞いを兼ねて福岡に行って、終の棲家探しをしていた。香椎浜、千早、高宮、桜坂、西新、等のマンションを調べて、見学したが、散歩しやすく、交通の便もよく、海に近い場所の条件にぴったりの現在住んでいる地行の新築マンションに2006年8月に決めた。退任まではまだ10か月あったが、毎月、マンションの部屋の換気と郵便箱の整理に通った。

 後任社長と私が社長就任と同時に協栄に出向、取締役事業部長として活躍した部下を王子本体に戻す人事を私は2年前から決めていた。その案を王子製紙本社説明、了解を得て、王子日南工場長も承認して、6月29日に退任した。

◆退職日社員から贈られた花と私

王子製紙グループとともに歩んだ39年をふり返って

 1968年(昭和43年)王子製紙に入社し、北は北海道から南は鹿児島まで転勤して39年間、山林関係の業務一筋にありのままの自分を出して、余り妥協もせずにやってきた。しかし退職して12年も過ぎると、王子製紙時代に、もう少し上司に気を遣い、忖度して仕事をしていれば、別の道も開けたのではとも考えるが、三つ子の魂百までの例え通り、性格は変え難く、今後は健康に留意して明るく楽しく長生きしたいと思う。

 

 

 

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