明治150年と「小国主義」

      2019/02/10

 

明治150年を紐解く

 前回、「マルクス生誕200年」を種にしましたが、2018年は「明治150年」でもありました。1968年の明治100年の記念式典は、当時の佐藤栄作首相の下で、1万人余が出席し、天皇、皇后臨席で「天皇万歳」もあり、盛大だったようです。

 今回も10月23日に政府主催で式典が開催されましたが、300人余の出席者で、両陛下の臨席はなく、3つの野党の代表者が明治150年を一括して祝うことは問題だとして欠席しました。宮内庁によれば、天皇、皇后には政府から出席の要請がなかったということですが、天皇と安倍首相の確執をはやしたてるネットの記事もありました。

◆写真:明治期の景観(出典/長崎大学付属図書館) 左から、東京・初代帝国ホテル、築地居留地、横浜税関、横浜港大桟橋

 

日独シンポジウムで基調講演

 この12月(13-14日)にドイツのハレ-ヴィッテンベルグ大学で「明治維新の遺産―民主主義への道(1868年-2018年)」をテーマに日独シンポジウムが開催され、基調講演をする機会がありました。

 ハレ-ヴィッテンベルグ大学は、1502年に創設されたヴィッテンベルグ大学と1694年に創設されたハレ大学が、1817年に統合して、マルチン・ルター大学/ハレー・ヴィッテンベルグとなりました。これからも分かるように、ヴィッテンベルグ大学は、宗教改革を主導したマルチン・ルターが神学部の教授をしていた大学です。また、ハレは、音楽家ヘンデルの生誕の地でもあります。

◆写真左:ハレ-ヴィッテンベルグ大学 右上:マルチン・ルター像 右下・ヘンデル像(ハレ・マルクト広場)

 シンポジウムは、私の30年来のドイツの友人がコーディネートしてドイツから7人、日本から5人の研究者が報告にたって、討論しました。私は、もちろん日本史の専門家ではないので、話の中身に迷いましたが、「戦後70年余、日本国憲法とともに生きてきた日本の一市民・法学者」という立場を切り口にすることにしました。そこで、テーマは、「明治150年と日本国憲法」、論点を150年の間の「断絶と連続」、そしてキーワードを「小国主義」としました。

 

「富国強兵」と「強兵なき富国」

 明治150年は、前半(1868-1945年)と後半(1946-2018年)の2つの日本に分かれます。前半は大日本帝国憲法(1889年制定)の下「富国強兵」、後半は日本国憲法(1946年制定)の下「強兵なき富国」、つまり、一方は、戦争と植民地支配に突き進み、軍事力によって国を栄えさせる、他方は「戦力不保持、交戦権否認」(憲法9条)の建前のもとで経済成長にもっぱら関心をもつ、というものでしたから、ここには大きな断絶があるといえます。

◆大日本帝国憲法

◆日本国憲法

 この2つの日本の断絶は、いわば紋切り型の理解です。実際には、富国強兵の時代にもそれに反対する思想、理論、対立する政治的行動があり、少数ながら非武装平和主義も有力に主張されていました。他方、強兵を否定した戦後も安保条約に基づく米軍の駐留、自衛隊の設置、近年では安倍政権による自衛隊の国際的活用と軍事力の増強、そして9条改正の企図があり、断絶は截然と分かれる一色ではなく、まだら模様でそこに連続性が垣間みられます。

 「小国主義」は、いまどき流行らない表現ですが、日清戦争までの日本では、国の針路として、アジアの「小国」の自覚の上に、朝鮮・中国への軍事的進出を否定して、両国と親和・連携し、立憲主義的民主的な国として自立し、文化的発展を示して欧米諸国に対峙するという考え方が1つの有力なものとして論じられていました。このような立場が「小国主義」と呼ばれています。

 これに対するのは、「大日本主義」であり、軍事力をもってアジアに日本の権益を拡大するという針路です。日本の歴史学では、日清戦争によって、この針路が決定的になったという理由で、戦前日本をさらに日清戦争前後で分けるという議論をしています。

 重要なのは、このような「小国主義」が、私たちの世代が少年期をすごした敗戦後日本において、再び新生日本の針路として強く議論されていたということです。憲法9条の平和主義は、まさに徹底した軍事的小国主義の表現だということができます。つまり、明治初期の建国の時代に国の針路として議論された小国主義は、敗戦後の日本の新しい建国に際しても、今度は憲法に支えられて国の針路として求められたのです。そうだとすれば、明治初期と敗戦後の昭和の時代は、建国の針路をめぐる議論について、連続性をもって語りうることになります。

 

少年の心を満たした三つの誇り

 私は、自分の少年時代を振り返って、日本という国のイメージについて話しました。少年の日の私にとって、3つの日本自慢がありました。

 第1に日本人初の湯川秀樹博士のノーベル賞受賞(1949年)、第2に、白井義男がプロボクシングの世界フライ級チャンピオンになったこと(1952年)、そして第3に、南氷洋捕鯨オリンピックでの日本の優勝です。最後の点を解説すれば、1946年から1959年までクジラの捕獲数の上限を定め、参加国がこの枠内で捕獲数を競うという国際的仕組みがあり、これが捕鯨オリンピックと呼ばれていました。日本のライバルはノルウエイでした。

 小学校では、日本は戦争に負けて「大日本帝国」からただの「日本国」になったのだから、「日本」はNippon ではなく、Nihonと読むのだと先生から教わりました。ただし、念のためにいうと、これについての公式の決定はなにも存在しません。

 また、いまでも覚えている印象深い歌があります。「段々畑、段畑、よい子が種をまきました。よい子の種まき 何植えた。明るい日本になるようにきれいな花やら豆の種」。私の少年の日の日本は、たしかに、小国主義の日本が見合っていました。

 

今選ぶべき「オルタナティヴ」は?

 70年余の間に、戦後日本という国は、もちろん大きく変容してきました。経済的にみれば、日本はまぎれもなく世界の大国の1つとなりました。経済大国にふさわしい、政治大国、そして軍事大国を目指す政治が進んでいるように見えます。

 この中で明治150年をあらためて振り返る意義は、150年を通じて「大日本主義」に対する「小国日本」のオルタナティヴが強弱はあれ絶えず存在し、戦後には憲法9条とそれをめぐる対立に現れているそのような歴史を尋ねることではないか、講演の結びはこうでした。

◆写真:ミュンヘン市庁舎前のクリスマスマーケット

 

 

 

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