坂が見つめる栄枯盛衰物語 坂の城下町 杵築行

      2019/02/10

 

昔、美女だった"微妙齢"の3人が…

毎年晩秋に、大学時代の友人3人で旅行をしている。今年は私が幹事ということで、以前齋藤さんが「寅さんの旅」で紹介して下さった坂の城下町・杵築(大分県)を訪れることになった。

メンバーは、元大阪府庁勤務の旦那さんを持つM子さん。娘さんが3人、孫6人。民生委員、保護司などのボランティアを長く続けている。

もう一人は、元CAで離婚経験者のE子さん。元旦那が遺した負債を返し終え(連帯保証人だったため)、女手一つで二人の子供を立派に育て終えた、シングルマザーの鑑のような人。現在も会社勤めを続けながら、油絵教室、ワインとグルメを楽しむ会、ご近所との麻雀サークルなどに参加して楽しそう。そして私である。

会話をする上でのタブーは、私がM子さんに「ご主人と長く仲良く暮らす秘訣は?」などと尋ねてはいけない。また私とE子さんで、「年金が少ない、公務員はいいよね~、だいたい公務員ってばさ~」などとウッカリ愚痴を言ってはならないことだ。(笑)

話の途中で「あっ、まずい!(-_-;)」となるので、気をつけなければいけない。ははは。

 

高台に武家屋敷、谷間に商人町

さて…杵築は国東半島の南の付け根に位置する小さな城下町である。戦国時代には大友氏の家臣木付氏の所領地であったが、宗麟亡きあと大友氏が急速に衰退したのちは、徳川の譜代大名能見松平家3万2千石の城下町となり明治維新まで続いた。



◆写真左:北台の「酢屋の坂」から南台の「塩屋の坂」を望む。二つの坂は谷町通りを挟み、向かいあうように一直線に伸びている。右上:勘定場の坂 右中:武家屋敷通り 右下:商人が住む谷町通り

杵築の特徴は何といっても坂道が多いこと。杵築城天守閣から市内を遠望すると、南北二つの高台に家老職など上級武士が住む武家屋敷が広がり、中央の谷の部分に町人たちの居住地が配置され、幾つもの坂道で結ばれているのが分かる。

 

坂の名前に残る杵築の歴史

坂の名前の由来は…かつて谷町から南台へ昇る坂の下で、酒屋を営み財をなした塩屋なにがしという豪商が、次に北台への坂の下で酢屋の商売を始めたことに由来する。それぞれの商いから、「塩屋(志保屋 )の坂」「酢屋の坂」と呼ばれるようになったとか。いつの世も、富を手にする人間は目のつけどころと行動力が違うな~と感心。

また写真右上の「勘定場の坂」は、収税や金銭出納の役所があったことからこう呼ばれた。藩主及び武士のみが通行し、ゆるやかな傾斜と石畳の広い石段は、馬や駕籠かきの足に合うよう造られている。

坂の上から眺める景観はダイナミックでドラマや映画にもたびたび登場。この風景を見るだけでも訪れる価値のある町だが、景色以上に、江戸時代の武士や町人たちの暮らし、大分の特異な歴史をうかがい知ることができる貴重な遺産でもある。

 

島津の大軍を撃破した西の要衝――杵築城


杵築城は守江湾に突き出た高台にあり、三方を海と川、背後を山に囲まれて、小さいながらも堅固な城。 戦国時代には、この地に侵攻した島津の大軍を2カ月の籠城の末撃破したため、「勝山城」と呼ばれたとも伝えられている。

杵築にはおよそ4時間の滞在で、ボランティアガイドさんに案内をお願いした。
(1時間500円)
おもてなしの心溢れる熱心なガイドさんで、杵築をさらにメジャーにしたいという熱意が伝わって、忘れられない旅となった。

◆杵築の旅の締めくくりは、武家屋敷の和カフェでまったり。

 

 

 

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